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結局つぎのバスがやってくるまで彼は現れず、僕はその日五十分間もバス停に立ち尽くしていたのだ。
その次の日、つまり最初に彼と会ってから三日目の十月終りの木曜日、その日は仕事がどうしても定時の五時半に終わらずに、結局四十分も残業を強いられて、バス停に着いたのはいつもより二台も後のバスが来る少し前だった。
こりゃあ今日も駄目だ。一時間も遅れたんじゃあ。彼たとえ来てたにしても、もうバスに乗って帰ってしまっただろう。
そう思って、僕が残念そうに「チェッ」と舌打ちしてコンクリートの地下街入り口の囲いに持たれかけようとした時だった。
「やあ、先日はどうも」
背後から聞き覚えのある耳ざわりのいい声が聞こえてきた。とっさにふり向くと、目の前に三日前のあの紳士が立っていた。
「ど、どうも」
待ち人がふいに現れて、しかも駄目だと諦めかけたときの思わぬ出現に、僕はまるで久しぶりに恋人に会ったときのような感激的な気分につつまれ、思わず上ずった声でかろうじてそう答えた。
「この前より一時間ほど遅かったのですがあなたもそのようで、よかった。よかった。またお会いできて」
彼はきわめて嬉しそうな笑顔を浮かべながらそう言ったあと、「失礼ですが少し時間はおありですか」とたずねた。それに対して僕は「ええ、ありますけど」と、躊躇することなく反射的に答えていた。
「よろしかったらコーヒーでも飲みながらお話しましょうか。この地下にいい喫茶店があるんですよ」
彼と僕は並んで地下街へ通じる階段を下りていき、ラッシュ時でごったがえす人波を抜けて最初のコーナーを左に曲がって、角から三軒目の喫茶店へと入っていった。
奥まった席に向かい合って座った後、すぐまた彼が口を開いた。「この喫茶店、コーヒーもうまいんですけどBGMがまたいいんですよ。ほら、今かかっているのもモーツアルトの交響曲です。えーっと何番だったかな。そうだ第四十番だ。♪チャララ、チャララ、チャララッラ♪ いいでしょうこの旋律。若いころは毎日のように聞いたものですよ。クラシックはお好きですか?」
「え、ええ。まあまあ」
とっさの彼の質問についそう答えたものの、ふだん聴く音楽といえば演歌かポピュラーがせいぜいで、クラシックなどとはとんと縁がないことを思い出して、この後も彼がその話題を続けるのを恐れていた。
それにしても彼、外見も立派だけど音楽の趣味にしてもまた立派なもんだ。僕なんかがとんと理解できないクラシック音楽のファンだなんて。やはりこの人只者ではないな。
彼の次のセリフにいささか不安を抱きながら、あらためてその紳士について感心していた。
「ところで先日の雑誌のリベーラ、もう読み終わりましたか?」
「は、はい。二~三の興味の湧かない記事をのぞいてはだいたい」
紳士が話題をかえて二人の最大の関心事ともいうべき事柄に移して口を開いたので、ほっと胸をなでおろしてそう答えた。
「この前お話しかけたんですが、実はあの雑誌、わたしの甥が編集長をやってるんですよ。ですからわたしも大変関心をもっていて、先日あなたがあれを読んでいらっしゃるのを見たとき、つい嬉しくなって話しかけた次第なんです。お読みになっていかがでしたか。良かったとしたらどんな点が?」
三日前、バスに乗った後もすごく気になっていた途切れたセリフの続きを彼はサラッと言ってのけた。
「甥っ子さんが編集長、あの雑誌の?」
意外なことをあまりにもサラッと言いのけた彼に対し、僕はいささか自分の耳を疑いながら聞き返した。
「ええ。兄の子なんですけど、もう二十年もいろいろな雑誌の編集に携わっていましてね。今年四十三歳になったところです。もちろん東京に住んでいます」
「へえー。あのリベーラの編集長が甥っ子さん!」
さっきと同じようなセリフをかろうじて一言返したが、その後なんと話しを繋げばいいのかと、しばらく言葉を詰まらせていた。
紳士の言ったことは少なからず僕を驚かせ、いささか頭に混乱を生じさせていたのだ。
「甥に伝えてやりたいのですが、どんな点が、あるいはどんな記事が良かったのでしょうか?」
ポカンとしている僕を見て彼が催促の質問をした。
「そ、そうですね。一言でいえばユニーク性でしょうねえ。これまでのモノにはない」まだあまり実感がつかめないまま、とりあえずそう答え次の質問を待った。「そのユニーク性どいうことですが、具体的に言って例えばどんな点が?」
「そうですねえ、まずあのサイズでしょうね。隔週発行ということですから、ジャンルとしては週刊誌の中に入ると思うんです。それがあの月刊誌並の小サイズで、なにか奇をてらうところがあって」
つづく
次回5月14日(木)