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時計が三時を回っても少しも眠たくはならなかった。電車でも立ちっぱなしだったし、降りてからもあちこち歩いて、相当疲れていても不思議でないのに、まだ目は冴え渡っていて、まるで睡気は訪れてこなかった。
多分女も同じような状態らしく、ビールのせいもあってか、目の色にしても次第に輝きを増してきてさえいるようだった。
とは言え、三時は三時、明日のことを考えれば少しは休まなければならない。お互いに学校はまだ休みだが、進次には夜十時からの夜勤の仕事があった。
「ビールも飲んだし、少し休みましょうか。ぼくはちょっと風呂に入ってからこのソファで寝ます。あなたはあちらの布団でどうぞ」
来る前に下着のことを心配していたし、多分女は風呂へ入らないだろうと思い、そのことについては何も尋ねなかった。
「お布団はいいです。わたしもここへ寝ますから」
「そう、じゃあそうしますか。むこうから毛布でも持ってくればいいんだし」
進次は女に布団が敷いている部屋へ行けと、しつこくはすすめなかった。そうすると何か下心があるのでは、と思われるのが嫌だったからだ。
「じゃあ僕、風呂に入ってきます。どうぞ先に休んでください。でも明るくなったら起こしてくださいよ、ぼく朝がとても弱いもんで」
カラスの行水もいいとこで、五分もたたず風呂場を出てきて、備え付けの浴衣を着てソファのところへ戻ってきた。
たかが五分ぐらいで寝てしまうはずはなく、多分まだ起きているだろうと思っていたのだが、女は薄手の掛け布団を肩からすっぽり被り、ソファの背によく向きになって目を閉じていた。
「もう寝たの?」そう声をかけようとした進次だが、その言葉は発することなく飲み込んだ。もう寝たの、もないもんだ。三時を過ぎて、あと二~三時間もすると朝ではないか。
「なにもしないから」と言った進次のことを信じていたからなのか、無邪気な顔をして寝込んで居る女の姿を目の当たりにして、それまで微かに抱いていた、あわよくばなんとかしたい、というような下心は、不思議とすっかり消えていて、さあ自分も早く寝ようとばかり、奥の部屋から布団を引っ張ってきて、ソファごとすっぽり被せて、それから一分もたたないうちにスヤスヤと心地良さそうな寝息をたてていた。
和子は次の週の月曜の朝、珍しく九時過ぎまで寝坊した。
昨日の日曜日、十一時ごろ阪急電車の車中で進次と別れて、昼前に芦屋川の下宿に帰ってきて、田舎の家から持ってきたカキ餅と干し柿を下宿のおばさんと近所に住む友達二人に届けに行き、帰ってから部屋の掃除をして、たまった洗濯をすますと、もう五時近くになっていた。もっとも友達のアパートで二時間近くおしゃべりして過ごしたのだが。
一昨夜のホテルでは、三〜四時間眠っただろうか。それくらいの睡眠だと、普段なら身体が重いはずなのに、不思議と身体も心も軽かった。
いや、軽いと言うより、嬉しくてウキウキと心が弾んでいるような心地良さを感じていた。
何か明るい未来がパッと開けたような気がして、まわりの物がすべてバラ色に見えるような、すこぶる晴れ晴れした気分であった。
―わたしにもやっとボーイフレンドができたのだわ。進次さんというあの二十一歳の素敵な人。
あの人、ホテルなんかにわたしを連れて行ったけど、行く前の約束どおり、嫌なことなど何もしなかった。港のベンチで「一緒にどこかへ泊ってくれ」と言われたときは本当に迷ったけど、でも付いて行ってよかったのだわ。
あの時もしわたしが断って帰っていたら次に会う約束などできたかしら? 彼は気分を害して、「また会おう」なんて言わなかったにちがいないわ。
勇気を出してついて行ったからこそ、私のことを好ましく思ってくれたんだわ。嫌なことなど何もなかったし、今度の土曜にまた会う約束ができたし、やっぱりあれでよかったのだわ。
これでやっと寂しい生活ともお別れだわ。だって欲しくて仕方のなかッたボーイフレンドがついにできたのだもの―
できることならこの喜びを誰かに伝えたいものだと、和子が鼻歌まじりでベランダの洗濯物を取り込んでいるときドアがノックされ、まだ返事も返さないうちに「ただいま」と元気な声をあげながら、隣部屋に住む紀子が入ってきた。
コースは違ったが彼女も和子と同じ専門学校の生徒で、鳥取の大山近くの実家に帰省していて、いま戻ってきたところであった。
「和ちゃん、いつ帰ってきたん、きのう?今日?」
少し開いたガラス戸から、ベランダに顔だけ出して紀子が尋ねた。
「きのうよ、いや違うわ。今日のお昼ごろよ」
本当は昨日の土曜日の深夜に帰っているはずであったので、つい昨日と言いそうになったのだが、その瞬間昨夜のホテルが思い出され、つい正直に今日の昼頃と言ってしまっていた。
別段昨夜だろうが今日の昼頃であろうが、どちらでもよかったのだが。
「何よそれ?昨日と言いかけて今日っていうの」
「う、うん。本当は昨日帰るつもりだったんだけど、家を出そびれて、つい今日になってしまったもんだからそれで、でも紀ちゃんこそ三日ほどで帰ってくると言ってたじゃない。三〇日に帰ったんだから、ええっと、今日で六日目か。どう、楽しかった?」
「まあね。友達にたくさん会ったけど、もう女ばっかり、和ちゃんこそどうだったのよ。
中学の同窓会で初恋の人に会えたらいいなって言ってたけど、会ったの?」
「残念、ハズレでした。来てなかったわ。でもね」
和子はそう言うと紀子を見ながら満面に笑みをたたえた。
「でもねって何よ?、それに急にニヤニヤしたりして、何か良いことあったの?」
紀子は和子の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「あったあった。あったのよ。その良いことが」
つづく
次回 9月3日(木)