うわさ・台風・そして青空
〈前回まで〉H市でフランチャイズ学習塾塾長を務める砂田は、社長小谷から聞かされた本部社員間で流れているという、妙な噂ばなしのことを知った。
それは砂田の部下の講師二人が生徒を引率したサマーキャンプでいかがわしい行為、つまり「性行為を行っていた」というものである。
だが砂田には信じられなかった。「あの二人に限ってそんなことがあるはずがない、これは何者かが仕組んだ罠ではないのか?」
深い疑念を抱いた砂田は「放ってはおけない」と、翌日から真相解明のため行動に着手した。その手始めは、噂の対象になっている講師二人に事情を聞くことであった。
2
「はい南です」発信音が二度鳴った後、若々しい澄んだ女性の声が受話器に響いた。南三枝が直接出たので砂田はホッとした。
「砂田です。今晩は」 浜岡の母親の時とは違って、今度はやや砕けた調子でそう応えた。
「あら砂田塾長、珍しいですわねえ、こんな時間にお電話くださるなんて、いまどちらからですか?」
「事務所ですよ、事務所。いや大阪での打合せ会議からの帰りなんだけど、ちょっと気になることがあってね。それについて今夜中に確かめておきたいと思って」
昼間聴く声とまったく変わらない三枝の明るくて屈託のない返事に、砂田はどう切り出すべきかを思案しながら、とりあえずそう言った。
「へえー、塾長が気になること。それでそのこと、この私に何か関係あることなんですか?」
普段とは少し違った砂田の調子に気づいたのか、三枝が少し声のトーンを上げて応えた。
「うーん、どうだろう。それは聞いてみないと分からないんだけど。実は君に電話する前に浜岡君にもかけたんだよ。ところが彼あいにく留守でねえ、なにか十日ぐらい前からパン屋でアルバイトしているとかで」
「浜岡さんですか、。アッそうだわ。彼はついこの前から二時まで働いているんです。十二月までの五ヶ月間だけですけど、少しでも豪華な新婚旅行がしたいと言って。わたしは反対したんです。国内旅行でいいから、そんな無理しなくていいって。でも彼きかなくって。そのこと塾長にまだ話していなかったのですか。 駄目だなあ、どうもそういうところが優柔不断で、それはそうとさっきのお話、浜岡さんと私に関係あることなんですか?」
「うん、まあそうなんだけど。でもこの話、君にはなんとなく聞きにくいなあ。やっぱり朝まで待って、最初は浜岡君に聞くほうがいいかな」
これから訊ねようとしている内容について、とんと想像がつかないというような三枝の屈託のない声に文夫は次第に気勢をそがれていき、今回の問題について三枝に最初に言うのは止めようと思ったのだ。
「言うのを止めるって、何ですかそれ。 何か塾長までが優柔不断になったりして、何のことだか分かりませんが言ってくださいよ。そうじゃないと気になって今夜眠れなくなりそうですもの」
「うーん、どうしよう。そう言われても女性の君に対しては表現するのが難しい事柄なんでね。
でもどっち道、聞かなきゃならないことでもあるし。よし、やっぱり言ってしまおうか、勇気を出して」 文夫の気持ちがまた一転して、この際三枝に一気に訊いてしまおう。という気になった。でもどう切り出そうかと、今度は表現方法について迷っていた。
「いや、実はねえ。変な噂を聞いたんだよ。きょう大阪で小谷社長から」
「変な噂って、それが浜岡さんか私に関係することなんですか?」
「いや、浜岡君か君じゃなくて、浜岡君と君との二人一緒のことなんだよ。つまり個人個人じゃなくって」。
「個人個人じゃない、ということは二人が一緒になって何かをやった。つまりそういうことですか?」
「そうそう、二人が一緒になって何かをやった。まさにそれなんだよ」
文夫は核心をズバッと突いた言い方ができないことにじれったさを感じながら、三枝が何かに気づいてくれないかとしきりに思っていた。
「わたしと浜岡さんが何かをやった。分かりませんわ、塾長。もっとはっきり言ってくださいませんか」 三枝が少しじれったさを含んだ口調で聞いた。
「よし分かった。じゃあ言おう」
文夫はやっと腹を決め、社長の小谷から聞いた、あの口に出すのも憚るような露骨きわまる噂話をこの際三枝にきっぱり言ってしまおうと、気を引き締めるために、いったん腰を浮かした後、改めて椅子に座りなおすと受話器を握った手にグッと力を入れ、今度は本気で話し始めた。
「断っておくけどぼくはそんなことまったく信じてないんだよ。いいね」
「実は小谷社長の話はこうなんだ。七月末の塾のサマーキャンプの二日目の夜のことだけど、
君と浜岡君がキャンプ場の食堂で、なんと言おうか、英語で言えばナースティなこと、つまり男と女がするイヤラシイ事をやっていた。そういう噂が大阪本社の男子社員の間に広まっているということなんだ」
〈 男と女がするイヤラシイことをやっていた 〉
たったこれだけのことを言っただけなのに、文夫は額にべっとりと冷や汗をかいており、受話器の向こうの三枝の反応をうかがいながら左手で大きくそれをぬぐっていた。
「何ですって、いま何とおっしゃったのですか? わたしと浜岡さんがキャンプ場の食堂でイヤラシイことを、いったいそれってどういうことなんですか?」
三枝は一気にオクターブを上げ、驚きの声を発した。
「いや、もちろんぼくは信じてないんだよ、そんなこと。ただどうして大阪の社員がそんな噂を流したのか、その噂の背後に何があるのか、ぼくはそれが知りたいんだよ。君と浜岡君が、子どもたちを引率したキャンプ場でそんな非常識なことをするはずがない。最初この話を聞いたときからぼくはそう確信してたんだ。でもそうであっても、そんな噂が現実に流されているのだから、放っておく訳には行かないでしょう。
いったい誰が何のためにそんな噂を流したのか、それをはっきりさせないといけない立場にあるんだよ、ぼくは。だからこそ君と浜岡君に事情を聞きたいんだよ。なにぶんぼくはあのキャンプには参加していないもんで、状況というのがさっぱり分からないんだ。その辺のことに関して何か気づいた点があったら話してくれないだろうか」
つづく
次回5月1日(木)