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エレベーターまでもう少しのフロアの真ん中あたりまで歩いてきて、貰ったチケット入りの封筒を手に持ったままだと気がついて 「そうだ。しまわなくちゃあ」と、ユニフォームの内ポケットへ念入りにおさめた。それをさらに上からなでて、ゆっくりと感触を味わい、その後で道夫ははたと考えた。
コマ劇場特別席の切符二枚か、でもいったい誰を誘ったらいいんだろう。 エレベーターの中でもずっとそのことを考えていて、一階へ下りてボーイの詰所で小山に「浜田さん、トイレ長かったですねえ」と言われたときにも 「ちょっとトイレに行ってくる」と言って席をはずしたことなどとんと忘れており、あわてて「う、うん。ちょっと腹具合が悪くてなあ、おかしいなあ今日なにか悪いもの食べたかなあ」と出まかせのセリフを発していた。
それからもずっと切符のことばかり考えており、最終的に相手としてはやや不足だとは思ったが、 この際、普段お世話になっている下宿のおばさんでも誘うとするか、と結論を出そうとしたとき、ふと頭に別のことがひらめいた。
そうだ、池上さんを誘ってみたらどうだろう。あの人ついこの前の朝、ぼくに向かって言ったんだ。「夜中のお仕事はたいへんでしょう。眠たくありませんか?」と、やさしく微笑んでくれたのだ。
あの時はぼくの方がうまく応えられなくて会話は長く続かなかったけど、分かれるときの彼女のあの表情、もっと何かを語りかけたそうだった。
そうだ、いいチャンスではないか。二歳上の僕でさえ、コマ劇場へなんか一度も行ったことがないんだし、あの人だってきっとそうに違いない。そうだ、そうしよう。
いいだろうなあ、あの人の横に座って芝居を見たりしたら。
でも待てよ、話すとしたら明日しかない。明日うまく彼女に会えるだろうか。もしや休みということはないだろうか。
そんなことを考えながら、道夫は期待と不安でしだいに興奮を高めながら、四時の仮眠時間がやってくるまで、ずっとそのことばかり考えていた。
翌朝、勤務が終わる少し前にようやく意を決すると彼女の勤務場所である七階のメイドステーションへと足を運んだ。
そこへ行くすこし前に、なにか引継ぎ事項はないかと、他のボーイたちにもたずねたりしたが、あいにくその階のメイドに引き継ぐ業務は何もなかった。
えい、こうなったらしょうがない。出たとこ勝負だ。そう腹を決めてエレベーターに乗り、さっき勤務についたばかりのエレベーターガールの椎野さんに「七階お願いします」とていねいに告げた。
それを聞き「はい」と返事しながらチラッと道夫を見て会釈した椎野さんのことを、この人もまたかわいいな。コマ劇場の芝居、もし池上さんがだめだったら、かわりにこの人を誘ってみようか、などと、一瞬とはいえ、ずいぶん場当たり的なことを考えたが、 でも無理か、この人、噂ではフロント係の西山さんとつきあっているらしいから。
おっといかん、いかん。こんなことを考えていては、池上さんだ。彼女いっぽんに絞らなくては。
道夫が頭を少し振って胸の中でそうつぶやいたとき、エレベーターは七階に止まり音もなくゆっくりとドアが開いた。
椎野さんに「どうも」と頭を下げ、あちこちからドアのバタンと閉まる音が聞こえるあわただしげなフロアへ出て行った。
池上さん、うまくメイドステーションにいてくれるといいんだけど。
フロアの真ん中あたりにあるメイドステーションのサービスカウンターに向かいながら、祈るような気持ちで歩いていた。
サービスカウンターにはその階のメイドのキャプテン、中村さんが座っており、背を丸めて何やらせわしげにペンを走らせていた。
「あのう、すいません。ナイトボーイの浜田です。池上さんはいますか? 昨夜、親戚の方から電話でことずかった伝言があるのですけど」
下を向いたままだった中村さんに一気にそんな作り話を告げて返事を待った。
「あら浜田くん、もうお仕事終りなの? どう、このごろは。なにか変わったおもしろいことない?」
道夫の声でペンを置いて顔を上げた中村さんはしげしげと道夫の顔を見ながら用件には答えずそんな質問を浴びせてきた。
「ないですねえ。毎日が平々凡々ですよ。ただやたら日が過ぎていき歳をくうばかりで」
そこまで言って、このセリフはまずかったと思った。なにせ、この中村さんは三十半ばのハイミスで、歳のことは人一倍気にしているはずなのだから。
でもそんな心配もどうやら杞憂に終わったようで 「でもいいわよ。その平々凡々が、半年前のように客室内でたて続けに二人も自殺者が出るようなことがあるより、でも、いいことだったらいくらあってもいいんだけど。
あっそうそう、ごめんなさい。池上さんに用だったのね。中にいると思うわ。待ってて、呼んできてあげるから」
中村さんはさばさばとした調子でそう言うと詰所の控え室へ入っていった。
よかった。池上さんいるんだ。 道夫はホッとしながら胸のポケットに入れてあるコマ劇場の招待券一枚と手紙を入れた封筒を制服の上からそっと押さえてみた。
「あら、浜田さんでしたの、お久しぶり。お元気ですか? ところでこの私に伝言ですって、いったい誰からかしら」
池上さんは透きとおった涼しげな声でそう言いながらカウンター越しにじっと道夫の顔を見つめていた。
その目を正面から見返したとき、道夫は心地よさからフラフラッと軽いめまいのようなものを感じたが、極力平静をとりつくろって言った。
「は、はい。これなんですけど、読んでいただいたらわかると思います」
カウンター越しに指のきれいな白いきゃしゃな手が差し伸べられ、差し出した封筒をゆっくりつかんだ。
「じゃあ僕はこれで」 渡した瞬間、道夫は間髪をいれずそう言ってさっと踵を返してエレベーターの方へ向かった。
でもその前は通過して、左手奥の鉄のドアを押して、非常階段へと出て行った。
エレベーターを待ったりしていて、封筒を開けて中を見た池上さんに何か言われるのがこわかったのだ。
つづく
次回 3月12日(木)
