2026年3月27日金曜日

「知れば知るほど知らないことが増える」とは、どういう意味なのか



本を読めば知識を得て知らないことが減るはずなのに、逆に増えてくるのはなぜ


「知れば知るほど知らないことが増える」といま読んでいる「ビルゲイツ自伝」に出てきた言葉ですが、この意味は解っている気がしますが、もう一つはっきりしないところもあります。


でもこの言葉を実感することはあります。それは私自身普段からたゆまず読書を続けていますが、それが進めば進むほど「知らなかったり、解らないことなどが増えてくる」と思うからです。


これについて「なぜだろう」と自問することがよくあるのです。




AIはこう言っている


「知れば知るほど知らないことが増える」とは、ある分野について学べば学ぶほど、その奥深さや自分の未熟さを痛感するという、知識の性質を表した言葉です。 

この現象は主に以下の3つの側面から語られます。


1. 「知識の境界線」の拡大

知識を「円」に例えると分かりやすくなります。

  • 自分の知っていることが増える(円が大きくなる)と、その円の外側にある「知らない世界」との接点(境界線)も長くなります。

  • 結果として、新たに「これは何だろう?」「これも知らない」と気づく事柄が、以前よりも増えていくことになります。 

2. 「無知の知」の自覚

古代ギリシャの哲学者ソクラテスが提唱した「無知の知」という考え方に通じます。 

チアキャリア

何も知らない段階では、自分が何を知らないのかさえ分かっていません。

  • 学び始めることで初めて、自分が「何を知らないのか」を正しく認識できるようになり、謙虚な姿勢が生まれます。 

3. アインシュタインなどの名言

アルベルト・アインシュタインの言葉としてもしばしば引用されます。

「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる。」 

雲雀丘学園中学校・高等学校

このように、知らないことが増えるのは知識が停滞しているからではなく、むしろ理解が進み、より高い視点に立った証拠であると前向きに捉えられます。 


「知れば知るほど知らないことが増える」とは、ある分野について深く学んで知識が増えるほど、それに関連する未知の領域や自分の無知な部分がより明確に見えてくるという現象を指します。 

これは単なる個人の感覚ではなく、古くから哲学や科学の世界で語られてきた真理の一つです。


1. 「知の円」の比喩

よく使われるのが、自分の知識を「円」に例える説明です。

  • 円の内側:自分が知っていること

  • 円の境界線:自分が「知らない」と認識していること(未知との接点)

知識が増えて円が大きくなると、それに比例して外側の未知の世界と接する「境界線(知らないこと)」も長く、広くなっていくという理屈です。


2. 歴史的な名言・概念

この考え方は、多くの偉人や理論にも通じています。 

  • ソクラテスの「無知の知」:自分が何も知らないということを自覚することが、真の知恵への第一歩であるという哲学

  • アインシュタインの名言:「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる」という言葉が有名です

  • ダニング=クルーガー効果:能力の低い人ほど自分を過大評価し、逆に熟練した人ほど自分の足りない部分を正確に把握し、自信を控えめにするという心理現象 

3. この言葉が持つポジティブな意味

一見すると「学んでもきりがない」とネガティブに聞こえるかもしれませんが、実際には成長の証として捉えられます。

  • 視野の拡大:以前は見えていなかった「奥深さ」や「複雑さ」が見えるようになった証拠です。

  • 謙虚さと探究心:自分の無知を自覚することで、さらに深く学びたいという意欲や、他者への謙虚さが生まれます。

専門家が「自分はまだまだです」と言うのは、謙遜だけでなく、広大な未知の領域が彼らにははっきりと見えているからだと言えます。




2026年3月26日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈5〉下津さんの失敗・ナイトボーイの愉楽②(9)

   

                 

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     9

 〈浜田君元気かい。約一ヶ月ぶりにまたやって来たけど、今度はテレビの仕事でね、前のように長くはなくて二日だけの滞在なんだ。


この前は君を招待して僕の芝居見に来てもらったけど、どうだった? 客は圧倒的に中年以上の人が多かったようだけど、若い人だって案外いいと思ってくれたと思うんだけど。


あの後なんだかんだで君とゆっくり会って話すことができなかったのだけど、どうだろう、二日後の木曜日、ぼく午後二時まで体が空いているんだけど、君が朝仕事を終えてから少しつき合ってもらえないだろうか。君にも学校があるようだから是非ともとは言わないけれど、できたら会ってゆっくり話したいな。


今日はもう遅いし返事は無理だろうから、できたら明朝にでもぼくの部屋に電話してください。十時まではホテルにいます。じゃあそのときに。   二宮竜一郎〉


 あさっての木曜か。二宮さんゆっくり話したいと書いているし、学校へ行く前の二~三十分ではすみそうにないな。どうしよう、午前中のレッスン休もうか。それともその日はぜんぶ。


いやだめだ。先月から章子さんの休日に合わせてのデートのために二日も休んでしまったのだし、二宮さん学校が終わる三時頃にしてくれたらよかったのになあ。


でもそんなことも言えないか。彼にはこれまで何度もごちそうになっているし、おまけにこの前はコマ劇場に招待してもらって、そのおかげで僕はあの憧れの章子さんをなんとか掌中におさめることができたんだ。


もしあの切符がなかったら僕と彼女の仲もこれほど進展してはいなかっただろう。


いや、それどころかいまだに彼女を遠くから眺めていて、一人で心ときめかしているだけかもしれない。やはり二宮さんには会わなければならない。たとえ学校を休むことになっても。 


道夫はそう結論を出すと、便箋を封筒に戻して無造作に内ポケットに押し込み、その後ソファーの背に大きく身をのけぞらした。

 

 薄暗く深閑として広いロビーにフロント係がたたく計算機の音だけがカタカタと鳴り響いていた。



 翌朝八時、終業直後に二宮に電話して「明日九時にホテル隣のビル地下の喫茶店でお待ちします」と伝えた後、冷夏で例年ほどではないが真夏の太陽がギラギラする街へと出ていった。


ホテルからすぐ近くの交差点を右に折れ、大江橋をわたるとき、川下からポンポン汽船が波を切って勢いよく上ってきた。


 船か、いいなああれも。そうだ、今度章子さんと船に乗ってみようか。どこがいいだろ? 大阪港か、いやだめだ。ヘドロのつまった大阪港じゃ、ちょっとムードに欠ける。神戸はどうか、そうだ神戸がいい。港街神戸。やはりそちらの方がロマンチックだ。


 道夫はそんなことを考えて、数分前に電話した二宮とのことはすっかり忘れ、頭に浮かぶのは章子との次のデートのことばかりで、橋の欄干に両手をかけると、その船が河上に向かって次第に小さくなっていくのを名残惜しそうにポカンと眺めていた。


 次の日の朝、約束どおり二宮と会い、結局昼過ぎまで話していた。


 三時間あまりの長い会話の中で、二宮のプライベートな部分についていろいろなことを知った。


それまでははっきり知らなかった五十一歳という年齢。奥さんが三年前に病気で亡くなり、子どもはなく、今は一人身であるということ。


五十を越したばかりで、まだそんな歳でもないのに、なぜか女性にはそれほど興味が湧かないといったこと。(それを言ったあとで二宮はなにか意味ありげな表情で道夫を見ていた)


 東京の麻布に住んでいて、マンションには歳とったお手伝いさんを雇っていて、身のまわりの世話をしてもらっていること。老後はどこか外国へでも行って、一人で暮らしたいと思っていること。


 自分の息子ぐらいの年齢でしかない道夫を前にして、二宮はそんなことをとつとつとしゃべっていた。


一時近くになって、道夫が「じゃあ僕午後から学校へ行きますので」と、席を立とうとすると、二宮がずいぶん名残惜しそうな表情で言った。


 「この次に来たときは夜会おうよ。どこか和食のおいしいところで食事して、その後静かなクラブへでも行って一緒に飲もうよ。どうだい?」 


二宮のその申出に対して道夫は「え、ええ」と返事はしたものの、さっき彼が、女性にはあまり興味がないと言ったときの何か意味ありげな表情と、ふとそのとき思い出した、三日前の、フロント係の上村さんが言った


「君童顔でかわいい顔をしているから、以外と中年男性のこのみのタイプかもしれないな」というセリフが頭の中で重なり合い、 ひょっとして二宮さん、あちらの方の趣味があるのではないだろうか?と、道夫の脳裏をあらぬ想像が駆けめぐっていた。


でもそれは顔には出さず、この前の芝居のお礼とともに、きっちりと挨拶して一時少し前に彼と別れた。


 ビルの地下から階段を駆け上がって通りへ出て、時計を見て午後のレッスンまであと七分か、と小さく呟きながら英語学校がある桜橋に向かって大股で歩いていった。


つづく


次回 4月2日(木)


2026年3月22日日曜日

《NHK朝ドラ》夢中になっている人々に対して思うこと



AIですら言っているのになぜ気づかない人たちが多いのか


偶然観た金曜夕方のテレビでNHKで目下放映中の朝ドラ「ばけばけ」の終了を記念する特集番組が放映されていました。NHK松江の特設会場とNHK大阪のスタジオをつないだ二元放送で、NHK大阪放送局の高瀬アナが司会を務める、出演者による座談会形式の番組でした。


これを観ていて気になったのは、司会者をはじめ出演者や会場入場者たちの異常とも思える熱量の高さです。


私は朝ドラは見ない派の人間で、もともとあまり興味を持っていないのですが、熱心に観ている多くのファンが対象の番組とはいえ


司会者を筆頭に出演者や出席者の方々の異常とも言っていいほどの盛り上がり方がまったく理解できません。


常日頃から思っているのですが、なぜNHKの朝ドラファンは、毎回似通ったテーマで長年放送を続けるこうした連続ドラマに、これほど熱を上げて視聴を続けるのでしょうか。


傍観者にとっては、不思議に思えて仕方ありません。


と同時に、こうした連続ドラマや小説などにあまりにも熱心に入れ込むことは、場合によっては有害になることをお教えしたいぐらいです。


以下はこれに関してのAIによる説明です。


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ドラマや小説という虚構の世界に長く身を置くことの危険性


(AI による概要)


ドラマや小説という虚構の世界に長く身を置くことは、想像力を豊かにし、他者の人生を体験できるというメリットがある一方で、現実逃避や価値観の歪みといった危険性もはらんでいます。具体的には、以下のようなリスクが挙げられます。

  • 現実と虚構の境界が曖昧になる(自己喪失・現実逃避)

    • 物語の世界に没入しすぎるあまり、現実の厳しい問題や日常的な責任から目を背けるようになり、現実生活が疎かになる「現実逃避」に陥る危険があります。

    • 「虚構」の感情や論理が日常会話や価値判断の基準となり、現実の人間関係や社会生活に適応しづらくなるケースがあります。

    • 価値観の固定化と極端化

    • 特定のジャンルや同じような作風のドラマや小説ばかりに長く触れていると、その世界観が「真実」であると誤認し、現実の多様な価値観を受け入れられなくなる(視野が狭くなる)恐れがあります。

  • 強烈なエモーション(感情)の麻痺

    • 物語の中で日常的にドラマチックな出来事や感情の起伏に触れ続けると、現実の些細な出来事に対する感受性が低下し、感情が麻痺する可能性があります。

  • 虚構を「真実」と錯覚する危険

    • 特に自伝的要素が強いドラマ、小説や、歴史的背景を舞台にした作品において、作者の創作した描写を「真実」として記憶し、現実の事実と混同してしまう危険性があります。 

これらの危険性を理解し、ドラマや小説という「虚構の世界」を楽しみつつ、常に「現実」という地面に足をつけておくバランス感覚が重要と言えます。



2026年3月19日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド(5〉下津さんの失敗・ナイトボーイの愉楽②(8)

   

                 

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                                    8


 昨日の今日、それにしてもこの人よく来てくれたな。もしや僕が彼女を思っているのと同様に、彼女も僕に気があるのだろうか。


でも待てよ。そうとも限らない。こんな高級な芝居、ぼくらの年齢の者にはなかなか来られるチャンスはない。今日彼女がやってきたのは単にこの芝居と劇場に興味があったからなのかもしれない。


 それが証拠に彼女さっきから目を食い入るようにして舞台を見つめているではないか。 

 

でもまあいいか。とにかく来てくれたのだし、たとえこれまでたいして僕に気がなかったにせよ、これをきっかけに交際が始まればいいんだし。


 道夫はそんなふうに考えて、後半の幕が上がってらはそれまでよりは少し気を入れて舞台を見るようになっていた。


 それでもあと十五分もすれば幕が下りるという頃になると、 これが終わったらその後どうしようかと、再びソワソワし始めていた。


 これが終わるのが四時半か。食事にはまだ早いな。喫茶店に誘ってお茶でも飲もうか。食事はその後でいい。


でも彼女、この後もすんなりつきあってくれるだろうか。ここを出るなり「もう帰る」などと言わないだろうか。


これまでにもう三時間も一緒にいたけれど、なにしろ場所がこんなところで、まだろくに話もしてないんだし、できたらもうしばらく一緒にいて、いろいろと話してみたいな。どうか「帰る」と言わないように。


 そんなことを繰り返し考えていて、気がついたときには舞台に出演者全員が上がっていて、観客に向かって大きくおじぎをしているところだった。


 ふと隣に目をやると、章子さんはけんめいに拍手しながらうっとりとした表情で出演者の面々を見つめていた。道夫もつられて拍手をはじめ、二宮さんどこにいるかなあ、とあわてて舞台に目をやった。


 章子さん、この芝居気に入ったんだ。誘ってよかった。

 後半の一部分をのぞいて一向に見物に身の入らなかった自分のことはさておき、そう思ってとりあえず満足した気分になっていた。


 カーテンがすっかり下がり、場内のライトが赤々とともり、微かなどよめきとともに観客が出口に向かって動き始めた。


比較的前の方の座席に座っていた道夫と章子だったが、後部の客がおおかた立ち上がったのを確認してから、ゆっくりと流れる通路の行列に加わった。


二人並んでやっと通れる狭い通路で、道夫の肩がときおり章子の肩に触れ、そのたびに道夫の体になんともいえない心地よさを与えていた。


 外へ出ると、入る前晴れていた空はどんより曇っており、初夏のキラキラした太陽はのぞいていなかった。


六月真ん中の土曜日とあって劇場近くの繁華街の人出はすこぶる多く、しばらくの間、二人は人の群れをかいくぐって歩いていた。


 大通りに出て交差点をわたり、警察署の前を通ってやっと広々とした御堂筋に出た。


 「すごい人ごみでしたねえ」 そこまで来るのに人波をかわすのが精一杯でしゃべる余裕もなかったのか、道夫が劇場を出て初めてゆっくり口を開いた。


 「そうねえ、私このあたりに出てくるの久しぶりなんだけど、土曜の夕方っていつもこうなのかしら」


 「うーん、そうでもないでしょう。ほら、いま六月の半ばでしょう。そろそろボーナスも出始めた頃だし、そのせいじゃないですか。懐具合のいい人が多くて。


ところで池上さん。今日のお芝居どうでした?」 通り反対側のビルの地下にある喫茶店に行こうと勝手に決め、横断歩道の前で信号待ちするときそう訊ねてみた。


 「よかったわとても。わたし感動しちゃった。主演の東千代之介さん、小さい頃から映画の笛吹き童子なんかでよく見ていたけど、その頃より今のほうがずっといいみたいだわ」


 「笛吹き童子」ねえ、あれ僕もよく見ましたよ。中村銀之助さんとコンビのあの映画。確か小学生の頃だったかなあ。悪者をやっつけるシーンなんかでは、もう夢中に拍手しましたよ。 


「私もだわ。もう男の子に負けないくらい一生懸命に」


 章子のその言葉で、なにかぐっと親近感が増したような気がして、道夫は満面の笑顔で彼女をふり向いた。すると章子もその日いちばんの明るい笑顔で道夫を見た。


 「この下にいい喫茶店があるんですよ」 大通りをわたり、そのビルの階段の前まで来て道夫は言い、そのまま階段を下りていったが、章子は黙ってついて来ていた。


 さっき、芝居の終了間際に、彼女ここを出るとすぐ帰ると言わないかな、と心配していたのがバカみたいに思えた。


 シックな内装の奥まった席に二人は向かい合って座り、道夫はアイスコーヒー、章子はミックスジュースを注文した。


 それから二人は延々二時間以上もそこへいて、あれこれととりとめのない会話を交わしていた。


道夫が話したのは、ナイトボーイとしての、夜の仕事のこと、昼間通っているもうひとつ効果のはかばかしくない英語学校のこと。


 章子が話したのは高校時代テニスの選手で地区大会まで出場したこと、大好きだという映画のこと。その映画の話しのおかげで、一週間後の金曜日に一緒に映画見物に出かける約束を取りつけたのだった。



 そして映画に行ったさらに二日後には、二人は夜の中島公園でデートしていて、それからさらに五日後には近鉄電車で奈良まで行き、若草山とか奈良公園とかで一日中楽しんだのだ。


二宮さんに招待されて一緒に芝居見物をして以来、わずか一ヶ月ほどの間に道夫と章子は七回も会い、一緒に過ごした時間も二十時間を超えていて、これでもう二人は自他ともに認める恋人同士だと、その頃の道夫は満足この上なくウキウキした毎日を過ごしていた。


でも、ただひとつだけ気がかりなこと、それは一ヶ月に七回も会っていて、手は二~三度にぎったのだけど、まだ一度もキスしていない。そのことだった。

つづく


次回 3月26日(木)