2026年3月19日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド(5〉下津さんの失敗・ナイトボーイの愉楽②(8)

   

                 

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 昨日の今日、それにしてもこの人よく来てくれたな。もしや僕が彼女を思っているのと同様に、彼女も僕に気があるのだろうか。


でも待てよ。そうとも限らない。こんな高級な芝居、ぼくらの年齢の者にはなかなか来られるチャンスはない。今日彼女がやってきたのは単にこの芝居と劇場に興味があったからなのかもしれない。


 それが証拠に彼女さっきから目を食い入るようにして舞台を見つめているではないか。 

 

でもまあいいか。とにかく来てくれたのだし、たとえこれまでたいして僕に気がなかったにせよ、これをきっかけに交際が始まればいいんだし。


 道夫はそんなふうに考えて、後半の幕が上がってらはそれまでよりは少し気を入れて舞台を見るようになっていた。


 それでもあと十五分もすれば幕が下りるという頃になると、 これが終わったらその後どうしようかと、再びソワソワし始めていた。


 これが終わるのが四時半か。食事にはまだ早いな。喫茶店に誘ってお茶でも飲もうか。食事はその後でいい。


でも彼女、この後もすんなりつきあってくれるだろうか。ここを出るなり「もう帰る」などと言わないだろうか。


これまでにもう三時間も一緒にいたけれど、なにしろ場所がこんなところで、まだろくに話もしてないんだし、できたらもうしばらく一緒にいて、いろいろと話してみたいな。どうか「帰る」と言わないように。


 そんなことを繰り返し考えていて、気がついたときには舞台に出演者全員が上がっていて、観客に向かって大きくおじぎをしているところだった。


 ふと隣に目をやると、章子さんはけんめいに拍手しながらうっとりとした表情で出演者の面々を見つめていた。道夫もつられて拍手をはじめ、二宮さんどこにいるかなあ、とあわてて舞台に目をやった。


 章子さん、この芝居気に入ったんだ。誘ってよかった。

 後半の一部分をのぞいて一向に見物に身の入らなかった自分のことはさておき、そう思ってとりあえず満足した気分になっていた。


 カーテンがすっかり下がり、場内のライトが赤々とともり、微かなどよめきとともに観客が出口に向かって動き始めた。


比較的前の方の座席に座っていた道夫と章子だったが、後部の客がおおかた立ち上がったのを確認してから、ゆっくりと流れる通路の行列に加わった。


二人並んでやっと通れる狭い通路で、道夫の肩がときおり章子の肩に触れ、そのたびに道夫の体になんともいえない心地よさを与えていた。


 外へ出ると、入る前晴れていた空はどんより曇っており、初夏のキラキラした太陽はのぞいていなかった。


六月真ん中の土曜日とあって劇場近くの繁華街の人出はすこぶる多く、しばらくの間、二人は人の群れをかいくぐって歩いていた。


 大通りに出て交差点をわたり、警察署の前を通ってやっと広々とした御堂筋に出た。


 「すごい人ごみでしたねえ」 そこまで来るのに人波をかわすのが精一杯でしゃべる余裕もなかったのか、道夫が劇場を出て初めてゆっくり口を開いた。


 「そうねえ、私このあたりに出てくるの久しぶりなんだけど、土曜の夕方っていつもこうなのかしら」


 「うーん、そうでもないでしょう。ほら、いま六月の半ばでしょう。そろそろボーナスも出始めた頃だし、そのせいじゃないですか。懐具合のいい人が多くて。


ところで池上さん。今日のお芝居どうでした?」 通り反対側のビルの地下にある喫茶店に行こうと勝手に決め、横断歩道の前で信号待ちするときそう訊ねてみた。


 「よかったわとても。わたし感動しちゃった。主演の東千代之介さん、小さい頃から映画の笛吹き童子なんかでよく見ていたけど、その頃より今のほうがずっといいみたいだわ」


 「笛吹き童子」ねえ、あれ僕もよく見ましたよ。中村銀之助さんとコンビのあの映画。確か小学生の頃だったかなあ。悪者をやっつけるシーンなんかでは、もう夢中に拍手しましたよ。 


「私もだわ。もう男の子に負けないくらい一生懸命に」


 章子のその言葉で、なにかぐっと親近感が増したような気がして、道夫は満面の笑顔で彼女をふり向いた。すると章子もその日いちばんの明るい笑顔で道夫を見た。


 「この下にいい喫茶店があるんですよ」 大通りをわたり、そのビルの階段の前まで来て道夫は言い、そのまま階段を下りていったが、章子は黙ってついて来ていた。


 さっき、芝居の終了間際に、彼女ここを出るとすぐ帰ると言わないかな、と心配していたのがバカみたいに思えた。


 シックな内装の奥まった席に二人は向かい合って座り、道夫はアイスコーヒー、章子はミックスジュースを注文した。


 それから二人は延々二時間以上もそこへいて、あれこれととりとめのない会話を交わしていた。


道夫が話したのは、ナイトボーイとしての、夜の仕事のこと、昼間通っているもうひとつ効果のはかばかしくない英語学校のこと。


 章子が話したのは高校時代テニスの選手で地区大会まで出場したこと、大好きだという映画のこと。その映画の話しのおかげで、一週間後の金曜日に一緒に映画見物に出かける約束を取りつけたのだった。



 そして映画に行ったさらに二日後には、二人は夜の中島公園でデートしていて、それからさらに五日後には近鉄電車で奈良まで行き、若草山とか奈良公園とかで一日中楽しんだのだ。


二宮さんに招待されて一緒に芝居見物をして以来、わずか一ヶ月ほどの間に道夫と章子は七回も会い、一緒に過ごした時間も二十時間を超えていて、これでもう二人は自他ともに認める恋人同士だと、その頃の道夫は満足この上なくウキウキした毎日を過ごしていた。


でも、ただひとつだけ気がかりなこと、それは一ヶ月に七回も会っていて、手は二~三度にぎったのだけど、まだ一度もキスしていない。そのことだった。

つづく


次回 3月26日(木)