その男の言葉を信じて買った6万円の馬券だったが
「連勝複式 一と三の組、六百二十円」オッ、また上がってい
る。
六百二十円もついたのか。ええっとそれだと、ろくさんが十
八で、にさんが六で、合計一万八千六百円か。それから三千
円を引くと一万五千六百円だな。
「やった!最初からこんなに儲かった」
久夫は頭の中でこんな計算をしながら、ウキウキした気分で
払い戻しの順番を待っていた。
配当金を手にして、次のレースまでまだ二十分ある、と時間
を確認すると、馬券売り場の並びの隅にあるスタンド喫茶へ
行きコーヒーを頼んだ。
次が第四レースだし、この調子だと元手の五万円が倍にな
るのは時間の問題だな。
そんな都合のいいことを考えながら、熱いコーヒーをすすっ
ていた。
第四レースの前、オッズの掲示板のところには少しだけしか
とどまらなかった。第三レースの前にすでに予想は立ててい
て、このレースは本命に中穴馬券を絡ませた三点買いだと決
めていたのだ。ただ、その三点にどれだけ賭けるかはまだ決
めてなかった。
前のレースで勝ったことだし、よし今度は倍の六千円を賭
けてみよう。本命の〈5―6〉に三千円、残った三千円を〈6
―8〉と〈1―8〉に千五百円づつ。よし、これでいこう。久
夫がそう結論を出して発売窓口に並ぼうとした時だった。
「やあ久しぶり。どうしてたの、元気だった?」
雑踏の中からふいにそんな声が聞こえてきた。自分に向けた
ものではないだろう。そう思ったものの、いちおう声の方を
をり向いてみた。
カーキ色のジャケットに白いズボンをはいた大柄な男が二メ
ートルほど先に立っていた。満面に笑みをたたえていて、も
うこれ以上にこやかな表情はできないと思えるほどのこぼれ
るような笑顔を向けて男は立っている。
「あのう、僕でしょうか?」久夫は左右を見わたした後、男
にそうたずねた。その人にさっぱり見覚えがなかったから
だ。
「そうですよ。あなたですよ。本当に久しぶりですねえ。三
年ぶりくらいじゃないですか。お元気そうで。その後どうだ
ったんですか?」
男は少しも笑顔をくずさずそう言った。
久夫はそのこぼれんばかりの笑顔と懐かしそうな声にすっか
り引き込まれながら考えていた。三年ぶり、はて誰だったろ
う?
この街で会った人ではない。ということは以前いた大阪か?
仕事での取引先の人だろうか。それとも学生時代の友達か。
いやそんなはずはない。相手は大分歳上だ。ああ思い出せな
い。うーん、いったい誰だったろう?
次のレースの馬券を買わなければいけないこともあってか
、久夫の頭は少し混乱してきた。「あのう、失礼ですが、ど
ちらでお会いしたんでしょうか?」久夫がそうたずね終わる
か終わらないうちに、男がまた口を開いた。
「ところでさっきのレース取りましたか?」
「ええ、まあ」質問をはぐらかされてか、久夫はポカンとし
た表情で答えた。
「そうですか。それはよかったですねえ。実は僕もなんです
よ。見てくださいこれ」男はそう言って、右手をジャケット
の内ポケットに突っ込むと、すごく部厚い札束をつかんで久
夫の目の前に突き出した。
それを見て久夫は「えっ」と声を上げて後ろへ少しのけぞっ
た。目の前に出された札束の厚さに驚いたからだ。百万円、
いやもっとある。
「すごいですねえ!」いっしゅん相手が誰だったか考えるの
を忘れたかのように、つぶやくように言った。
「ねえ、こらから第四レース買うんでしょう。なに買うんで
すか?」]
男は間髪をいれずに聞いた。「これなんですけど」男のその
声につられて、久夫は予想紙に赤鉛筆で書いた三点の数字を
見せながら答えた。
「ああこれね。いい線いってるけど、これでは駄目。ここだ
けの話なんだけど、本命になっているこの五枠の馬、練習中
に足を打撲したらしいんですよ。一時は出走取り消しも考え
たそうだし、だから、五枠はまず無理。買うなら三番人気の
〈1―8〉と、もう一点、休養あけのサツキヒーローを絡ま
せた〈7―8〉、これですよ、これ。ねえ、ところで今いく
らお金もっていますか?」
男は屈託なく少しも悪びれた様子のない口調でたずねた。
「六万円ほどですけど」
久夫は反射的につい正直に答えてしまった。
「そう、六万円ね。じゃあそれ出して、僕が一緒に買ってき
て上げますよ」
男のその言葉に、久夫はなんの抵抗もなく、ズボンのポケッ
トに手を突っ込み、二つ折りの札束をつかむと、それから千
円札だけ抜いて差し出した。後で考えると、その時はまるで
催眠術にでもかけられたかのように、抵抗力というものが少
しも働いていなかったのだ。
「じゃあちょっとここで待っててくださいね」
久夫からお金を受け取った男は三列ほど離れた窓口へ行き、
間もなく馬券を握って戻ってきた。
「はいこれ六万円分。あと五分もすれば、これ少なく見積も
っても五~六十万にはなりますよ。じゃあ僕はこれで、向こ
うに人を待たせているものですから」
男は馬券を渡した後、そう言うとピョコンと頭を下げて立ち
去った。久夫には事態がよくわからなかった。
いったいどういうことだろうか?、これって。だいいちあの
人が誰だったかまだ思い出せていない。それなのに持ち金の
ほとんどを渡して一度に六万円分もの馬券を買わされると
は、まったくどうなってるんだろうか?
その後しばらくの間、久夫はまるでキツネにでも化かされた
かのように、ぽかんとした表情でその場に立ちつくしてい
た。
「あと一分で発売窓口を締め切ります」
場内アナウンスのその声で、久夫はやっと我に帰り、わたさ
れた馬券をしげしげと見つめた。〈1―8〉四万
円、〈7―8〉二万円の合計六万円。馬券にはそうプリント
されていた。
うーん、でもこれあたるのかなあ。少しだけ平静さを取り
戻していちばん近くにあるオッズを映し出しているテレビモ
ニターの画面を見た。〈1―8〉十二.六倍。〈7―8〉三十
八.六倍というオッズが映し出されていた。
すると、〈1―8〉が入れば五十万円ちょっと、〈7―8〉だと
三千八百六十かける二百で、ええっと七十万円以上にもな
る。当たればすごい。
発走時間があと一分後に迫っていることもあったせいか、男
のことがまだ気にはなっていたが、気持ちはぐっと次のレー
スへと傾斜した。
久夫は手にしていた馬券をズボンのポケットに奥深くしまい
込むと、あたふたと観覧席の方へ急いだ。
さっきいた位置まで戻ってきて、座ろうと思えばまだ少し席
は空いていたが、今度ばかりはゆっくり腰かける気にはなれ
ず、階段の端の通路に立ち、今か今かと出走の合図を待って
いた。
場内スピーカーをとおして威勢のいいファンファーレが鳴
り、ついに第四レースはスタートした。
「ウォー」という歓声とともに座っていた観客が一斉に立ち
上がった。スタート地点は第一コーナーの手前で、馬群はス
タートしてすぐにカーブにかかり、しばらくはどの馬が先頭
なのかよくわからなかった。
白とピンクと橙だ。とにかくそれが来ればいい。
馬群が向こう側の長い直線にかかったところで、目を凝らし
て騎手の帽子の色を見た。一番手が黄色、二番手は白、その
後を並ぶようしてピンクと橙色が走っている。オッ、四番以
内に三頭全部が入っている! 脳裏をサッと部厚い札束がか
すめた。
馬群はそのままの順位で第三コーナーをまわり、まもなく第
四コーナーにかかろうとしていた。さっきから一番手を走っ
ている黄色の馬の勢いがやや鈍り、二番手の白との差が一馬
身ほどに詰まっている。
「その調子。黄色後退しろ後退しろ。白、ピンク、橙ガンバレ!」
久夫は興奮で息が詰まりそうになりながら、胸の中で必死に
叫んでいた。
第四コーナーにかかり直線に入るちょっと手前で、黄色の馬
がずるずる後退して、あっと言うまに四位になった。
やった。来たぞ来たぞ。ピンク、白、橙が。
ゴールまで直線二百メートルのところでピンクの騎手がビシ
ッと鞭を入れると馬は一気にスピードをあげ、あっという間
に二位の白に三馬身ほども差をつけた。よし、これでピンク
の一着はだいじょうぶだ。あとは後続の二頭のうち、どちら
かが二着になってくれればいい。
久夫はそう思って、はりさけんばかりに胸をふくらませなが
ら、直線に入った馬群を凝視していた。
先頭のピンクがさらに飛ばして差を広げたので、もうその方
には目を向けず、ひたすら白と橙ばかりに視線を送ってい
た。二位の白と三位の橙の差は半馬身。
でも二頭とも直線に入ってからはなにかヨタヨタしていて
、もうひとつスピードにのれていない。久夫がそう思ってい
たときだった。
第四コーナーをまわった時は確か五~六番手だったはずの黒
の馬が直線一気に差を詰めてきて、あっというまに黄色を抜
き去り、残り百メートルのところでは三位の橙にも、もう一
馬身と迫っていた。おまけに前二頭に比べて足どりがしっか
りしていて、スピードもだんだん増してきているようだっ
た。
「危ない。黒に抜かされる!白、橙ガンバってそのまま逃げ
切れ」久夫は胸の中でそう叫び、拳をギュッと握りしめ、食
い入るように三頭の馬を見つめていた。それでもあと百メー
トルくらいのところまでは順位はかわらなかった。
ゴールまであとわずか五十メートルというところで黒の騎手
がビシッ、ビシッと激しく鞭をいれた。出た出た。黒の馬が
出た!そしてついに橙と並んだ。
「あぶない!」久夫がわれを忘れて大きな声で叫んだとき、
三頭の馬はほどんど並ぶようにしてゴールへなだれこんだ。
ゴール寸前で橙色はわずかだが黒にかわされた。でも白はど
うだろう?内枠と外枠で、かなり位置が離れていたので定か
ではないけれど、なんとか頭差くらいで二着に残っていたの
ではないだろうか?
「2―8や、2―8や」久夫に大きなダメージを与えるそん
な声があたりのあちこちから叫ばれた。「なにっ、2―8だ
と、そんなばかなこと! だったらこの六万円の馬券はモク
ズと消えるではないか」とつぶやいて、あたりのそんな声を
必死で否定しようとした。
「1―8や、1―8や。白が鼻差で残っていた」すぐ近くで
さっきとは別のそんな声がした。とっさにその方をふり向い
て声の主に上ずった声で聞いた。
「そうですねえ。シロの馬たしかに残りましたねえ」「残っ
た、残った。1―8にまちがいない」野球帽をかぶった初老
の男のその自信に満ちた言葉を聞いて、久夫はすっかり有頂
天になり、足が地につかない気持ちだった。でも不安な気持
ちもまだ半分くらいあった。
レース後のどよめきが少しおさまって、上の方からぞろぞろ
と下りてくる観客の波にもまれて久夫も階段を下りていき、
とにかく払い戻し窓口の方へ行こうと思っていた時だった。
「第四レースの結果をお知らせします」と、場内アナウンス
が流れて、あたりがシーンとした。久夫はこのまま息が止ま
るのではと思うほど、期待と不安が交錯した気持ちで放送に
聞き入った。
「連勝複式。2と8の組。二千百四十円」
それは恐ろしいほど冷酷な響きをもって久夫の耳に飛び込ん
できた。
まさか!とは思ったが、やはりゴール前で白の馬は激しく差
し込んできた黒の馬に抜かれていたのだ。
アナウンスを聞いて、そのまま三歩ほど歩いたところで、体
の力が見る見る抜けてくるのがはっきりわかった。そして立
っているのもいやだ。という気になり、近くのベンチにへな
へなと座り込んだ。
そんなばかな。さっきの人だって、白が鼻差で残っていた。
と言ってたではないか。
久夫にはまだ結果が信じられなかった。そして「先ほどの
放送は間違いでした」と、まさかあるはずもない場内放送が
聞こえてくるのでは。などとばかげたことを力なく考えてい
た。
その場にどれくらい座っていただろうか。次に耳にしたの
は、「第六レースの結果をお知らせします」というアナウン
スであった。
レースとレースの間は三十分だから、第四レースが終わって
からその場所に一時間以上もポカンと座りつくしていたの
だ。その一時間余、第四レースでもうちょっとのところで取
れた大金を逃した悔しさと、六万円もの馬券を一度に買わせ
た男のことが交互に頭にもたげて来ていた。
それにしてもあの男、いったい誰だったのだろう?六万円の
馬券を買わせたのは好意からなのだろうか?確かにあの男が
言ったように、五枠の黄色の馬は途中でズルズル後退して着
外に敗れた。
そして総合的な結果にしても、一着のピンクの馬は別格として
も、最後に黒の馬に抜かれた白と橙の馬を含めて、予想した
馬のすべてが四着以内に入っており、実にいいとこをついてた
ではないか。
でも、もし黒に抜かれずに、あのまま〈7―8〉と入っていて
大金をつかんでいたとすれば、いったいどうやってあの男を見
つけ、どのようにお礼を言ったらよかったのだろう?
少しだけ冷静さを取り戻して、久夫がそんなことを考えてい
たときだった。それまでのものと違って、今度は男の人によ
るアナウンスが聞こえてきた。「場内の皆様にお知らせしま
す。たちの悪いコーチ屋グループが場内に入り込んでいま
す。
馬券売り場近くで知らない人に話し掛けられたときはじゅう
ぶんご注意ください」一回目のときにはそれを聞き流した。
でも二回目に同じアナウンスが流れてきたとき、〈コーチ
屋〉と言う言葉が耳について離れなかった。コーチ屋って、
いったい何だろう?コーチと言えば人を指導すること。
コーチ屋、つまり人を指導する商売か。そんなふうに考えて
いて、ハッと気がついた。そして馬券売り場窓口の近くでな
れなれしく近づいてきたあの大柄なパンチパーマの男の姿が
脳裏に浮かんできた。あれだ。あの男がコーチ屋だ。
そうだ、自分はそれに引っ掛かったのだ。「やあ久しぶりで
すねえ」と近づいてきたときのあの懐かしそうな声。親しみ
に満ちたこぼれんばかりのあの笑顔。そうだ。あれは全部や
つの芝居だったのだ。そうだ。きっとそれに違いない。
どうりでいくら考えても思い出せなかったわけだ。最初から
あんな男知らなかったのに、人に他のことを考えさせて、そ
の隙に自分のペースに乗せてしまう。しかも小道具に前のレ
ースで取ったという部厚い札束?をちらつかせながら。
でも、レースの予想はいいとこついてたではないか。黄色の
馬は足を故障していて駄目だと言った。そのとおり、あの馬
は第四コーナー手前で大きく後退して着外になっている。馬
については彼らもそれなりに研究しているのであろうか?
それにしても不思議なのは、買った馬券を全部渡してサッと
去っていった。騙したとしても彼には何の報酬もないではな
いか。
そう考えていると、久夫は何がなんだかよくわからなくなっ
てきた。
小説「直線コースは長かった」より、危機の部分抜粋