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「これでおわりにしましょうか」と二人が四杯目の水割りをおかわりして、彼がまた話題をかえて話し始めた。
「若いとき僕ロンドンに留学していましてね。二十三歳のときでした。あちらで二年間ロースクールに通っていました。あの街、霧が多いということは誰でも知っているんですが、天候が不順でしてね。
今晴れていると思ったらもう曇っている。そんなことがもうしょっちゅうで、気候的は決していい所ではありません。でも紳士淑女の多い所で、上品さとか優雅さを身に付けるのにはいい所ですねえ」
彼のその話を聞き、僕はなるほどなあ、と納得した。
最初に会ったときから感じた彼のもっている洗練された物腰と上品さ、それらは若いときのロンドン留学で身についたのだと。
「わたし今年で六十一になるんですけど、この歳で独身なんです」
ここへきてなぜだか彼は話の脈絡を無視して、すぐ話題を変え始めた。
「女房は三年前に病気で亡くなりました。今は自分の家で長男夫婦と住んでいます。僕の部屋は離れで、長男夫婦にも子どもがいませんのでとても静かです。
駅前からバスで約二十分ぐらいですけど、緑も多くたいへんいい所ですよ。お休みの日にでも一度遊びにいらっしゃいませんか。
ところであなたガールフレンドはいらっしゃるんでしょう
終りの部分でまた話題を変えて彼はたずねるように言った。
とっさのことに「え、ええまあ」と答えはしたものの、半年前に二年間つき合ってきた女性と別れ、目下そう呼べるような人はいないんだとあらためて気がついてから「いや、最近別れたばかりで今はいないんです」と、慌てて言い直した。
「そうですか。でもあなたでしたらすぐまたいい人が現れますよ。実は僕はですねえ、女房といた頃は女の人にもそれなりに興味があったのですけど、それが不思議と彼女が亡くなってからはさっぱり女性に興味がわかないんです。たとえどんなに美しい女にも、今では女の人と話すよりも、むしろ若い男の人と話すほうが楽しく思えるんです」
彼はそんなことを言いながら、それまでに見せたことのない流し目を送るような表情で僕を見ていた。
九時半になり、僕のほうから「よく飲みましたし、今夜はこのへんにしてそろそろ帰りましょうか」と切り出して、「そうですね。でもまた近いうちにお会いしましょうか」と彼が言い、結局一週間後の同じ日に会おうと約束して二人は心地よい秋風の吹く外へ出てバス停へと歩いていった。
次の週のその約束の日、同じ場所で待ち合わせた二人だったが、今度はすぐそこを立ち外へ出た。
「いかがでしょう。ぼく高級な所はまったく知らないんですけど、よく行く居酒屋だったらあるんです。ホテルのバーなんかに比べたらちょっと騒々しいんですが食べ物もいろいろあって美味しいですよ。昔いらしたロンドンあたりではさしずめパブとでもいうんでしょうが、いかがでしょう。そこでは駄目でしょうか?」
「パブねえ。懐かしいなあ。よく行きましたよあちらでは。いいですとも、そこにしましょう」
彼はふと若いころのロンドン時代に思いを馳せるような懐かしそうな表情をつくり、僕の申出をあっさりと承諾した。
二人は駅前の交差点から大通りへ出て、一本目の筋を右に折れて三十メートルほどさきの軒先に大きな赤いちょうちんをぶら下げた〈じんべえ〉という名の居酒屋へと入っていった。
「混んでいるでしょう。ここはいつもこうなんです。時間によってはひとつも席が空いてないこともあって、僕もこれまで何度か「満員です」と断られました。
「へえー、こういう店ってよくはやるんですねえ。こんなに広いのに九割がた座席が詰まっている。それに女性客が多いですねえ。ほら、半分ぐらいはそうじゃないですか」
彼はこういう店は初めてなのか、珍しそうにぐるっと店内を見わたした後、目を丸くしてそう言った。
間もなく「いらっしゃい」と威勢のいい声とともに、ハッピ姿の店員が注文取りにやってきた。彼に同意を求めた後、とりあえずビール二本を注文して、「後は考えておくから」と告げた。するとその店員はさっきよりもっと大きな声で「よろこんで!」という、一風かわった返事を残して調理場のカウンターの方へ去っていった。
僕は以前からその「よろこんで」という返事の仕方になんとなくこだわりをもっていた。
「聞いたでしょう。この店いいとこなんですけど、どうもあの「よろこんで」という返事が気になるんです。別に悪い言葉じゃないんですけど、なにか神経にさわるんです。「はい」とか「承知しました」とかの返事のほうがどれだけいいか。木谷さんはどう思われますか?」
僕は最初に会って以来、初めて彼の名前を口に出してそう聞いてみた。
つづく
次回 6月4日(木)