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僕がそのベンチのすぐ前まで来て斜め前に立った時も彼は気づかずに、紙袋を上から覗き込み、片手をその中に突っ込んで、なにやらゴソゴソとまさぐっていた。
「こんにちは。お久しぶりです!」
僕はやや声を張り上げて彼に向かってそう言った。
その声に、彼は手を袋にいれたままだったが顔を上げて僕のほうをふり向いた。
「ほんとうにお久しぶりですねえ。お元気でしたか?」
最後の夜に苦い思いをして別れたはずなのに、そのことはすっかり忘れていて、僕は心底懐かしさがこみ上げてきて再びそう言うと笑顔で彼を見た。
すると彼も僕を見て、「やあ」と小さな声で答えたものの、なぜか表情はうつろで以前のような柔和な笑顔は見せなかった。
「まあここへどうぞ」
紙袋を少し端に寄せ、ベンチの真ん中あたりから少し腰をずらせて、空いた所をさしながら、座るようにと促した。
「あれからもう二ヶ月にもなりますねえ。バス停でもまったくお見うけしませんが、このごろはあそこへはいらしてないんですか? びょ、びょう、違った。事務所の方へは?」
危うく病院と言いかけて慌てて事務所と言いなおした。
「ええ、まあまあ」
彼はさっきより少しだけ表情を緩めて短くそう答えはしたが、今度は僕の方は向かず、顔を反対の方へ向けると、また横においた大きな紙袋の中へ手を突っ込んでいた。
「買物をしてきましてねえ。いろいろと」
横の紙袋を今度は自分の膝の上に乗せてから、彼がまたボソッと言った。
でも表情はまだうつろなままで、以前と変らなかった。
「へえー、お買物ですか、大きな袋のようですがいったい何をお買いになったのですか?」
彼がいったい何を買ったのかも知りたい気持ちもあって、とりあえずそう聞いてみた。
「いい物がたくさんありますよ。お見せしましょうか」
そう言うが早いか、また腰をずらして僕との間に少しスペースを開けると、袋の中から一つづつ品物を取り出し始めた。
いきなり買物の中身を見せたりして、この人僕とのことを覚えているのだろうか?
うつろな表情はともかく、あの夜、あんな気まずい別れ方をしたというのに悪びれたところが少しもない。
前の日のことについて一言なり触れてもいいはずなのに、あんなこともうみんな忘れてしまったのだろうか。
「これはねえ、イタリア製の財布。そしてこれはドイツ製の万年筆。そうそうこれもいいでしょう。アメリカ製のキーホルダー。ほら五つもある。どうです? ひとつ差し上げましょうか?」
「い、いえ。せっかくですけど結構です。僕キーホルダーも万年筆もわりに持っている方ですから」
そんなものひとつぐらい貰ったこころで別段どうってこともないのに、何故か僕はその時はムキになって断っていた。
だけど彼はそんな僕の言葉には何も答えず手にしたなんの変哲もないそのキーホルダーをしげしげと眺めていた。
「あのう、ぼく今勤務中ですので、これで失礼しようかと思います。また機会がありましたら・・・」
勤務中というのは本当だったし、その時同時に、木谷進一と名のる彼の息子が電話で言った「父とは今後おつきあいなさらないで下さい」と言った言葉をふと思い出して、僕はそう言ってベンチを立った。
「そうですか」
相変わらずうつろな表情のまま彼が今度も僕の方は見ないで、さっきよりさらに小さな声でそう答えた。
「じゃあ僕はこれで失礼します」軽く会釈してそう言いながら、なにか急ぐようにして彼のもとを離れていた。
その夜、僕は六時半に仕事を終えて、バス停に向かう途中、なぜかまた昼間彼がいた噴水横のベンチの前を歩いていた。
暖かだった昼間とはうって変って十二月の冷たい風が吹いており、ベンチには人の姿はなかった。
端から二つ目の、昼間彼が座っていたベンチの前まで来ると何故か自然に足が止まった。
そして背後で流れるジャージャーという水の音を聞きながら、「あーあ、あの人そううつ病と男色趣味か」
そうつぶやいて、また紳士然とした彼の姿を瞼に浮かべ、抜きさしならぬ病気と、変った嗜好を持ち合わせたあの紳士に対して、次第にやるせない同情心が募っていき、僕はしばらくその場にポツンと立ちつくしていた。
終わり
文中引用 [訴訟社会アメリカ] 長谷川俊明著 中公新書
次回からは「進次と和子の青春グラフィティ」をお届けします。
第1回 7月16日(木)
