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下津はつい三日ほど前にも道夫にこう話していた
「なあ浜田、チップはその日の運ということもあるけど、腕の良し悪しも大きいよ。例えばよくある夫婦らしくないカップルのチェックインに当たった時だ。客としては例え相手がボーイだとはいえ、浮気現場を見られているようなもんだから、なんとなくオドオドしていて、態度がぎこちない。まずこのぎこちなさを解かなければいけないんだ。
こんな客を前にした時、俺はできるだけ明るく振舞う。そしてカップルの女性の方に向かって、ごく自然に奥様という呼称を連発するんだ。
たとえば 『奥様、お部屋は十二階の一二〇八号室でございます』とか、『奥様、明日のモーニングコールは何時に致しましょうか』とか、とにかくなんでもいいから先に奥様とつけてしゃべり始めるんだよ。
そうしているといつの間にか相手のぎこちなさ消えていき、次第に打ち解けてきて、いろいろ質問してきたりするんだ。
こうなればもうしめたもの。思い切り二人の下僕にでもなったつもりで、帰りぎわに丁重にこう言うんだ。
『私この部屋の担当の下津と申します。ただ今からご出発までの間、どんなことでもお客様ご夫婦に役立つことをするのが私のつとめです。ご用がありましたらいつでもこの私にご命じください』
これでばっちり、これまでこのやり方で、これはと目をつけたカップルからのチップは二千円を下ったことはないよ」
道夫は三日前、深夜のロビーで自信たっぷりに語った下津のそんなセリフを思い出しながら、 よし、今夜は僕もあの手でいこうと、二人を先導して薄暗い十一階のフロアを歩いていた。
そして、もう五~六歩で部屋へ着くというところまできて、さて奥様といつ切りだそうかと、しきりにタイミングを計っていた。
突き当たりから二つ手前、1109号室のドアの前まできて、「奥様、こちらがお部屋です」と言おうとしたが、「お、お」と喉から出そうになったが意識しすぎたせいか、なんだかドモリそうな気がしてそうは言えず、「こちらがお部屋です。」とだけ言ってドアを開け、ライトをつけて、いつもするように左手でドアを支えながら今度も「どうぞお入りください」とだけ言った。
まずいなこりゃあ。言おうと思えば二度「奥様」とつけるチャンスがあったのに、どうも下津さんのようにはいかないな。
二人のあとから部屋に入って、ベッドの奥のバゲッジスタンドに荷物を置きながら、道夫は次のセリフを考えていた。
できるだけ明るく振舞うか。そうだそうしなくちゃいけないんだ。
下津の言ったそんな言葉を思い出し、部屋の明るいライトの下に立つと、思い切り笑顔をつくり二人に向かって切りだした。
「大阪にはよくいらっしゃるんですか?」
「そうじゃなあ。年に二〜三回かのう」 すでにソファーに腰をおろしていた男性の方が聞き覚えのある中国地方のなまり言葉で答えた。
広島の人かな、それとも岡山だろうか。 そう思いながらそのことは聞かず「お仕事で?」と続けてたずねた。
「まあ半々じゃのう。なああんた」 男性はそう言いながら、カーテンごしに北の盛り場のネオンがチラチラする窓のそばに立っている女性の方へ目をむけ返事を求めた。
「そうねえ」 女性は窓の方を向いたまま、ただそれだけ言ってうなずいた。
道夫は、今度はさっと女性の方へ向き直って言った。
「お、奥様、ご存知かもしれませんが一応お部屋について説明させていただきます。バスルームはドアの左手、浴衣はクローゼットの中、非常口は二部屋先の廊下の突き当たりにあります。それからルームサービスは深夜二時まででダイアル5番です。
いまなにかご注文があれば私がうけたまわりますが」
出だしで少しドモリはしたが、やっと奥様と一回言うことができ、少し安心して相手の反応を待った。
「そうねえ、ねえあなた、ビールでも持ってきていただく?」
男と違って、こちらはなんのなまりもないきれいな言葉だった。
「そうじゃのう。風呂から上がってでええがな」
「そうねえ、じゃあ一時間後にビール二本お願い」 男のその言葉をうけて女がこたえた。
「承知いたしました奥様。それからなんでしら明朝のモーニングコールうかがっておきますけど、明日はお早いんですか?」
「そんなに早くはないわ。十時ぐらいにここを出るつもりなの。普通に起きればいいんだし、モーニングコールはいいわ」
二度目はどもらずに奥様と言えて、ホッとした道夫だが、さっきまでは窓のほうを向いていた女が正面に向き直り少しだけ笑みを浮かべてそう答えたとき、黄色いワンピースの豊満な胸の部分の大きなカットが目に入り、奥様と二度言えてホッとしていた道夫を再び落ち着かなくさせており、まだ言うことがあるのに「では私はこれで」と、つい頭を下げてしまった。
こりゃあまずい。ひょっとしてチップはもらえないかも。 そう思ってドアの方へ向かおうとしたとき女が「ちょっと待って」と言った。
「しめた!」と思い「はいなにか?」と応えてまた女の方を振り返った。
女はテーブルからハンドバッグを取り、裸のまま紙幣を取り出していた。
「これ少ないですけどタバコ代にでも」 おさつを四つ折にして、女がそう言って差し出したとき、「そ、それはどうも」と、すこし照れたような口調で答えながら、手だけはサッとだしていた。
「それでは一時間後におビールを」 ドアの前まできて、そう言って深々と頭を下げて部屋を出た。
薄暗い廊下に出てエレベーターに向かって歩きながらあたりの人影がないのを確認してから貰ったおさつを広げてみた。
オッ、二枚ある。下津さんは二千円を下ったことはないと言ってたけど、なんとかその線は保てたな。奥様と二度言って二千円か。もしもう二〜三回言ってたら果たしてどうだったろう。
つづく
次回2月12日(木)