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2026年2月19日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈5〉下津さんの失敗・ナイトボーイの愉楽②(4)

 

                 

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二宮竜一郎に最初に出会ったのは確か一年ぐらい前だった。


その日ずいぶん遅い深夜二時ごろのチェックインで、赤ら顔をしてすこしお酒に酔っていた。


八階のシングルルームに案内する途中で、酔いで気分がいいせいか、楽しげにしきりに話しかけてきた。 


「僕は東京では珍しい阪神ファンだ」とか 「僕は夏が好きだ。人間が開放的になるから」だとか、こちらが相づちを打つひまもないくらい、次から次へとしゃべり続けていた。


部屋へ入ってからは僕にバスルームのお湯を出させ「これ明日の晩までに」とカッターシャツのクリーニングを頼み「君名前なんていうの? 僕は二~三ヶ月に一度はここへ泊まっているから、今度来た時もよろしくね」と言って千円札一枚くれたんだった。


そのときのことはそれっきり忘れていて、その数ヶ月後、二度目にあった時「どうだ明朝一緒に食事でも」と誘われて 「ええ学校がありますので、少しの時間でしたら」と応じて、朝の九時ごろから四十分くらい食事をしながらとりとめのない話をしたんだった。


「今回はテレビの仕事でね」と言った彼は、脇役専門ではあったが、映画の俳優でもあったのだ。出演する映画は文芸モノが多いらしく、ほとんど活劇モノしか見ない道夫はスクリーンでこれまで彼にお目にかかったことはなかった。


 その日チェックアウトした彼とはその時はそこまでで、三度目に会って、彼が脇役で出演しているコマ劇場の特等席に招待されたのが二ヶ月前の六月であった。


五月の終りにホテルへやってきて 「今度の芝居は一ヶ月のロングランだ」と言い、このときは六月の終りまで三十日間も滞在した。


道夫が招待されたのは、その中日あたりの土曜日の公演だった。

その二日前の夜のロビーで会ったとき 「ひまができたらちょっと僕の部屋へこないかい。渡したいものがあるし」と彼が言い、その後すぐ道夫が答えた。

「ええいいですよ。一時過ぎになるとひまになりますから、その頃でよろしかったら」


二宮は「うん」とうなずいてゆっくりエレベーターの方へ歩いて行った。

その後ろ姿を見送ったあと、反対にロビーの方に向かいながら道夫は思った。


 渡したいものって、いったいなんだろう。今ごろチップを貰ういわれもないし、なんだろう? 何かプレゼントだろうか。そうだ、この前会ったとき、七月に二十一歳の誕生日を迎えると話したんだ。

でも悪いな。もしそうだとしたら。あの人にはこのところ食事だとかお茶だとか、もう数回もごちそうになっている。たいしてお役に立ってもいないのに、そう何回も甘えられないな。


でもさっきの後ろ姿でふと思ったけど、あの人俳優にしては地味だなあ。長年脇役ひとすじっていうのが彼をそうさせたのだろうか。見たところ銀幕の俳優らしい華やかさというものがまったく感じられないし、それにこの僕なんかに親しげに話しかけてきたりして、なぜああも庶民的に振舞えるんだろう。住む世界も年齢もすごくかけ離れているというのに。


そうだ。渡したいもの、それについて考えているんだった。どうしよう。でもまあいいか、別にこちらから何かを要求するような態度をとった訳ではないんだから。とにかく一時になったら彼の部屋へ行ってみよう。


そんなことを考えながら、それから数回チェックインをこなし、十二時からのエレベーター当番の小山が急に腹痛を起したため、代理で三十分間エレベーターを動かし、ようやく治まったと、少し青い顔をして戻ってきた小山に当番をもどし、時計を見て、もう少しだな、と思いながらまたロビーに立ってチェックインを待っていた。


週の中日はビジネス客もピークに達し、この木曜日も例外ではなく、すでに一時をまわろうとしているというのに、まだ断続的にチェックイン客が続いており、それから三回もシングル客のチェックインにあたった。


それでも一時を少しまわったころになると、ピタッと各足は途切れて、その時までに到着していない予約客はあと四名になっていた。


一時を十分ほどまわって、そろそろだなと思い、すぐ横に立っていた小山に 「ちょっと二宮さんの部屋まで」と言おうとしたが、なぜだか言いそびれてしまい、かわりに「ちょっとトイレに」と口に出してしまった。


歩き始めたものの、そう言った手前、エレベーター前を通過して、突当たりのドアを押して社員通路へ出て、少し行ったところにある従業員専用エレベーターに乗った。                                 


十一のボタンを押すと、おそろしくゆっくりとドアが閉まり、やがてガタンという音とともに動き始めた。それにしてもなんたる違い、この照明の暗さ、スピードののろさ。


裏方と違ってロビー中心の客用スペースで働く道夫には、あらゆる面で従業員スペースとの違いがよく目についた。その最たるものがこのエレベーターで、スピードときたら客用のものの半分もないのだ。


つづく


次回 2月26日(木)


2026年2月12日木曜日

T.,Ohhira エンタメワールド〈5〉下津さんの失敗・ナイトボーイの愉楽②(3)

  

                 

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 道夫はそんなたわいないことを考えながら、廊下よりいくぶん明るいエレベーターロビーまできて、壁に二つある三角のボタンのうち、下行きの方を押してから呟いた。


 下津さんになんて言おう。お礼のひとことでも言ったほうがいいんだろうか。 

上行きのエレベーターが一度通過して、十三階で止まってからすぐ下りてきた。


 ドアが開き、下津がまたニタッと笑顔を見せたが、仕事を終えてロビーに下りていくマッサージ師の女性が同乗しており、その時は何も聞かなかった。

 

 その夜一時までに計七回のチェックインをこなした。 中ほどであった新婚カップルに千円貰ったが、後はすべてしぶちんな外人シングル客ばかりで、七回目が終わったところでチップの合計は三千六百円で、最初、例のカップルから二千円貰ったわりにはその後の伸びがもうひとつだと、やや不満に思っていた。


 一時半になり、客の待機時間が終り、九名のうち、三分の二の六人のボーイたちは「さあ仮眠時間だ」とそれぞれの寝場所へと散っていった。


 この夜は道夫と下津、それに副リーダーの杉山が四時までのナイトワークの当番だった。


 ロビーの消灯を終え、スイッチボックスのキーを返そうと、道夫がフロントオフィスのカウンターの中へ入りかけたとき、下津がつかつかと近寄ってきて、例のニタッとして笑みを浮かべながら聞いた。


 「やあ浜田、あれからずっと聞けなかったけど、どうだった例のカップル?」

 「ええまあまあ、おかげさまでなんとか下津さんが最低線だと言った二千円ありましたよ。もっとも下津さんのようにうまくは言えませんでしたけどね。どうも奥様というのがスムーズに出なくて」


 「慣れだよ慣れ、これから意識してそうやればお前だってきっとうまくなるよ。でも二千円か、悪くないじゃないか。他の種類の客だとなかなかそうはいかないからな。どうだ、俺の言ったこともまんざらじゃなかったろう」


 「そうですねえ。やはり下津さん、先輩だけのことはありますよ。さっきエレベーター遅れたとき僕にコーヒーおごると言っていましたけど、あれ帳消しにしてもいいですよ」


 「いやあれはあれ、コーヒーはちゃんとおごるよ。そのかわりお前はビールおごれよ」

 「あっ、こりゃあまいった。さすがは下津さん。しっかりしていますねえ」

 「そりゃあそうだ。甘えはいかん。コーチ料はちゃんといただかないとな。それがプロだ」


 下津はややキザなそんなセリフを吐くと、ついさっきまでニタッとしていた表情をすっかり引っ込めて、今度はキッと唇を結んだうってかわった毅然としたポーズをとっていた。


 「ところで浜田、フロントの上村さんからメッセージ受けとったかい?」

 「メッセージって、なんですかそれ?」

 「そうか、まだだったのか。十二時半ごろだったかなあ。俳優の二宮さんがチェックインしたんだ。お前あの人のことをよく知ってるだろう。あの人がお前にと言って、上村さんに伝言を渡していたよ。俺、ちょうどカウンターの前にいて見ていたんだ」


 「へえー、二宮さん来ていたんですか。知らなかったなあ。あの人が僕宛に伝言ですか?」

 「そうだよ。不思議かい?」 「いえ、べつにそういう意味じゃないんですけど。そうですか、じゃあ僕さっそく上村さんのところへ行ってそれ貰ってきます」


 道夫は下津にそう言うと、長いフロントカウンター端っこの狭い通路からフロントオフィスへと入っていった。


 いつもならチェックイン客を待ち構えてカウンターに立っているフロント係だが、それも終わったこの時間になると、もうそうはしてはおらず内部の事務室に入って、その日の客室売上の集計にかかっているのだ。 


フロントカウンターの真ん中あたりの少し奥まったところにある事務室の前まできて、ドアのガラス越しに中を覗くと、あんのじょう上村さんが長い集計用紙をにらみながら、せわしげに計算機をたたいていた。


 「上村さん、お忙しいところすいません。下津さんに聞いたんですけど、僕宛のメッセージを・・・・」 

「ああ浜田くんか、預かってるよ二宮さんから、顔見たら渡そうと思ってたんだ。


でもなんだねえ。二宮さんは君とずいぶん親しげだったけど、いったいどんな関係? おもしろいねえ、君のような若いもんが、あんな五十年配の人と」

 

上村さんは空いた椅子に無造作に引っかけてあったジャケットのポケットに手を突っ込みながら、そう言ってやや怪訝な表情で道夫を見た。


「ええ、そう言えばそうなんですけが、あの方、ちょうど僕のおやじぐらいの年齢で、最初来られたとき、チェックインに当たってから、これまでに三度くらいお話ししたんですけど、なんとなく馬が合って、この前はあの方が出演されていたたコマ劇場へ招待されたんです」

 

「ふーんそうか。キミ童顔でかわいらしい顔してるから、案外中年男性の好みのタイプかもしれないな」 


上村さんはそう言って、なにか意味ありげな微笑を浮かべながら二つ折りの茶色の角封筒を道夫に渡した。


つづく


次回 2月19日(木)


2026年2月5日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈5〉下津さんの失敗・ナイトボーイの愉楽②(2)

 

                 


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 下津はつい三日ほど前にも道夫にこう話していた

 

 「なあ浜田、チップはその日の運ということもあるけど、腕の良し悪しも大きいよ。例えばよくある夫婦らしくないカップルのチェックインに当たった時だ。客としては例え相手がボーイだとはいえ、浮気現場を見られているようなもんだから、なんとなくオドオドしていて、態度がぎこちない。まずこのぎこちなさを解かなければいけないんだ。


こんな客を前にした時、俺はできるだけ明るく振舞う。そしてカップルの女性の方に向かって、ごく自然に奥様という呼称を連発するんだ。


たとえば 『奥様、お部屋は十二階の一二〇八号室でございます』とか、『奥様、明日のモーニングコールは何時に致しましょうか』とか、とにかくなんでもいいから先に奥様とつけてしゃべり始めるんだよ。


そうしているといつの間にか相手のぎこちなさ消えていき、次第に打ち解けてきて、いろいろ質問してきたりするんだ。


 こうなればもうしめたもの。思い切り二人の下僕にでもなったつもりで、帰りぎわに丁重にこう言うんだ。


『私この部屋の担当の下津と申します。ただ今からご出発までの間、どんなことでもお客様ご夫婦に役立つことをするのが私のつとめです。ご用がありましたらいつでもこの私にご命じください』


 これでばっちり、これまでこのやり方で、これはと目をつけたカップルからのチップは二千円を下ったことはないよ」


 道夫は三日前、深夜のロビーで自信たっぷりに語った下津のそんなセリフを思い出しながら、 よし、今夜は僕もあの手でいこうと、二人を先導して薄暗い十一階のフロアを歩いていた。


そして、もう五~六歩で部屋へ着くというところまできて、さて奥様といつ切りだそうかと、しきりにタイミングを計っていた。


 突き当たりから二つ手前、1109号室のドアの前まできて、「奥様、こちらがお部屋です」と言おうとしたが、「お、お」と喉から出そうになったが意識しすぎたせいか、なんだかドモリそうな気がしてそうは言えず、「こちらがお部屋です。」とだけ言ってドアを開け、ライトをつけて、いつもするように左手でドアを支えながら今度も「どうぞお入りください」とだけ言った。


 まずいなこりゃあ。言おうと思えば二度「奥様」とつけるチャンスがあったのに、どうも下津さんのようにはいかないな。


 二人のあとから部屋に入って、ベッドの奥のバゲッジスタンドに荷物を置きながら、道夫は次のセリフを考えていた。 


できるだけ明るく振舞うか。そうだそうしなくちゃいけないんだ。 


下津の言ったそんな言葉を思い出し、部屋の明るいライトの下に立つと、思い切り笑顔をつくり二人に向かって切りだした。


 「大阪にはよくいらっしゃるんですか?」


 「そうじゃなあ。年に二〜三回かのう」 すでにソファーに腰をおろしていた男性の方が聞き覚えのある中国地方のなまり言葉で答えた。


 広島の人かな、それとも岡山だろうか。 そう思いながらそのことは聞かず「お仕事で?」と続けてたずねた。


 「まあ半々じゃのう。なああんた」 男性はそう言いながら、カーテンごしに北の盛り場のネオンがチラチラする窓のそばに立っている女性の方へ目をむけ返事を求めた。


 「そうねえ」 女性は窓の方を向いたまま、ただそれだけ言ってうなずいた。


 道夫は、今度はさっと女性の方へ向き直って言った。


 「お、奥様、ご存知かもしれませんが一応お部屋について説明させていただきます。バスルームはドアの左手、浴衣はクローゼットの中、非常口は二部屋先の廊下の突き当たりにあります。それからルームサービスは深夜二時まででダイアル5番です。

 いまなにかご注文があれば私がうけたまわりますが」


 出だしで少しドモリはしたが、やっと奥様と一回言うことができ、少し安心して相手の反応を待った。 


 「そうねえ、ねえあなた、ビールでも持ってきていただく?」


 男と違って、こちらはなんのなまりもないきれいな言葉だった。


 「そうじゃのう。風呂から上がってでええがな」

 「そうねえ、じゃあ一時間後にビール二本お願い」 男のその言葉をうけて女がこたえた。


 「承知いたしました奥様。それからなんでしら明朝のモーニングコールうかがっておきますけど、明日はお早いんですか?」


 「そんなに早くはないわ。十時ぐらいにここを出るつもりなの。普通に起きればいいんだし、モーニングコールはいいわ」


 二度目はどもらずに奥様と言えて、ホッとした道夫だが、さっきまでは窓のほうを向いていた女が正面に向き直り少しだけ笑みを浮かべてそう答えたとき、黄色いワンピースの豊満な胸の部分の大きなカットが目に入り、奥様と二度言えてホッとしていた道夫を再び落ち着かなくさせており、まだ言うことがあるのに「では私はこれで」と、つい頭を下げてしまった。


 こりゃあまずい。ひょっとしてチップはもらえないかも。 そう思ってドアの方へ向かおうとしたとき女が「ちょっと待って」と言った。


  「しめた!」と思い「はいなにか?」と応えてまた女の方を振り返った。


 女はテーブルからハンドバッグを取り、裸のまま紙幣を取り出していた。


 「これ少ないですけどタバコ代にでも」 おさつを四つ折にして、女がそう言って差し出したとき、「そ、それはどうも」と、すこし照れたような口調で答えながら、手だけはサッとだしていた。


 「それでは一時間後におビールを」 ドアの前まできて、そう言って深々と頭を下げて部屋を出た。


薄暗い廊下に出てエレベーターに向かって歩きながらあたりの人影がないのを確認してから貰ったおさつを広げてみた。 


 オッ、二枚ある。下津さんは二千円を下ったことはないと言ってたけど、なんとかその線は保てたな。奥様と二度言って二千円か。もしもう二〜三回言ってたら果たしてどうだったろう。


つづく


次回2月12日(木)


2026年1月30日金曜日

T,Ohhira エンタメワールド〈5〉下津さんの失敗 ・ナイトボーイの愉楽②(1)

 

                 


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浜田道夫が二十一歳になったその年の七月は何年に一度かというような、すこぶる涼しい夏で、月の終りになっても熱帯夜だとかいう、あのむせかえるような寝苦しい夜はまだ一度もやってきていなかった。


 もっとも週のうち六日間を快適な全館冷房のホテルで過ごす道夫にとっては、その熱帯夜とかもさして気になる代物でもなかったのだが。


 とにかく涼しい夏で、巷ではビアガーデンの客入りがさっぱりだと囁かれていた。


 そんな夏のある夜のこと、道夫は例のごとくまたエレベーター当番にあたっていて、切れ目なくやってくる客を乗せては、せわしげにフロアを上下していた。


 あと十分もすればその当番も終りになる十一時少し前になって、それまで間断なく続いていた客足がやっと途切れ、ロビーに立ってホッと一息ついた。


 エレベーター前から広いロビーを見渡すと、人影はもうまばらでフロント係がボーイを呼ぶチーンというベルの音だけがやけに周りに響きわたっていた。


 十一時か、チェックインあとどれぐらい残っているんだろう。今夜はしょっぱなからエレベーター当番で、まだ一度もあたっていないんだ。十二時まであと一時間の勝負か。たっぷりチップをはずんでくれるいい客に当たるといいんだけど。

 

所在なさそうにロビーを見渡しながら胸の中でそうつぶやいた。


 二〜三度連続して気前のいい新婚客にでも当たらないかなあ。

 またそんな虫のいいことを考えながらさらに二回エレベーターを上下させ、一階に下りてきたときは十一時を三分ほどまわっていた。待っているはずの次の当番、下津の姿はまだなかった。


  「チェッ、下津さんまだ来てない。二~三分前に来て待っているのが普通なのに、ほんとにあの人はルーズなんだから、来たら文句のひとことふたこと言ってやらなければ」 


そうつぶやいてまた時計に目をやり、道夫が少しいらつき始めた十一時六分すぎに、やっと下津がもう一台のエレベーターから降りてきた。


 「オッ、すまんすまん浜田、さっきチェックインに当たった新婚客が大阪の観光についてねほりはほり聞くもんで、つい説明に手間どってしまって、本当にすまんな、明日仕事が終わったらコーヒーでもおごるからな」 


下津に先まわりされてそう言われ、結局ひとことの文句も言えず、「いいですよ」と心にもない妥協のセリフを残すと、そそくさとロビーの方へ歩いていき、入り口ドアの前の待機場所へ戻ると、そこへいた後輩の小山とともにチェックインの客を待っていた。


二〜三分たってから、まず身なりのいい中年の日本人男女、続いてビジネスマン風の浅黒い色をした外人男性の二人ずれと、相次いでタクシーから降りてきた。


 「浜田さん、今日まだチェックインに当たってないんでしょう。あの二組の客のうちどちらがいいですか?まず浜田から先に選んでいいですよ」 


客を値踏みしながら小山が殊勝なことを言った。 


「オッ、そうか。すまんな小山、じゃあ先に入ってきたきた日本人の方」


 「やっぱりねえ、そうだと思いましたよ。あの中年のカップル、身なりはいいし、なんとなく夫婦には見えないし、チップをはずむタイプのですよ、あれは」


 「どうかなあ、でもそうだと嬉しいよ。もっともあの中近東系の二人の外人よりはどう見ても脈がありそうだけどな」


 肘で小山のわき腹あたりをつつきながら小声で答えた。


 間もなく鳴ったチーンという音で、「じゃあな」とひと言残し、道夫の方が先に動いた。


 フロントカウンターの前まで進み、「いらっしゃいませ」と普段よりずっと深々とカップルに向かって頭を下げ、フロント係から鍵を受け取り男の客のやや大型の旅行カバンを手にすると、二人を先導してゆっくりとエレベーターへ向かった。


 それにしてもこの二人、どういうカップルなんだろう? 

 ついさっき交代したばかりの下津の運転するエレベーターの中で、胸の部分が大きくカットされた黄色の派手なワンピース姿の女性の方へチラッと目を向けながら思った。


 男の方は五十歳ぐらいだろう。白っぽいスーツがバリッと決まっていて、なかなか貫禄があるな。女とは二十歳ぐらいも違うみたいだし、やはりこの二人夫婦じゃない。


 「十一階です。どうぞ」 エレベーターが止まり、下津が客に会釈しながら言った。


 カップルが降りて、道夫も荷物を持ってすぐしたがった。降りぎわに下津が道夫の肩にそっと触れてニタッと意味ありげな笑みを浮かべた。下津がなにを言いたいのかわかっていた。


 彼もこういうカップルのチェックインが大好きなのだ。


つづく


次回 2月5日(木)

                                    


2026年1月8日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈4〉直線コースは長かった(12)最終回

 

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馬券売り場の前を通り過ぎて、建物から外へ出たちょうどその時だった。


久夫の四〜五メートル先を大柄な男が横切っていくのが目に入った。その男の頭に目がいったとき、「あっパンチパーマ、あいつだ。あの男だ!」久夫はドキッとしながらつぶやいた。


でも服装がさっきと違っている。確かカーキ色のジャケットだったはずだ。でも今は白に薄い紺の縦じま。人違いだろうか?


久夫は男の向かう方向に目をすえたまま、立ち止まってしばしの間考えた。でもあのパンチパーマの頭と大柄な体格。さっきの男にそっくりだ。間違っていたら謝ればいい。とにかく行って確かめてみよう。そう思ってドキドキする胸を抑えながら、小走りでその男を追いかけた。

          

男はオッズ掲示板の方へ歩いていった。


「すいません。さっきの方でしょう?」追いつくとすぐそう言って、後ろから男の肩を軽くたたいた。男は立ち止まってふり向いた。


「なんや。何の用や?あんた誰や?」


第四レースの前に聞いたものとは音色の違ったぶっきらぼうな関西弁で男が不機嫌な顔をして答えた。


「あのう、さっき第四レースの前、発売窓口の前で・・・」そう言いながら、今度は正面から男の顔を見た。やっぱりあの男だ。 久夫は確信した。


「第四レースの前、発売窓口の前で。何のことやそれ? わしあんたなんか見たこともないで。変な言いがかりつけて、気やすう人の肩なんか触ってくれるな!」


男は少しドスの利いた声でそう言うと、プイと横を向き、またさっきの方向に向かって歩き始めた。


「あのう」久夫はその後ろ姿に向かって再び声をかけた。でも今度は、男は振り返らなかった。


服は違っていた。しゃべり方も違った。でもあの男に違いない。そう思ったものの、今度は足が動かなかった。「気やすう人の肩を触るな」と語気するどく言った男の迫力に押されたからだ。

 

それにしても、なんという変わりようだろう。さっきはあれほどにこやかな親しみにあふれた表情を浮かべていたというのに、クソッ、腕力に自信があったらただではおかないのだけど。


そんなことを口の中でブツブツ言いながら、男の後ろ姿を悔しい思いで見送っていた。


男が雑踏に消えてしまうと、しぶしぶ踝を返し、駅まで行く無料送迎バスの発着場へと、長い通路をトボトボと歩いていった。


 「チェッ、なんたることだ。またあの男に会うなんて。まるでいやなことの駄目押しにしか過ぎないではないか」


 今夜はタクシーを飛ばして魚屋町へ行き、久しぶりにまたあの涼子さんと会うつもりだったというのに。それがなんだ。まだ二レース残っているというのに、こんな早い時間にわびしい送迎バスに乗って帰るはめになるとは。あれもこれもみんなあのパンチパーマの奴が悪いんだ。


 さっき警備室を出たときは、やっと冷静さを取り戻したかに見えた久夫だったが、再びカッカと頭に血を上らせていた。

  

 乗車した後もしばらくバスは発車しなかった。まだレースが終わっていないため、帰る人もまばらで、座席がなかなかうまらなかったからだ。


最後部の座席に座って乗り込んでくる人々の表情を眺めていたが、あの顔もこの顔もみんなさえない表情で、皆むっつりと押し黙っている。


朝ここへ着いて、入場口を入るときの、期待に胸を膨らませた、あの生き生きとした顔色はいったいどこへいってしまったのだろうか。


みんな負けたんだ。〈行きはよいよい、帰りはなんとか〉所詮かけごとなんてこんなもんだ。無欲のとき、ひょいと勝つことがあっても、たいていはこうして負けて帰るのだ。しょんぼり肩を落として。ああ侘しい侘しい。


 十五分ほどしてようやく満員になって、バスはやっと発車した。

 ここから駅までは十五分くらいか。その後何の予定もないというのに、久夫は腕時計に目をやった。四時五分前だった。


 久しぶりに涼子さんに会えるという期待に胸膨らませていた午前中とはうって変わって、希望のないうつろな目をして窓の外をぼんやり眺めていた。


あーあ、涼子さんに会いたいなあ。でもポケットの中身が八千円じゃあなあ。仕方ない。このままアパートへ帰るとするか。


 駅前でまた別のバスに乗り換えて、アパートのある停留所で降りたとき、さっきまで薄曇りだった空はにわかに濃い灰色に変わっており、わずかだがポツリポツリと雨が落ちてきた。


そこからアパートまでの十分ほどの道程を、次第に大粒に変っていく雨に打たれて歩きながら、久夫は半ばやけ気味につぶやいた。


「くそっ、弱り目にたたり目とはこのことか、降れ降れ、もっと降って、好きなだけ濡らしてくれ!」


終り


次回からは「紳士と編集長」をお届けします。


第一回 1月22日(木)お楽しみに