2026年3月10日火曜日

とある外資系ホテルCEOと私 二人に関する過去のおはなし Part 1~3  全5,700文字一挙掲載

 


(Part 1)


 Yとは転身先のホテルPで知り合った


私とYは1970年大阪EXPO開催に合わせて、大阪福島区にオープンしたホテルプラザの一期生として入社した同期生です。

二人はそれぞれ東京と大阪を代表する名門ホテル出身で、このホテルへ将来に向けた大きな夢を託してやってきたのです。

ここでの二人の遭遇がこのお話の始まりです。


  ホテルプラザ


ホテルプラザは関西随一のホテルを目指して1970年に華々しく開業した


ホテルプラザ(1999年廃業)は、大阪福島区の朝日放送に隣り合わせた場所で1970年に大阪千里丘陵で開催された大阪EXPO(大阪万博)に合わせて開業しました。

当時、大阪の一流ホテルといえば、ロイヤルホテル(現リーがロイヤルホテル)とその系列の大阪グランドホテル(2009年閉業)ぐらいしかありませんでした。

そうした中でホテルプラザは、それら二つのホテルを凌ぐ大阪一の高級ホテルを目指して華々しくオープンしたのです。

それまでロイヤルホテルに勤めていた私は、上司に連れられるようにして夢を抱いてこのホテルに転籍しました。

なにしろ経営母体が朝日放送で、社長を務めるのが元住友銀行頭取ということもあって、業界はもちろんのこと、メディアからも大きな注目を浴び、開業前から華々しい報道合戦が繰り広げられていました。

かくして脚光をあびながら、ホテルプラザは大阪EXPO開業に合わせて1970年堂々オープンを迎えたのです。


スタッフは 京大、神戸大、慶応大、立教大、青山大、同志社大など出身のエリート揃い


ホテルプラザが大阪トップクラスのホテルを目指すには、開業に際してまず優秀なスタッフを集めることが先決です。

そのためには有名大学卒業生を獲得することですが、1970年のスタート時のメンバーを眺めてみると、京大、神戸大、慶応大、立教大、青山学院大、同志社大など実にそうそうたるメンバーではありませんか。

これほど立派な人材は当時日本中のホテルを見渡してもどこにもなかったのではないでしょうか。

こうした人材は(新卒生を除いて)ほとんどが東京の名門ホテルオークラ、大阪を代表するロイヤルホテルなどを中心に既存の一流ホテルから集められた人たちです。


私は彼らと張り合うためにNYのホテルへ研修に旅立った


ホテルマンとして職業人生をまっとうすることに決めていた私ですが、新しい職場仲間がこれほど高学歴揃いだとは流石に予想していませんでした。

でも現実を知ると、これほど優秀な同僚たちの間に入って、英語系専門学校出身の私が果たして仕事面で伍していけるかと、次第に不安が募ってきたのです。

とはいえ大きな夢を抱いて入ったのですから簡単に引き下がるわけにはいきません。

そこで色々思案を巡らし検討を重ねてた結果、ホテルマネージメントを学ぶため、先進国アメリカのホテルで研修を受けることを計画しました。

そのために約1年間を費やして、NYのめぼしいホテルに手紙でアプローチし、連絡を重ねた結果、2社から、面談の上決めよう、というゼネラルマネジャーの快い返事をもらいました。

そして大阪万博が終わった1970年の秋、NYへと旅立ったのです。


バークレイ、ニューヨーカー、NYヒルトンなどと面談を重ね、最終的に研修先はスタットラーヒルトンに


ニューヨークでは最初にバークレイホテル、続いてニューヨーカー、3番目はニューヨークヒルトン、そして4番目のスタットラーヒルトンと面談を重ねていき、結局最後のホテルで条件面、その他で折り合いがつき、このスタットラーヒルトンホテルで職場研修性として勤務することが決まったのです。

スタットラーヒルトンは名前のとおりヒルトン系のホテルです。場所はペンステーションの近く7番街33丁目にあり、すぐ前にはスポーツの殿堂で有名なマディソンスクエア―ガーデンがある極めて分かりやすい場所にあります。

高層ビルのメッカNYにあって、23階建てという高さは目立ちませんが、その反面敷地面積が広いため、外観はどっしりとした構えで安定感を感じます。

それに何と言っても誇るべきは2200という客室数です。1970年代初めにこれほどの客室数を持つホテルはNYでも僅か数軒でしかありません。


スタットラーヒルトン


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(Part 2)


1972年秋 NYのホテル研修を終え帰国

ヒルトン職場研修では多くのかけがえのない成果を得た


1972年の秋、私は1年数カ月のNYのホテルでの研修を終えて元のホテルプラザへ戻ってきました。

スタットラーヒルトンでの勤務での職場は主にフロントオフィスでしたが、それなりの研修成果はありました

具体的に上げてみると第一はこちらの職場では会議やミーティングが極端に少なく、その代わりにスタッフへ届くinteroffice correcepondenceと呼ばれる通達文書があります。

いわゆるオフィス内文書で、関連部署のマネージャーからスタッフ一人一人に当てて届けられるのです。

現地の社員にとってはこれは単なる連絡文書でしかないでしょうが、私にとってはそれだけで終わらず、もう一つ別の大きな意味がありました。

というのはこれは英語で書かれた職務文書であり、生きたビジネス英語の格好の教材となったからです。

そうした文書が在籍中に100通近くも届いたのです。


第二は、ヒルトンのフロントオフィスには15名ほどのスタッフがいましたが、私以外はすべて現地の外国人ばかりでした。そのため否応なしに使う言語は英語だけですが、これが英語力の上達に大いに寄与してくれました。


日本とは大きく異なる米国ホテルの経営形態


三つめは、日本と大きく違うアメリカのホテルの経営形態が学べたことです。

日本では英語ができるということがスタッフの条件になっていることもあり、フロントオフィスには比較的優秀な人材が配置されていました。

しかしこちらでは英語ができることは当たり前のことですから、FOのスタッフに特に有能な人が配置されることはありません。

有能なスタッフは経営サイドである企画とか広報、あるいはマーケット部門に配置されているようです。

その証拠に私が職場でもらった通達文書は、セールスマネジャーやマーケティングマネージャーからのものがずいぶん多かったようです。


フロントスタッフは誰もが堂々として客に対峙している


これは学んだというより、むしろ驚いたと言った方がいいかもしれませんが、こちらのスタッフはサービス業だとは言え、客に対してむやみにCペコペコすることなく、むしろ堂々とした態度で対峙していることです。

要するに客は従業員より上、という感じがなく、人として対等の立場で対応しているのです。それが良く表れるのが言葉遣いです。

もちろん語尾には相手を敬う、SirとかMomをつけますが、それ以外はごく普通の言葉遣いで通しているようです。

これは客に対しては少なからずへりくだった表現が多くなる日本とは大きくことなるようです。

その象徴的なシーンを目撃したのは、当時アメリカの大統領のジョンソン氏が訪れた時のことです。

応対したのはFOのチーフを務めるショーン・フレディでしたが、彼がカウンターから手を伸ばして、ジョンソン大統領と堂々と握手していたシーンが忘れられません。


NY研修から戻った私に、Yが突然「NYのホテルの資料を見せてくれ」と言ってきた


上でも書いたように、1972年の晩秋、私はトレイニーとして出向していたニューヨークのスタットラーヒルトン(後のホテルペンシルバニア)から元の職場ホテルPに戻ってきました。

新しいポストは接客課のアシスタントマネージャー(係長)でした。

一方Yの方はというと、30歳を過ぎてまだ間もないのに、既にホテルの重要ポストである副支配人(課長職)についており、30人ほどいた同年齢の中で最も出世が速い3人のうちの1人に入っていました。

そんな彼は周りから「やはり青学(青山学院大)出身は違うな」と羨望の目で見られていました。

羨ましく思ったのは私も同様だったことはいうまでもありません。


それほど親しくもないYに貴重な資料を貸したのは大きな失敗だった


同期の誰より出世がはやく、皆から羨望の目で見られていたYですが、

その彼がNYから戻ってきたばかりの私のところへやってきて、なんと、「アメリカのホテルの資料を見せてくれ」というではありませんか。

はっきり言ってYと私はそれほど懇意ではありません。ふだん出会ったとき軽い挨拶を交わす程度の中でしかなかったのです。それなのに私が苦労して得た貴重な資料を貸してくれ、と気軽に言うのです。

その厚かましいともいえる神経には理解に苦しんだのですが、その時の私は彼の申し出に対して、理由を尋ねるとか、あるいは何らかの条件を付けるなどということはまったくなく、申し出をすんなり受け、数十点にも及ぶ資料を手渡したのです。

好意によるものといえばそれまでしょうが、大きな代償を払って手にした貴重な資料を特に親しくもない職場の同僚に無条件で安易に貸し与えたことは、私の職業人生に汚点を残す大きなミスであったように思います。

これは後でわかったことですが、要するに彼は私をうまく利用したのであり、利用された私がバカだった、と言えるかもしれません。




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(Part 3)


新聞記事を見て初めて知ったYのその後


ウェスティンという名のそのホテルは、日本における外資系ホテル草創期1993年(平成5年)6月に大阪・梅田に建てられました。

オーナーは当時はぶりがよかったAという関西の新興建設会社です。

中堅の建設会社が外資系ホテルの経営に乗り出すのは珍しいことですが、この頃になってやっと沈静化を見せた見せたバブルの余韻かもしれません。



驚くべきかな!なんとYはこのホテルの社長になっていた


上でウェスティン大阪について概要を書きましたが、でもこれがこの項の趣旨ではありません。知っていただきたいのは次に書く事柄です。

それはタイトルにもあるように、その後のYの驚くべき転身です。

ある事情があって35歳の時ホテル業界を去った私は、その後のYの情報には無縁で、実はこの記事を読むまで、彼がホテルプラザを退職したことさえ知らなかったのです。

それが、いきなり大手外資系ホテルの社長になったという事実を知り、その鮮やかな転身に驚かないはずがありません。

でも、それからわずか数年後に知ったのは、下の新聞記事にあるような、Yに関するとんでもなくアンハッピー(不幸)な事実だったのです。


外資系ホテルの社長になったYが起こした事件とは


『msn.産経ニュース』(2013.3.26)

≪ウェスティンホテル大阪の総支配人を労働基準法違反で送検≫


 <高級ホテル「ウェスティンホテル大阪」(大阪市北区)が、従業員に残業代などを支払っていなかったとして、大阪労働局天満労働基準監督署は25日、労働基準法違反の疑いで、同ホテルを運営するテェルウィンコーポレーション(〇〇〇〇社長)と、同社取締役でもある同ホテルの男性総支配人(61)を大阪地検に書類送検した。総支配人は容疑を認めているという>

 <送検容疑は、平成24年2月16日から同年3月15日にかけ、同ホテルの従業員計21人に残業や時間外労働に対する割増賃金など計約101万円を支払わなかったとしている><関係者によると、従業員の中には月129時間を超える残業をさせられていたにもかかわらず、固定給と定額手当しか支払われていなかった>という。

 <同署は昨年8月、内部告発を受け、同社本社などを家宅捜索していた。同社は過去にも従業員への残業代不払いなどをめぐって3回の行政指導を受けており、同署は再三の指導に従っておらず、同社が組織的にサービス残業させていたと判断した>という。


それにしてもYは、新聞でこれほど大きなニュースになるほどの事件をなぜ起こしたのでしょうか。

思うに、社長としての期待された経営成果を上げられず、少しでも経費を削ろうという気持ちが、「他人の力を不正に利用する」という、持ち前のずる賢さが働いたのかもしれません。



結局Yはずる賢いだけの男だったのか


Yが起こした事件について改めて考えてみますと、結論としていえることは、結局彼はいつも出世や保身だけを考える、いわゆるずる賢いだけの男でしかなかった、ということです。

それもそうでしょう。まず私に米国ホテルの資料を借りにきたことです。私としては苦労して得た貴重な書類です。

それを当時それほど親密でもない彼が唐突に、しかも気安く申し込んできたのです。

記憶は定かでありませんが、確か2週間ほど返しに来ませんでしたから、憶測ですが、その間にすべてをコピーしたのではないでしょうか。


Yの外資系ホテル社長の座獲得には私が貸した書類が大きな役目を果たしたのかも



もし彼がホテルプラザにいた頃から外資系ホテルへの就職を視野に入れていたとすれば、私に資料を借りにきた意味がよく分かります。

私から借りた資料は外資系ホテルの重役のポスト獲得には、極めて役に立つ有用なものであったに違いありません。

それもそうでしょう、資料はすべて、ニューヨークの一流ホテル現場でInteroffice orrespondence(内部通信・社内連絡)として社員間のコミュニケーションに使われた最新の文書の集積だからです。

これほど最新の生きた教材が外資系ホテルスタッフを目指すために役立たないはずがありません。

早く言えば、Yはこの唯一無二ともいえる貴重な資料を得て、これをうまく活用することでCEOへの道を大きく切り開いたのかもしれません。

そうした彼も、結局は身から出た錆からなのか、最後は淡路島にある系列の小さなホテルへ左遷され、ホテルマンとしての生涯を終えたようです。