2025年7月13日日曜日

「ベストエッセイ2024」を読んで 

 


毎年一冊出るシリーズ本 光村図書の「ベストエッセイ」

ベストエッセイシリーズを知ったのは多分2012年頃でした。ということは全部読んだとして今年で14冊になります。でも読書記録を見直してみると記録は10回程度しか残っていません。あと4冊は未読なのでしょうか、それとも記録忘れなのか、記憶になく定かではありません。


一年に一冊づつ出るこのシリーズ、総じていえば良い出版物だと思います。何しろ著名な作家5名の選考委員があらゆる出版物に前年発表されたエッセイの中から秀作を選び出し、一冊にまとめているのですから、良くないはずはありません。ただ、難点がないわけではありません。それを下に並べてみました。


光村図書「ベストエッセイ」シリーズに対する疑問点


1)なぜ人々になじみの薄い出版社が出しているのか

ベストエッセイは出版物としての重要度はかなり高いのでないだろうか。なにしろエッセイは小説の次によく読まれるジャンルであり、それだけに読者も多い。そのエッセイ一年分という膨大な数の作品の中から秀作だけを集めた極めて貴重な本であるのだ。だがこれを出版しているのは人々にあまり馴染みのない光村図書という教科書専門の出版社であるのはなぜだろう。今回取り上げる3つのうち最も大きな疑問点である。


2)掲載媒体が偏っているのでは(雑誌は純文学系が多い)

ベストエッセイに掲載される作品はあらゆる出版物から選ばれると言われているが、例えばエッセイが多く載っている雑誌の一つに文藝春秋がある。どれくらい載っているかといえば、まず巻頭にレベルの高いエッセイが10編ぐらい、また巻末にはジャンル別(例えばオヤジ、おふくろシリーズ)など数種の連載記事欄にも掲載されている。これらを集めるとエッセイは全部で30作品ぐらいあるのではないだろうか。ということは年間で300以上になる。それなのに今回の「ベストエッセイ2024」に選ばれているのはわずか1作のみであるのは、どう考えても解せない。それに作品の多くが、純文学系(群像、文学界、新潮など)から選ばれているのはバランスを欠いているのではなかろうか。


3)選考員にエッセイストが一人もいない

小説家が良いエッセイの書き手であることは認めるが、小説家以上に重視したいのはエッセイのスペシャリストと呼ばれる「エッセイスト」である。ところがこのベストエッセイの選考委員には彼、彼女らが一人も入っていないではないか。いったいこれはなぜだろう。エッセイの有名な賞である、例えば「講談社エッセイ賞」などの受賞者は小説家以上にエッセイストの中から多く選ばれている。



掲載作品はどのように選ばれているのだろうか


AI による概要


光村図書の「ベストエッセイ」に掲載される作品は、毎年新聞や雑誌などに発表されたエッセイの中から、編集委員が特に優れた作品を選定します。選考基準は、心に響く文章であること、時代を超えて読み継がれる普遍性を持つことなどが考慮されます。具体的には、編集委員が多数のエッセイを読み、議論を重ねて最終的な掲載作品を決定します。


詳細:


選考主体:

光村図書出版の編集委員が選考を行います。


選考基準:

心に響く文章であること

時代を超えて読み継がれる普遍性を持つこと

多様な視点やテーマが盛り込まれていること

文章表現の質が高いこと

読者の心に感動や共感を呼び起こすこと


選考過程:

新聞や雑誌に発表されたエッセイを幅広く収集します。

編集委員が多数のエッセイを精読し、候補作品を選びます。

選ばれた候補作品について、編集委員間で議論を重ね、掲載作品を決定します。


編集委員:

光村図書出版のウェブサイトによると、編集委員は、国語教育や文学の研究者、作家、小学校教諭など、様々な分野の専門家で構成されています。

つまり、「ベストエッセイ」は、単に優れた文章を集めるだけでなく、編集委員の目を通して、時代や読者にとって意味のある作品を選び抜いていると言えます。



今回(2024年)特に良かった作品(個人的な好みかも)


・「時折タイムスリップ」 たなかみさき イラストレーター 群像

・「AIと連歌を巻く」ながたかずひろ 歌人 京都新聞

・「爪を塗る」たかせじゅんこ 小説家 日本経済新聞

・「当たり前の幸せ」ズラータ・イヴァンシコワ 作家 JAF Mate冬号 

・ 「親父が倒れた」 加納愛子 お笑い芸人 小説新潮

・ 「偽の気持ち」 もとやゆきこ 女優 暮らしの手帳

・「下げて上がる一言マジック」 俵万智 歌人  朝日新聞

・「あの人はだれ」 西川美和 映画監督、脚本家 文藝春秋

・「寄り添ってくれる感覚」 なかむらふみのり 小説家 毎日新聞

・「男性と化粧の五十年」 やまむらひろみ モデル 群像

・「おっぱい足りてる?」 燃え殻 小説家 週刊新潮

・「いま暇ですか、時間ありますか」 堀江敏行 小説家 すばる




2025年7月10日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈2〉うわさ 台風 そして青空(13)最終回

           

〈前回まで〉H市のフランチャイズ学習塾事務所が何者かによってガス爆発(未遂)を仕掛けられた事件について、塾長の砂田文夫は一応警察へ届けはしたものの容疑者については何も話さなかった。この事件だけはどうしても自分自身の手で解決したいと強く思っていたからだ。その犯人追及もいよいよ佳境に入り、まず浅井の共謀者と目される木島を追及したが、予想していたように、やはり彼はH市の塾への遺恨などは何もなく、単に浅井に追従しただけだということが分かった。そして残るターゲットは浅井だけになった。折しも台風13号が接近してきて、激しく風雨が迫る中、砂田文夫は憎き浅井と対峙することになった。


            13

 風邪で休んでいる。今日に限って何と間の悪いことか。しかし待てよ。浅井の奴、ひょっとして仮病を使って休んでいるのではないだろうか? 週の初めから昨日までに、新田、伊藤、木島と順を追って当たってきているから、その様子については浅井も気づいていて、徐々に自分に手が伸びてきているのを感じ取り、それから逃れるために風邪と偽っての休みなのではないだろうか? そうでなければあまりにもタイミングが良すぎるではないか。


 どうしようか。明日まで待とうか。いやそれは駄目だ。月曜日から日を追って一つの流れに乗って行ってきたことだ。ここで一日おけば、多少ともその流れを変えることにもなりかねない。 それにせっかく盛り上がってきた気持ちを萎えさせてもいけない。明日とは言わず何としても今日のうちに。 


 文夫はそう思って気を引き締め直すと、再び受話器をとり本部を呼び出すと、事務員に経理の新田への取次ぎを頼んだ。


 「内密に教えて欲しいんだが」と頼んだ浅井の自宅の電話番号を、新田は「すぐ調べて後でご連絡します」と言って、それから十分後に電話をかけてきた。


 「塾長、いよいよ浅井くんですか?いや彼、昨日から休んでいるんですけど、その前の日は別段風邪をひいている様子でもなかったですよ。ただ少しイライラしているようでしたけど」


 ずる休みではないのか?と文夫が推測したことに対して、新田が加担するようなことを言ってくれた。


 新田は浅井はN市の球場の近くのワンルームマンションに一人住まいしている、ということも付け加えて教えてくれて電話を切った。


  受話器を置いて、またタバコに火をつけて一服大きく吸い込むと、手は再び受話器へと伸びた。呼び出し音が十回以上鳴っても浅井は出てこなかった。

 番号の間違いかもと思って、もう一度かけなおして更に五回鳴らしてみたが、それでも何の応答もなかった。


 おかしいなあ、風邪で休んでいるはずなのに。

 とは思ったが、文夫はひるまなかった。十一時台にもう一回、その後昼休みも取らず十二時台にさらに二回、そして遅い昼食を取った後の午後二時近くに五度目のコールでやっと「モシモシ」とと受話器の奥から浅井の不機嫌そうな低い声が聞えてきた。  それを聞いて文夫の全身の血がカッと燃えた。


 「浅井くん? 砂田です」

 風邪で休んでいるという浅井の自宅にまで電話したことに対して、文夫は侘びなどは言わなかった。彼の声からして病気の様子もなかったし、それにそんなことを言う余裕などまったくなかったのだ。


 「砂田ってH市の塾長の?いったい何の用でしょう? ぼくの自宅まで電話していただいて」 


 この場に到って浅井は第一声で随分ふてぶてしいセリフを吐いた。

 その言葉を聞いて文夫はさらにカッときた。

 「いったい何の用でしょう、はないだろう。ぼくが何のために君の家にまで電話したかは君自身がいちばんよく分かっているはずじゃないか。違うかい? 君ももう知っているだろう。今週の初めから、ぼくが本部社員の一人一人に当たって、いろいろ事情聴取していることは。 最も昨日の木島君との事は、君が休みだったら知らないだろうが」


 揺さぶりをかけるために、あえて木島の名前を終わりに付け足した。

 「いえ、ぼくはよく外へ出ていて事務所へいる時間は短いもので、そのことはよく知りません。 いったい何のことでしょう?」


 この男想像した以上にしぶとい奴だ。よしそれならそれではっきり言ってやろう。

 文夫は声に怒気を含めて言った。


 「君しらばっくれるんじゃないよ。 昨日からそうして休んでいるのも、ぼくの追及から逃れるためだろう。浜岡くんと南くんについての不埒な噂話のことだよ。話をでっち上げて本部中に流した張本人は君なんだろう」  


 浅井にそう迫りながら、普段の倍以上の大きさの迫力に満ちた声だ、と文夫は我ながら感心していた。その迫力に押されてか、受話器からはすぐ浅井の返事は返ってこなかった。


 「なあ、どうなんだ浅井君!」

 「噂だなんて、あれ本当のことなんだし」

 ふてぶてしさが少しだけ消えて、さっきより小さい声で浅井が答えた。


 「何だと! 何が本当のことなんだ。噂の二人だって木島くんだって、君が言ったような事実はないと、はっきり言っているじゃないか。それでもそうだと言うのなら、いまぼくにそのときの状況についてもう一度はっきり説明してみたらどうだ」


 迫力に満ちた文夫のその言葉に浅井はひるんだのだろうか、再びすぐには返事がなかった。


 「さあどうだ。言ってみたらいいじゃないか。伊藤くんに話したように浜岡くんの半ズボンのチャックのところから大きなものがボロンとはみ出していたとかなんとか」


 「でも見えたような気がしたんです。ぼくには」

 弱気になってきたのがありありと分かるような、かぼそい声で浅井はかろうじてそう答えた。


 「いや、そうじゃないだろう。君はそんなもの見てなかったんだ。

 浜岡くんが言ってたように、上半身こそポロシャツを脱いでランニングシャツ姿だったけど、その他はふだんどおりで、ただ長椅子に腰掛けて南さんと話していただけなのだ。

 君は浜岡くんが上半身裸だったと言ったそうだが、それも事実とは違うようだ。

 それも君がでっち上げたことなんだろう。それから南さんも着衣が乱れていて、うずくまるように座っていたというのも違う。彼女言ってたよ。普段のままの服装で普通の座り方をしていて、君が近づいてきたときも正面から君の顔を見ていたと」

 文夫は追及の手を緩めず、声にも更に迫力を込めて迫った。


 「なにぶん入ったとき薄暗かったもので、ぼくにはそう見えたのかもしれません。

 それに二人だけであんな時間に、あんな場所にいたものですから」


 「そうか、やはり君ははっきり見てなかったんだ。なのにあんな話をでっち上げて本部中の社員に広げた。いったい何のためだ? 南さんの素っ気なくされた仕返しにかい? それとも浜岡くんやこのぼくに何か恨みがあるとか。


 考えてみろよ。あんな噂流して、流された者の立場はいったいどうなるんだ。

 特に彼らは生徒を指導する立場にあるのだし、もし事実だとすればぼくとしても二人を放置しておくわけにはいかないし、場合によっては首にするかもしれない。

 君はそこまで考えてあんな噂流したのかい? ついでに言っておくけど、君に対してはぼくは別の件でも大きな疑惑を抱いているんだ。分かるかい? なんのことだか」


 勢いにまかせてか、文夫はついに半年前のガス事故のことについて匂わせた。

 でもそのことはまだ少し早いと思い直して、またすぐ話を元に戻して、さらに付け加えた。


 「どうだ浅井くん。ここまできたんだ。いいかげんにはっきり君の口から言ってしまえよ。

 「あの話はぼくが勝手に作り上げたデマでした」と。

君が見たというのは二人がそこへいたことだけで、後は全部作り話だったんだろう? 

 そうなんだろう。黙っていないではっきり言いたまえ」


 文夫がそこまで言ったとき、受話器からがチャッという音が聞え、その後すぐブウーという発信音が鳴り始めた。浅井は電話を切ったのだ。


 文夫の言うことがすべて事実で、認める以外に返事ができなかったのか、それとも一年前のガス事故についての疑惑を匂わされて、気が動転しまったのか、とにかく一方的に電話を切ってしまったのだ。 でも文夫はこれでいいんだ、と思い、もう一度かけ直そうとは思わなかった。


 「なにぶん入ったとき薄暗くて、それに二人だけであんな時間にあんな場所にいたもんで」

 これが浅井の最後の弁明のことばだったが、これでじゅうぶんではないか。

 それにガス事故の件についても、それをこちらが口に出した後で彼は何も言わなくなり、そして一方的に電話を切った。


 自分の犯した二つの罪を同時に攻め立てられて、ついにいたたまれなくなり、電話を切ることしか他に方法を見つけられなかったのだろう。


 憎っくき浅井の奴をやっとやっつけたのだ。

 後は社長の小谷と話し合って今後の彼に対する処置について決めるだけだ。

 ガス事故のことも認めたのなると、解雇は間違いないだろう。


 文夫ははやくこのことを浜岡と南三枝に知らせてやらなければ、と思いながら、ふと窓のほうに目をやった。 


 朝方からあれほど荒れ狂っていた激しい風雨はすっかりやんでおり、はるか先にある山並みの上には雲間から青い空さえ覗いていた。

 

 「浅井忠夫が辞表を出した」と社長の小谷が伝えてきたのは、それからわずか三日後のことであった。それも郵便で送られてきて、自宅に電話しても何の音沙汰もないということで、解雇通知もできないのだ、と言った。 


 文夫はそれでもいいじゃないか、と思った。


 とにもかくにも、激しく吹き荒れた台風十三号とともに、あのいまわしい噂を浅井忠夫ごと吹き飛ばしてしまったのだから。


 文夫は事務所の窓際に立って、ようやく訪れたすがすがしい秋空の下で、微かに揺れるイチョウの並木を満足気に眺めていた。

                                 おわり

 

 

 

※ 次回からはT.Ohhira エンタメワールド〈3〉「ナイトボーイの愉楽」をお届けします。




第一回 7月17日(木)

 


2025年7月5日土曜日

「おっぱい足りてる?」

 

  出典:ベストエッセイ2024



「おっぱい足りてる?」誰が誰に言ってるセリフなのか


ベストエッセイ2024に載っていた「燃え殻」という超ユニークなペンネームの作家〈注2〉のエッセイでこのタイトルを見たとき


これ何?と一瞬考えたが、すぐ頭に浮かんだのは、赤ちゃんを産んだばかりの母親に看護師さんがお乳の出具合を尋ねている言葉なのだろう、であった。


ところがこれは大きな間違いで、なんと、正解は六本木の繁華街近くで筆者が「おっぱい足りてる?」と声をかけられたオッパブ[注1]の店のキャッチの男が客を呼び込むためのセリフだったのだ。


でもオッパブとはなんだろう?さっそくネットで調べてみると。



[注1]おっパブとは


別表記:オッパブ、おッパブ


いわゆるセクシーパブの別名。「おっぱい」と「パブ」から成る造語。そのまま「おっぱいパブ」とも言う。サービス上、客がホステスの体に触れてもよいとされている風俗店のこと。     

          

出典:Weblio実用日本語表現辞典


しかし、ネットとはいえお堅いはずの辞書のサイトによくこんなこと(新種の風俗店)まで出ているものだ、と感心しながら閲覧したのだが、なるほど、これでよくわかった。


オッパブとは女性のおっぱいに触れることが出来る風俗店のことなのだ。


それにしてもその店のキャッチの若い男が発した「おっぱい足りてる?」は実に名言でないか。


キャッチコピーとして見事な出来栄えで、実用的にも効果抜群に違いない。


思うに新宿歌舞伎町を歩く男性が「おっぱい足りてる?」と問われて、どれほどが胸を張って「Yes」と答えられるだろか。


足りてるどころか、大半が日常的に欠乏状態にあるに違いないだろうから。



これって、キャッチコピーの超傑作ではないだろうか


それにしてもこのセリフは実によくできたキャッチコピーではないか。


病院で看護師さんが母親に赤ちゃんにあげるお乳を心配しているのにあらず


歓楽街の一角で、「ピチピチした若い女性のおっぱい触ってみませんか」と勧誘する風俗店のキャッチにピッタリではないか。


〈風俗店キャッチコピーの超傑作〉間違いなしだ。いったい誰が作ったのだろう?



[注2]燃え殻とは


燃え殻は、日本の小説家、エッセイスト、コラムニスト、ラジオパーソナリティ。神奈川県横浜市生まれ。 ウィキペディア

生まれ: 1973年 (年齢 52歳), 神奈川県 横浜市

職業: 小説家; エッセイスト; コラムニスト; ラジオパーソナリティ; テレビ美術制作会社・社員

ジャンル: 小説; エッセイ; コラム

代表作: 『ボクたちはみんな大人になれなかった』; 『すべて忘れてしまうから』; 『あなたに聴かせたい歌があるんだ』


2025年7月3日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈2〉うわさ 台風 そして青空(12)

           


〈前回まで〉H市のフランチャイズ学習塾講師の浜岡康二と南三枝に対する本部社員の誰かによって流されたこの上なく悪辣でおぞましい噂と、その後のH市の学習塾事務所に仕掛けられたガス爆発未遂事故。この二つの事件の犯人について、いずれも本部のH市担当スーパーバイザー「浅井忠夫」によるものと断定した塾長砂田文夫は犯人追及の行動に着手した。
まず手始めは本部で最も親しい経理部の新田から本社社員の最近の動向を尋ねることから、その後は浅井と関係が深い社員を順番に当たっていき、その手は刻々と犯人浅井に迫っていった。            
                                                

              12

 九月に入ったとはいえ、まだ爽やかな秋風は吹いてはおらず、夏の名残のジトッとした生暖かい風が頬をなでた。バス停が十メートルほど先に見えたとき、文夫はポケットからハンカチを取り出して額の汗をぬぐった後で呟いた。

 「明日は木島、そして明後日がいよいよあの浅井と対決の日だ」

  

 次の日、朝から電話したにもかかわらず、当の木島はなかなか捕まらなかった。

 最初にかけた十時ごろは来客中であり、二度目の十一時過ぎは席を外していて、その日はどうもタイミングが悪かった。取り次いだ事務員はいずれのときも、「こちらからかけさせましょうか」と気を利かせたが、「いや、こちらからかけ直します」と、文夫はその申し出を断った。

 この件に関しては自分のペースを守りたくて、いつかかってくるか分からない相手の電話を待ちたくなかったからだ。


 昼休み直後の三度目の電話でやっと木島が捕まった。

 さあ、大詰めも間近だ。そう思って文夫は電話に臨んだが、新田や伊藤のときのように周りの耳を気にして、時間を指定して別の場所からかけさせたり、あらためてこちらからかけるようなことは今度はせず、用意していたメモを手に次々と彼に質問を浴びせた。

 ただ、問いに対する返事は「はい」または「いいえ」だけでいいから、とあらかじめ言っておいた。

  

 「君は浅井くんと一緒にキャンプ二日目の夜、浜岡くんと南くんがいた食堂に入っていったんですね」

 「はい」

 「そこで隅のほうの長椅子にいた二人を見たのですね」

 「いいえ、一人だけ」

 「一人だけというと浜岡くんだけですか」

 「はい」

 「そのとき浜岡くんは上半身裸だったということですが、確かにそうでしたか?」

 「はい。いやいいえ。ぼくはよく・・・・」

 「ということは君にはよく見えなかったということですね。それを後で浅井くんから聴いてそう思った。つまりそうなのですね」

 「はい」


 「何か裁判の尋問のようで恐縮ですけど、君にも周りの耳があるだろうと思って、こんなやり方で質問したりしてすまないとは思うんですが、もう少し我慢してください。

「はい、承知しました」 

君は浜岡君しか見なかった。そして噂で言われているように、彼が上半身裸であったことも確認していない。したがってあの二人があそこで〈 やっていた 〉などとは思わなかったのですね。 

 「はい」


 「しかし、その後の浅井くんの話で、現場にいた君としては、ついそうじゃなかったかと錯覚して浅井君の話しに同調してしまい、あえてあの噂を否定しなかった。つまりそういうことなのでしょうか」

 「はい、そのとおりです」

 「それで浅井君のように微に入り細に入った説明はできなかったけど、この噂について肯定的に伊藤くんたちに喋ってしまった。そうなんですね」

 「はい。申し訳ありません」


 「では最後にお聞きします。どうか正直に答えてください。浅井くんはともかく、あなた自身は今回の噂のようなことをあの二人がしていたと思いますか? それともそうじゃないと思いますか? まず、していたと思いますか?」

 「いいえ」

 「それでは、していなかったと思いますか?」

 「はい」


 木島からの事情聴取はあっさり終わった。

 すべて文夫の予想していたとおりで、食い違った点は一つもなかった。


 やはり木島は見ていなかったのだ。当日現場にいた二人のうちの一人とは言え、文夫は初めからこの木島に対してそれほどの疑念を抱いてはいなかった。

 あの夜、たまたま浅井と同行したばかりに、今回の出来事の当事者の一人となったのだが、普段の彼の態度を通して、文夫としてはどちらかと言えば好感を抱いていたほうで、行きがかり上、彼を追及する羽目になったのだ。


 でもそれが随分あっさりと終わり、そのうえ文夫の考えていたとおりの返事が得られたこともあってか、この木島に対してはなんら憎しみめいた感情は湧いてこなかった。

 その反動なのか、すべてはあの浅井一人が仕組んだことだとはっきり確認できた今、彼に対する憎しみは倍化しており、明日こそ、この怒りを思いっきり彼にぶつけるのだと、文夫は早くも興奮を抑えきれないほどの気持ちが高ぶっていた。

          

 九月四日木曜日、その日は折から九州に上陸間近という台風十三号の影響で、この地域一帯も朝からすさまじい風雨に見舞われていた。

 ともすれば出勤意欲を失ってしまいそうな、そんな悪天候の中、文夫はかろうじて時間通りに事務所に着くことができた。 

 デスクに座りタバコに火をつけた後、まるで窓を突き破るかと思えるほど激しく叩きつける雨と、歩道で枝が引きちぎれんばかりに大きく揺れるイチョウの木に目をやりながら文夫は思った。


 「この台風の激しい風雨とともにあの忌まわしい噂は全部洗い流してやる そしてあの浅井の奴も、この風と一緒にどこかへ吹き飛ばしてしまえないだろうか。

 次第に激しさを増す風雨の音は浅井に対する憎悪を増幅させるにはまさに効果的であり、文夫はこれまで当たってきた三人に対してとはまったく違った激しい怒りの感情を抱いたまま、力を込めて受話器を握った。


 しかし、このところずっと声を聞いている本部事務員の瀬山知子の「あいにくですが浅井は本日風邪で休んでおります」という返事に、第一段階では肩すかしを食わされてしまった。


つづく


次回7月10日(木)