2026年5月21日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈6〉紳士と編集長(4)

 

  

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「いかがでしょうここ、静かでいいでしょう」


カウンターのやや端のほうに二人並んで腰かけた後で彼の言葉に

「そうですねえ。でも僕こういう高級な場所慣れていませんで、なんだか足が地につかないような気がしまして」と

目の前の棚にズラッと並んだ高級そうな洋酒の列に目を向けながら僕は言った。


「まあ一杯やりましょう。そうすれば落ち着きますよ。僕はスコッチウォーターにしますけど、あなたは?」


「え、ええ。僕もそれでいいです」

「そうですか。じゃあ二人ともそれにするとして、ええっと、銘柄は、そうだ。シーバスリーガルにしましょうか。十二年ものでコクがうんとあっていいですよ。あのお酒」


間もなく出されたそのシーバスリーガルとかの水割りを一口飲んで、その芳醇な味にすっかり魅了され、「うまいですねえ。これ」と、彼のほうを向いて目を丸くしながら言っていた。


「そうでしょう。これ僕も好きなんです。もう十年ぐらい前から」


高級酒とはやはりいいものだ。赤提灯の安酒だけが能じゃないな。僕はそう思いながら、彼を真似てグラスを一気にあおっていた。


三杯ぐらいグラスを重ねてからであったろうか、すこぶる心地いい気分になり、気がつくとすごく饒舌になっていた。


「ところでこの前の話、甥っ子さんの編集長に伝えられましたか?」

話をリベーラのことに移してたずねた。


「甥の編集長? ああ、あれね。伝えました。伝えました」


そう答えはしたものの、四日前にあれほど熱心に話題にしたにしては、なぜか彼の返事は歯切れが悪かった。


「あの雑誌、きっと売れますよ。なんとなく僕、勘でそう思います」


「そうですか。だといいけど」

彼はまた気のない返事をした。


どうしたんだろう?その甥っ子さんとやらと何か気まずいことでもあったのだろうか。それとも彼、急に気分が悪くなったとか。いやそれはないな。見たところ顔もほんのり赤らんでツヤツヤと光ってさえいる。なのにどうしたんだろう?


 でもまあいいか。この際話題を変えて他のことをと、ふと先日もらった名刺にあった木谷法律事務所というのを思い出し、今度はそちらの方に話題をかえて話し始めた。


「弁護士っていう職業はステキですね。なにか知的職業の最先端って感じがして、それに社会悪と戦って正義を貫くっていうのもかっこいいし」


僕は多少おべんちゃら気味に言った。


「まあそういう見方もあるかもしれませんが、この前もお話したように大変な忍耐力と体力を必要とする仕事でして、決して頭だけで通用する仕事ではありません。


しかし日本ではまだ数が少ないこともあってアメリカあたりに比べると、世間がまだ弁護士に対して甘いところがあり、そのぶん仕事は進めやすいかもしれませんけどね」


「と言うと、アメリカは日本より数が多いんですか」


「そりゃあもうあなた、あの国は弁護士王国と言ってもいいくらいで、ざっと数えても日本の四十倍以上はいますよ。人口比からしても二十倍以上」


「へえそんなに、でもそれではピンとこないんですけど、具体的な数は?」


「日本の一万七千人に対してアメリカは七十二万人です。どうです、すごいでしょう」


「七十二万人、そんなにも!弁護士一人に対して国民何人なんでしょうね。でもそんなにたくさんいて、果たして全員が仕事にありつけるんでしょうか」


「そうなんですよ。なかなかいいところを突かれましたね。実はアメリカの売れない弁護士を称してこう言うんです。〈アンビュランスチェイサー〉とね。


アンビュランス(救急車)をチェイス(追っかける)する人、つまり救急車を追っかけると何らかの事故、事件現場にたどりつき、そこで仕事の糸口をつかむことができる。つまりそういうことなんですよ。うまいこと言ったもんです」


「へえー、アンビュランスチェイサーですか。おもしろいですねえ。いかに弁護士といえども、そうでもしないと仕事にありつけない。つまり多すぎる弁護士を皮肉っているんでしょうか?」


「それもあるでしょうね。なにしろ七十二万人ですから、ほらこの前もテレビでやってたでしょう。〈訴訟社会アメリカ〉っていうのを。あの番組によればニューヨークあたりでは道路の小さなへこみにつまずいて転んでけがした人が、道路の補修を怠っていた市の責任だと訴えたそうなんです。つまりそんなお国柄なんです。


なんでもすぐ訴訟沙汰にする。もっともそれもみな弁護士がけしかけるんでしょうけどね」


「なるほどねえ。弁護士が庶民に対して訴訟教育をよく施すわけなんですね。PRをよくやったりして」


僕はその話にひとかたならぬ関心を覚え、顔をぐっと彼のほうへ突き出して熱心に聞き入っていた。


「それにこんな話も聞きましたよ。アメリカの弁護士たちは新しい法律知識について勉強することもさることながら、俳優養成学校に通ったりして演技の勉強をしている人が多いんだそうです。


この世界、なにぶん正論だけでは通らないことも多く、したたかな弁舌とともに演技力も要求されるんですね。それを磨くための俳優養成学校がよいというわけなんです」


僕はまるでアメリカの弁護士の内幕話しを聞いているというふうな気持ちで、興味津々と彼の話を聞いていた。


つづく


次回 5月28日(木)


2026年5月19日火曜日

小説新人賞を突破し、プロへの扉を抉じ開ける「7つの鉄則」



はじめに:作家への道は「技術」と「覚悟」で決まる


小説家を目指す者にとって、新人賞は唯一無二の登竜門です。しかし、そこは数千通の原稿が積み上がる「戦場」でもあります。10年前も今も変わらないのは、合格率1%未満という過酷な現実です。 本稿では、エンターテインメント小説(大衆文学)の世界で、いかにして審査員の目に留まり、最終候補、そして受賞へと駆け上がるか。その具体的な秘訣を7つのステップで解説します。


【Ⅰ】「面白さ」への執念:読者の心を掴むテーマと構成


1. 凡庸な日常を捨て、魅力あるテーマを選ぶ

エンターテインメント小説の至上命題は「読者を楽しませること」です。よく「誰でも一生に一冊は小説が書ける」と言われますが、それは自分の人生をなぞっただけの体験談に過ぎません。 しかし、新人賞が求めているのは「あなたの思い出話」ではなく「誰も見たことがない物語」です。

  • 「ハッ」とする意外性

  • 「うーん」と唸る深い洞察

  • 「これは放っておけない」という社会性や話題性 これらが揃ったテーマを選び抜くことが、執筆のスタートラインです。

2. 「冒頭3ページ」で勝負は決まる

あなたは、応募した原稿がすべて最後まで読まれると思っていませんか? メジャーな新人賞には1,000本から、多い時には3,000本を超える応募があります。これを数人の審査員(下読み)が短期間で裁くのです。 審査員が最初に見るのは、書き出しの数ページです。ここで「この先を読みたい」と思わせなければ、その原稿は二度と開かれることはありません。

3. 三点突破の構成:出だし・中盤・結末

物語の完成度を上げるために、以下の3箇所に全精力を注いでください。

  1. 書き出し(導入): 読者を一瞬で物語の世界へ引きずり込む ⇒(参考資料1)。

  2. クライマックス(中盤): 感情のボルテージを最高潮まで高める。

  3. 結末(ラスト): 読者の胸に消えない余韻や衝撃を焼き付ける。

文章構成においては、物語を秩序立てる**「起承転結」に加え、論理的な納得感を与える「PREP法」**(結論→理由→具体例→結論)の意識を、説明文や独白に取り入れると、格段に読みやすさが増します。


【Ⅱ】ターゲットの選別:プロに繋がる「メジャー賞」を狙え

1. 乱立する賞に惑わされない

Web小説サイトの普及により、賞の数自体は10年前より劇的に増えました。しかし、そのすべてが「職業作家」としての生活を保証するものではありません。 「数が増えたからチャンスが広がった」というのは幻想です。むしろ、権威ある賞の価値は相対的に高まっています。

2. 伝統ある「三大公募」を意識する

日本でプロのエンタメ作家として長く生き残りたいのであれば、今も昔も以下の三つの賞が最強の門戸です。

  • オール讀物新人賞(文藝春秋)注!

  • 小説現代長編新人賞(講談社)

  • 小説すばる新人賞(集英社)

※なお、芥川賞・直木賞は「すでにデビューしたプロ」の中から選ばれる賞であり、アマチュアがいきなり目指す場所ではないことを再認識しておきましょう。


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(注!)文芸春秋は、伝統ある公募文学賞「オール読物新人賞」を今年度の第105回で休止すると発表した。22日発売の雑誌「オール読物2025年11・12月号」にお知らせを掲載した。同賞は優れた短編小説に贈られる文学賞で、1952年の創設。藤沢周平など多くのエンターテインメント系の人気作家を生んだ。 62年から2007年にはミステリーを対象とした「オール読物推理小説新人賞」も実施し、赤川次郎さんや宮部みゆきさんらを輩出した。21年発表の第101回からは、歴史・時代小説に特化した賞になっていた。         

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【Ⅲ】不屈の精神:落選を前提とした「継続」の誓い

1,000通以上の応募に対し、受賞はわずか1、2編。確率にして0.1%です。 あなたが何ヶ月も、あるいは何年もかけて血の滲むような思いで書いた原稿が、名前も呼ばれずに「不採用」というゴミ箱へ捨てられる――これが新人賞の日常です。 この残酷な現実に打ちのめされ、一度の落選で筆を折ってしまう人が後を絶ちません。しかし、プロになった作家の多くは、その「ゴミ箱」の底から這い上がってきた人々です。 「一度で受かろう」と思わず、「何度でも挑戦して、いつか必ず扉をこじ開ける」という狂気にも似た決意が、最後の勝敗を分けます。


【Ⅳ】戦略的応募:賞の「カラー」を見極める

新人賞には、それぞれ明確な「傾向(カラー)」があります。これは審査員を務める現役作家の顔ぶれや、出版社の出版方針に強く影響されます。

  • 文学性を重んじるのか、エンタメ性を重視するのか。

  • リアリズムか、ファンタジーか。

  • 文章の端正さか、ストーリーの爆発力か。

「自分の作品をどこでもいいから出す」のではなく、過去の受賞作を分析し、自分の作風が最も評価されやすい「土俵」を選ぶ戦略性が求められます。


【Ⅴ】「攻め」の手を休めるな:発表を待たずに次を書く

多くの応募者が犯す最大のミスは、応募した後に「待ち」の姿勢に入ってしまうことです。 結果が出るまでの半年間、そわそわして筆が止まっていませんか? それこそが、落選時のショックを倍増させる原因です。

1. 合格発表日の地獄

発表当日、本屋へ走り、雑誌のページをめくる。そこに自分の名前がないことを知った時、世界が崩れるような感覚に陥ります。何百枚もの原稿が「無」になったと感じるからです。

2. ショックを最小化する唯一の方法

その落胆を回避する方法は一つしかありません。 **「結果が出る頃には、すでに次の作品を完成させておくこと」**です。 次の作品があれば、落選しても「あっちの賞はダメだったが、今書いているこっちはもっと面白い。次で勝負だ」と即座に切り替えることができます。止まらないこと、それがプロへの最短距離です。


【Ⅵ】審査の構造を理解する:「彼」を知り「己」を知る

孫子の兵法にある通り、敵(審査プロセス)を知らなければ勝ち目はありません。

1. 「下読み」という名の門番

最終審査員である有名作家があなたの原稿を読むのは、最終候補の10作前後に残った時だけです。 その前段階には、編集者や「下読み」と呼ばれるプロの読者が存在します。彼らは、ライター、書評家、あるいはデビュー前のベテラン志望者などで構成される「文章の目利き」です。

2. 下読みの視点

彼らは毎日、膨大な量の「読みづらい原稿」に接しており、疲弊しています。その中で、

  • 基本的な日本語のルールが守られているか(誤字脱字、改行など)

  • プロットに矛盾がないか

  • キャラクターが立っているか 


これらを一瞬で見抜きます。下読みの方々の本音を知るために、インターネット上の情報(例:「下読みの鉄人」など)を読み解き、彼らが「何を嫌い、何を求めているのか」を研究することは、戦略上極めて重要です。


【Ⅶ】10%の壁を越える:第一次予選通過の重み

全応募作のうち、第一次予選を通過するのは約10%です。1,000本あれば100本。 とはいえ、一次予選通過と言っても100本のうちに一本に過ぎません。でもこれに失望しないでください。実は、この10%に残るだけでも、あなたの実力は飛躍的に向上しているのです。

1. 10%に残る作品の条件

第一次予選を突破する作品には、以下の共通点があります。

  • 小説としての体裁(構成)が整っている。

  • 文章力がプロの最低水準に達している。

  • 物語に「熱」があり、読者を飽きさせない。

この段階に到達すれば、あとは「個性」や「運」、そして「賞との相性」の勝負になります。

2. 段階的なステップアップ

まずは第一次予選通過を目標にし、次に二次、最終とステップアップしていく。このプロセスを可視化することで、「自分には才能がない」と悲観するのではなく、「今の自分には何が足りないのか」を冷静に分析できるようになります。

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(参考資料1)


小説「編む女」




「くそっ、あのカップルめ、うまくしけ込んだもんだ」


前方わずか4〜5メートル先を歩いていたすごく身なりのいい若い男女がスッとラブホテルの入口の高い植木の陰に隠れたとき、亮介はさも羨ましそうに呟いて舌打ちした。


「あーあ、こちらがこんなに苦労しているというのにまったくいい気なもんだ」と、今度は随分勝手な愚痴をこぼしながら、なおも辺りに目を凝らしながら歩き続けた。


亮介はこれで三日間この夜の十三(じゅうそう)の街を歩き続けていた。


はじめの日こそ「あの女め見てろそのうちに必ず見つけ出してやるから」と意気込んでいたものの、さすがに三日目ともなると最初の決意もいささかぐらつき始めていた。


時計はすでに十一時をさしており、辺りの人影も数えるほどまばらになっていた。


この夜だけでも、もう三時間近くもこの街のあちこちを歩き回っていたのだ。


「少し疲れたしどこかで少し休んでそれからまたはじめようか。それとも今夜はこれで止めようか」


亮介は迷いながら一ブロック東へ折れて、すぐ側を流れている淀川の土手へ出た。


道路から三メートルほど階段を上がって人気のないコンクリートの堤防に立つと、川面から吹くひんやりとした夜風が汗ばんだ両の頬を心地よくなでた。


「山岸恵美といったな、あの女。城南デパートに勤めていると言ってたけど、あんなことどうせ嘘っぱちだろう。


でも待てよ。それにしてはあの女、デパートのことについていろいろ詳しく話していた。


とすると今はもういないとしても、以前に勤めていたことがあるのかもしれない。それともそこに知り合いがいるとか。


ものは試し、無駄かも知れないけど一度行ってみようか。そうだ、そうしてみよう。


何しろあの悔しさを晴らすためだ。これしきのことで諦めるわけには行かないのだ。


川風に吹かれて少しだけ気を取り戻した亮介は、辺りの鮮やかなネオンサインを川面に映してゆったりと流れる淀川に背を向けると、また大通りの方へと歩いて行った。


「それにしてもあの女、いい女だったなあ。少なくともあの朝までは」


駅に向かって歩きながら、亮介はまたあの夜のことを思い出していた。


とびっきり美人とは言えないが、あれほど男好きのする顔の女も珍しい。


それにやや甘え口調のしっとりとしたあの声。


しかもああいう場所では珍しいあの行動。


あれだと自分に限らず男だったら誰だって信じ込むに違いない。


すでに十一時をまわっているというのに、北の繁華街から川ひとつ隔てただけのこの十三の盛り場には人影は多くまだかなりの賑わいを見せていた。


それもそうだろう。六月の終りと言えば官公庁や大手企業ではすでに夏のボーナスが支給されていて、みな懐が暖かいのだ。


「ボーナスか、あーあ、あの三十八万円があったらなあ」


大通りを右折して阪急電車の駅が目の前に見えてきたところで、亮介はそう呟やくと、また大きなため息をついた。


★講談社「小説現代(長編)新人賞」応募で予選通過した作品の 冒頭部分です。



おわりに:筆を動かし続ける者だけが、作家になる

小説新人賞への挑戦は、自分自身との孤独な闘いです。 10年前、この指針をまとめた時から、出版業界の環境は激変しました。しかし、「面白い物語を読者に届けたい」という情熱と、**「審査員を納得させる技術」**が必要であるという本質は、一ミリも揺らいでいません。

この7つの秘訣を胸に、どうか自信を持って新しい物語を紡いでください。あなたの名前が雑誌の「受賞者発表」の欄に刻まれる日は、決して遠い夢ではありません。



2026年5月17日日曜日

30代のはじめ頃だったが、ある日、親しくもなかった顔見知りの女性が職場を訪ねて来たのは何故? (Part 1~2)4300文字 一挙掲載


    GEMINI


(Part 1)


とつぜん私の職場を訪ねてきた女性は、以前勤務先が同じだったAさんだった


これは30歳になって間もないころの話です。その頃の私は大阪福島区に新しくオープンしたホテルPに勤めていました。その前まで勤めていたRホテルから転属してきたのです。

ある日職場のフロントオフィスで裏作業を行っている時、表に立っていた同僚が、「オーさん来客ですよ、きれいな女性の方です」と突然告げに来ました。

「きれいな女性の来客っていったい誰だろう」とやや首をかしげながら、カウンターに出てみると、どこかで見たことのある女性がいくぶん遠慮がちな表情で立っていました。

「どこかで会ったことがあると思いましたが、果たして誰だったろう」と考えている間に相手が口を開きました。「Rホテルのお仕事で一緒だったAです」


R`ホテルはつい3ヶ月前まで在籍していた職場です


彼女にRホテルでご一緒だった、と指摘されて改めて気づいたのですが、それは私が3か月前まで在籍していた職場です。

そこでの最後の職場はフロントオフィスでしたが、その場所にこの女性はいなかったはずです。

「はてRホテルのどこで一緒だったのだろうか」と、少し時期を遡って考えてみたところ、やっと思いだしました。

「そうだフロントオフィスの前の客室係をしていた頃に知り合った同期入社のAさんではないだろうか」と。

7〜8年前のことで定かではなかったのですが、滅多にいないと思えるほどの、その美貌からして、彼女に違いないと思ったのです。

でもそうだとしても、彼女とは別に親しい間柄ではなく、出会ったとき挨拶を交わす程度で長く話したことなど一度もありませんでした。それゆえ名前以外はまったく知らないのです。



Aさんは職場で評判の美人だった


あえて知ってるといえば、彼女は同期入社20名ほどの女性の中で際立った美貌の持ち主であるということで、その印象が強烈だったゆえ7年過ぎたその時でも顔を覚えていたのです。

でもこちらが覚えていたとしても、彼女の方が自分のことを覚えていたのは不思議です。彼女にしてみれば私は単なる同期入社15名ほどの男性社員の一人にすぎなかったはずだからです。

どう考えてみても私という男性をいつまでも忘れ得ないほどの強いインパクトを与えたとは思えません。それ故にいくら考えても突然の訪問を受けたことが解せないのです。

とはいえ、彼女の突然の訪問に私は大いに驚いたものの別に不快ではありませんでした。

というのも彼女が評判の美人だったからに違いありません。たとえどんな形にせよ、美人の訪問を受けていやな気持になる男はいないと思います。

それに、同僚たちに「オーさんには、こんな美人の知り合いがいたのか」という羨望の気持ちを抱かせるのも小気味良いものです。

なにしろ、彼女は回りのすべての男性を虜にするほどの素敵な美人女性だったのですから。



彼女はなぜ親しくもなかった私をわざわざ訪ねてきたのだろう


それにしてもなぜ彼女は親しくもなかった私をわざわざ訪ねてきたのだろうか、という疑問はその後長い間消えませんでした。

繰り返しますが、彼女とは同期入社の関係で顔見知りだとは言うものの、出会ったときに挨拶を交わす程度で、親しく話したリ、行動を共にしたことは一度もないのです。

この程度の密度の薄い関係では、一般的に一方がわざわざ相手の職場を尋ねてくることなどないことだ、と思うからです。

とはいえ、かつて私は心の隅で、こんなにきれいな人を彼女にできたらどんなに幸せなことだろうと憧れたことはあります。

ひょっとしてそんな私の下心を彼女は見透かしていたのかもしれません。もしそうだとしたら、彼女の突然の訪問は分からなくもありません。

つまり、自分に憧れていた僕を甘く見て「この人だと聞いてくれるかもしれない」と、何か頼みごとを企てて、やって来たのかもしれないのです。



驚くべきかな、彼女の目的は保険の勧誘だったのだ


悲しむべきかな、私のそんな予想は的中しました。

さすがに遠慮がちな表情はしていたものの、彼女の口から出た用件は、なんと「生命保険に入っていただけませんか」というものでした。

訪ねてきて、最初に見た彼女は、最初に出会った頃の美貌は幾分失せていて、何か疲れていて寂しそうな雰囲気が漂っているのを感じました。

そんな様子から、ひょっとして彼女は何か頼み事をするためにやってきたのでは、と思っていたのですが、その予想が的中したのです。

驚くべきことに、彼女は保険の外交員になっていたのです。

その頃の私は保険の外交員のことを、いわゆる「おばちゃん」と呼ばれるような50歳を超えた、年配女性の仕事と思い込んでいました。

それ故に、まだ30歳にも手の届かない彼女のような若い彼女が、その職業に転身していたことに大きな驚きを感じたのです。



何故私は彼女の頼みを即決で承諾してしまったのか


最後に私の後悔話しを書くことにします。彼女が保険のセールスレディに転身していたことに大きな驚きを感じた私ですが、「生命保険に入ってください」という彼女のリクエストには、ほとんど抵抗することなく承諾してしまったのです。

でも、数日後には、これが大失敗であったことに気がつきました。

生命保険の契約は人生で数ある契約ごとの中でも決して小さなものではありません。それ故に頼まれたからとはいえ、簡単に決めていいものではありません。

ましてや私は既に妻帯者の身で、妻も子どももいたのです。生命保険は必要なものとはいえ、当然配偶者である妻に相談して決めるべきものです。

それを独断で、しかも特に親しくもなかった女性から頼まれたその日に即決で承諾し、契約を結んでしまったのです。

なんという軽はずみな行為でしょうか。

このことで妻との関係に少なからずヒビが入ったことは言うまでもなく、その後しばらくしてからの離婚の一因になったことは確かです。



(part 2)


Aさんはなぜ親しくもなかった私に頼み事をするため職場までやってきたのだろうか


このシリーズPart 1では、Aさんが私の職場を訪れてきた目的は生命保険の勧誘であったこと。それに対して、私はよく検討もせず、安易に承諾し契約を結んでしまったことを後で深く後悔したところまで書きました。


その続編として、このPart 2`は始まるのですが、まず書きたいのは、そもそもAさんはどんなプロセスを経て私を訪問することを決めたのかということです。この点がとてもミステリアスで私にはよくわからないのです。


というのもAさんと私はRホテルの親会社である株式会社Sホテルに同期入社した間柄というだけで、別に親しくお付き合いしたこともありません。いうなれば出会ったときに挨拶を交わす程度のうすい関係の間柄でしかないのです。


それに私は親会社を離れて傘下のチェーンであるRホテルへ移動し、さらにその後ホテルPへ転身したのです。その間7年間Aさんには全く会っていません。


それ故にAさんの存在は忘れかけていたのです。これはAさんにしても同じことで、7年も会っていない私のことなど、とっくに忘れて去っていていいはずです。


そうした状況で、Aさんが突然私を訪問してきたことが解せないのです。それに合わせて気になったのは次のタイトルにある点です。


7年以上会っていないのに何故Aさんは私の新しい職場がわかったのだろうか


上に書いたようにǍさんには7年以上会っておらず、その存在すら忘れかけていましたのです。それ故に突然訪問を受けた時の驚きが大きかったのです。


驚きだけではありません。不思議なのはなぜAさんが私の新しい勤務先を知っていたのだろうかということです。


系列のRホテルへの転籍については、社内ニュースなどで知り得た可能性がありますが、その後のホテルPへの転身は部外者は知り得ないことなのです。


なのにAさんは私の新しい勤務先を知っていたのです。いったいなぜなのか、この点がまったく解らないのです。


Aさんはこれまでどんな人生をたどってきたのだろうか


親しくもない私に保険の勧誘にきたAさんについて私はいろいろ考えたのですが、結論から言えることは、彼女は決して幸せな人生を歩んできていないのでは、ということです。


周りの誰もがうらやむほど、抜群の美貌を持つ彼女なら男性にも持てたはずです。


それ故に経済力のある男性に恵まれ、幸せな結婚生活を送っていても不思議はないはずです。


でも実際の彼女は、若い女性にとって決して良い職業とは言えない(当時は)、保険のセールスという厳しい世界に身を投じていたのです。


私には「これには何か深い事情があるに違いない」と思えて仕方がないのです。



ひょっとして悪い男に騙されて不幸な人生を送っているのかも


特別親しくもなく、もう何年も会っていないAさんが、突然私を訪ねてきて、しかもその目的が保険の勧誘だったということに対して、私はどうしても納得できないどころか、事態のこうした成り行きに対して、何か陰謀めいたものさえ感じてきたのです。


それもそうでしょう。単なる顔見知りであいさつ程度しか交わさない相手で、しかも何年も会っておらず、消息さえ掴みにくい相手を探し出し、保険の勧誘に出かける。このようなことは、普通に考えて世間一般ではあり得ないことだからです。


陰謀めいたものを感じるというのは、この計画が彼女自身が考えてものではなく、誰かにそそのかされてのことなのではないか。と思えるからなのです。

その誰かとは、彼女が交際している男なのではないか。その男はかつて私と職場が同じで、私とは親しい関係にあって、私のことをよく知っている人物なのかもしれない。


それ故に私の消息もよく掴んでおり、当然その後の私の職場についても知っていたのだろう。それを交際相手のAさんに教え、保険の勧誘を指示したのかもしれない。


そうだ、Aさんの行動は交際している男にそそのかされてのことなのではないだろうか。こう考えると、不思議に思えたAさんの行動も納得できるではないか。


長い人生では理解に苦しむような出来事の遭遇することもある

私の古い知り合いで悪い男。と考えると、2~3人の姿が頭に浮かんできて、この中の誰かだろうか、と思ったりしました。


でも私は、この件に関してこれ以上考えるのは止めることにしました。

いくら考えてもキリがなく、憶測を生むだけで決して明快な結論には達し得ないと考えたからです。


長い人生には、時として、まったく理解に苦しむようなことに遭遇することがあるものです。


こう考えて、ここまででこの話を終りにすることにしました。