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二宮竜一郎に最初に出会ったのは確か一年ぐらい前だった。
その日ずいぶん遅い深夜二時ごろのチェックインで、赤ら顔をしてすこしお酒に酔っていた。
八階のシングルルームに案内する途中で、酔いで気分がいいせいか、楽しげにしきりに話しかけてきた。
「僕は東京では珍しい阪神ファンだ」とか 「僕は夏が好きだ。人間が開放的になるから」だとか、こちらが相づちを打つひまもないくらい、次から次へとしゃべり続けていた。
部屋へ入ってからは僕にバスルームのお湯を出させ「これ明日の晩までに」とカッターシャツのクリーニングを頼み「君名前なんていうの? 僕は二~三ヶ月に一度はここへ泊まっているから、今度来た時もよろしくね」と言って千円札一枚くれたんだった。
そのときのことはそれっきり忘れていて、その数ヶ月後、二度目にあった時「どうだ明朝一緒に食事でも」と誘われて 「ええ学校がありますので、少しの時間でしたら」と応じて、朝の九時ごろから四十分くらい食事をしながらとりとめのない話をしたんだった。
「今回はテレビの仕事でね」と言った彼は、脇役専門ではあったが、映画の俳優でもあったのだ。出演する映画は文芸モノが多いらしく、ほとんど活劇モノしか見ない道夫はスクリーンでこれまで彼にお目にかかったことはなかった。
その日チェックアウトした彼とはその時はそこまでで、三度目に会って、彼が脇役で出演しているコマ劇場の特等席に招待されたのが二ヶ月前の六月であった。
五月の終りにホテルへやってきて 「今度の芝居は一ヶ月のロングランだ」と言い、このときは六月の終りまで三十日間も滞在した。
道夫が招待されたのは、その中日あたりの土曜日の公演だった。
その二日前の夜のロビーで会ったとき 「ひまができたらちょっと僕の部屋へこないかい。渡したいものがあるし」と彼が言い、その後すぐ道夫が答えた。
「ええいいですよ。一時過ぎになるとひまになりますから、その頃でよろしかったら」
二宮は「うん」とうなずいてゆっくりエレベーターの方へ歩いて行った。
その後ろ姿を見送ったあと、反対にロビーの方に向かいながら道夫は思った。
渡したいものって、いったいなんだろう。今ごろチップを貰ういわれもないし、なんだろう? 何かプレゼントだろうか。そうだ、この前会ったとき、七月に二十一歳の誕生日を迎えると話したんだ。
でも悪いな。もしそうだとしたら。あの人にはこのところ食事だとかお茶だとか、もう数回もごちそうになっている。たいしてお役に立ってもいないのに、そう何回も甘えられないな。
でもさっきの後ろ姿でふと思ったけど、あの人俳優にしては地味だなあ。長年脇役ひとすじっていうのが彼をそうさせたのだろうか。見たところ銀幕の俳優らしい華やかさというものがまったく感じられないし、それにこの僕なんかに親しげに話しかけてきたりして、なぜああも庶民的に振舞えるんだろう。住む世界も年齢もすごくかけ離れているというのに。
そうだ。渡したいもの、それについて考えているんだった。どうしよう。でもまあいいか、別にこちらから何かを要求するような態度をとった訳ではないんだから。とにかく一時になったら彼の部屋へ行ってみよう。
そんなことを考えながら、それから数回チェックインをこなし、十二時からのエレベーター当番の小山が急に腹痛を起したため、代理で三十分間エレベーターを動かし、ようやく治まったと、少し青い顔をして戻ってきた小山に当番をもどし、時計を見て、もう少しだな、と思いながらまたロビーに立ってチェックインを待っていた。
週の中日はビジネス客もピークに達し、この木曜日も例外ではなく、すでに一時をまわろうとしているというのに、まだ断続的にチェックイン客が続いており、それから三回もシングル客のチェックインにあたった。
それでも一時を少しまわったころになると、ピタッと各足は途切れて、その時までに到着していない予約客はあと四名になっていた。
一時を十分ほどまわって、そろそろだなと思い、すぐ横に立っていた小山に 「ちょっと二宮さんの部屋まで」と言おうとしたが、なぜだか言いそびれてしまい、かわりに「ちょっとトイレに」と口に出してしまった。
歩き始めたものの、そう言った手前、エレベーター前を通過して、突当たりのドアを押して社員通路へ出て、少し行ったところにある従業員専用エレベーターに乗った。
十一のボタンを押すと、おそろしくゆっくりとドアが閉まり、やがてガタンという音とともに動き始めた。それにしてもなんたる違い、この照明の暗さ、スピードののろさ。
裏方と違ってロビー中心の客用スペースで働く道夫には、あらゆる面で従業員スペースとの違いがよく目についた。その最たるものがこのエレベーターで、スピードときたら客用のものの半分もないのだ。
つづく
次回 2月26日(木)