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2025年9月7日日曜日

ある外国人バイヤーのつぶやき・「富士山をはっきり見たことが一度もない」《再掲載シリーズ No.12》

 


初出:2011年5月31日火曜

更新:2025年9月7日日曜日



ホテルマン時代に商用でよく日本にやってくるあるアメリカ人バイヤーが、冗談とも本気ともつかない口調で私に話したことがある。

「これまで10回ぐらい東京、大阪間を新幹線で往復したけど、まだ1度も富士山をはっきり見たことがない。富士山って本当に日本にあるの?」

私は思いがけないこの質問に対して答えに窮したが、かろうじてこうこたえた。

「静岡県ってところにちゃんとありますよ、この次は見れるんじゃないですか」

後でそのことについて考えてみたのだが、彼がああ言うのももっともだと思えた。

一般に言われているところによれば、富士山が頂上まではっきり見えるのは10日に1度ぐらいだそうである。

ということは1年に40日弱でひと月の日数より少し多いだけなのだ。

だとすれば残りのあと300日以上は富士山ははっきり見えないということになる。

したがってアメリカ人バイヤー氏が言うこともさして不思議なことではないのである。

往復で10回ぐらい行き来したとはいえ確率からすればそれはじゅうぶん有り得ることだからである。

また、商用で新幹線をしょっちゅう利用している知り合いのT氏もこう言っていた。

「僕も1年に何度も乗ってるが、その外人さんと同じでこれまでほとんどはっきり見えたことがない。

かろうじて見えるのも10回に一回ぐらいの割じゃないかな、まあ冬場の晴れた日ははっきり見えるけどね」

また別の知人もこう言っていた。

「私は日頃の行いが悪いのか、この区間を新幹線に乗って富士山を見たことがほとんどない。いつも雲の中にかくれてばかりいるんだ」

考えてみればJR東海道線を行き来する旅行者にとって富士山を見ることは大きな楽しみのひとつなのである。

したがって何度も続けて見ることが出来ないということは大きな失望なのではないだろうか。

特にこれが期待の大きい外国人であればなおさらのことであろう。

ではこうしたアイデアはどうだろう。

JRは静岡県を新幹線が通過するとき電光パネルでそれを知らせるサービスをしているが、それに加えて富士山が見えない日は大きなスクリーンに富士山の美しい画像を映して見せてはいかがだろうか。

そうすれば、旅人にとっては一縷の慰めになるのではなかろうか。

特にはるばる日本を訪れた外国人団体客などに対してはそれくらいのサービスをしてもいいのではなかろうか。

日本の観光PRのためにも・・・。


2025年8月30日土曜日

図書館にこんな珍しい本があった《再掲載シリーズ No.11》

初出:2021年10月12日火曜日

更更:2025年8月30日(土)


 今から約20年ほど前、その頃働いていた職場の20代の女性が教えてくれました。今話題の本だということを。


タイトルは「ぼっけえ きょうてえ」というずいぶん変わったものでした。意味は「すごく怖い」という岡山弁だそうです。


作者は岡山県出身の岩井志麻子といって、当時売れっ子になっていました。


その記憶が残っていて、今回図書館で偶然目にしたこの本なのですが、なんと下に写真があるように、本のタイトルが「猥談」というもので、上記の本と同じ著者が書いたものです。


とても気になったので借りてみたのですが、図書館にこんな本があるとは驚きです。 



「猥談」岩井志麻子著 朝日新聞社 

20年近く前の2002年発行の本です。図書館では男女の下半身にまつわる話を書いたいわゆる「いやらしい本」はあまり見かけません。

それ故にこの「猥談」というタイトルの本があるのが珍しいと思ったのです。

珍しい理由はこれだけではありません。この本が置かれていたのは「話題の本」というコーナーで、そこの棚に並べられていたのです。

この棚には、この図書館で今よく読まれている(貸し出しの多い)本ばかりが集められているいわば人気本コーナーなのです。

そこに20年もの前の本が並ぶのは珍しいことです。それに発行先に目をやると、なんと朝日新聞社となっているではありませんか。

 

つまり 

・「猥談」というタイトル

・20年近く前の本

・「話題の本」のコーナーにあった

・お硬い「朝日新聞社」発行のやわらかい本 


というふうに、4つものことさら気を引く点があったのです。

これだと私に限らず男性の多くが「借りて読んでみよう」という気にならないはずがありません。

 

(読後感)

著者と3人の男性作家による対談集です。3人の中で存在感があるのは野坂昭如です。まさに今回のテーマ「猥談」にピッタリの人選で、お色気話に関心ての造詣の深さは脱帽ものです。この作家に対しては、いかに自称「色きちがい」の著者といえども、まともに太刀打ちできないようです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・ 


猥談 (単行本) の商品紹介  TSUTAYAオンラインショッピングより)

 

人生枯れては面白からず。艶美あふれる処女対談集。私生活から小説まで、男と女が組んず解れつ、包み隠さず語り尽くす。

 発行

2002年

 目次 

・猥談(野坂昭如)

・禁忌と倫理(花村万月)

・色気と文芸(久世光彦)

 

猥談 (単行本) の著者情報

岩井志麻子

岩井志麻子は1964年生まれの日本の小説家。岡山県出身。岡山県立和気閑谷高等学校商業科卒業。
高校在学中の1982年に、第3回小説ジュニア短編小説新人賞佳作に入選。1986年、少女小説『夢みるうさぎとポリスボーイ』で作家デビュー。
その後も『岡山女』で第124回直木賞候補となるなど、順調に執筆活動をする。また、テレビ出演や講演会の講師としての活躍の場を広げている。

2025年8月24日日曜日

(故)大平正芳(元首相)をめぐるエピソード2題 《再掲載シリーズ No.10》

 


初出:2019年7月 1日

更新:2025年8月24日




故)大平元首相に関する取っておきのエピソード


(その1)チャック開いていますよ


今はもう無くなりましたが、大阪の中の島に、大阪グランドホテル(2009年閉館)という老舗ホテルがありました。国内のVIPや外国の要人がよく泊まる大阪屈指の高級ホテルでした。

余談ですが作家の森村誠一氏は若い頃ホテルマンでしたが、その彼が一時期働いていたのがこのホテルです。

わたしは20代前半、このホテルでフロントクラークとして勤務していたのですが、ある年の春ごろでしたか、その頃はまだ外務大臣であった大平正芳氏が宿泊のためにやってきました。


実は氏の家と私の父の家は、互いの祖父が兄弟という本家と分家の関係の遠縁にあたります。


翌日の朝、出発前にロビーで挨拶しました。初対面の私が自己紹介すると、彼はいきなり「五郎は元気か?」と尋ねました。五郎とはわたしの父の名前です。


彼は長い間(何十年も)会っていない父の名前をちゃんと覚えていてくれたのです。


父は「子供の頃はよく一緒に遊んだ」と話していましたが、彼の言葉はそれが事実であることを証明してくれました。


それはさておき、そう言った彼の姿に目をやると、なんとズボンの前のチャックがぽっかりと開いたままになっているではありませんか。


そんな姿のまま、人の多いロビーを堂々と歩いていたのです。

私がすかさず「チャック開いていますよ」というと、彼は「あっそうか」と少しも悪びれた様子もなく、おもむろにチャックに手を伸ばしていました。



(その2天井から頭上に刀を吊るして

 

私の父はかつての大平正芳氏について、こんな話をしていました。


香川県の旧制観音寺中学から東京商大(現、一橋大学)に進んだ彼は、すごい勉強家だったそうです。


何がすごいかというと勉強に対するそその姿勢です。

勉強を長く続けるためには中断しないことが大切で途中でむやみに立ち上がらないことです。


とはいえ、立ち上がって中断することを止めることは簡単ではありません。

彼はどうしたら立ち上がらないようになるか工夫を凝らしました。

その結果、天井から頭上の位置に刀を吊るすことを思いついたのです。


うっかり立ち上がると刀が頭に刺さるので怖くて立ち上がれなくなるからです。


それほどまでして彼は勉強に打ち込んでいたのです。


2025年8月2日土曜日

ビートルズ余聞 《再掲載シリーズ No.9》

 


初出: 2010年9月23日


更新:2025年8月 2日







少し古いが、1991年発行の「講談社英語文庫」の中のボブ・グリーン著「チーズバーガーズ」という文庫本に「ビートルズ」にまつわるおもしろい話が載っている。


英語文庫だから、もちろん英語で書かれているのだが、比較的平易な英文なのでそれほど高い英語力がなくても読める文庫である。


全部で27の作品が載っているのだが、その最後の27番目がこの作品である。


タイトルは


「The Strange Case Of The Beatles’Bedsheets」というもので、訳せば「ビートルズの使ったベッドのシーツをめぐる不思議な話」というような意味である。


話の内容はこうである。


ビートルズが1964年に最初のアメリカ公演をした時のことである。


その頃のビートルズの人気と言えば実にすさましいもので、「彼らの触れたモノはすべて金になる」と言われるほど、人を超えてまさに神ともあがめられるほどのスーパーヒーローであったのだ。


その人気に乗じて一儲けしようと企んだのはシカゴのテレビ局に勤める2人の若いディレクターであった。


そこで彼ら、リッキーとラリーは一策を講じた。


そしてまずビートルズの泊ったデトロイト、カンサスシティの、2ヶ所のホテルのマネージャーと交渉して、彼らが宿泊した部屋のベッドのシーツとピローケースを支配人の証明書付きで、いくばくかのお金を払って譲り受けた。 


その後そのシーツとピローケースを一インチ四方の大きさに切ってその数164,000枚の布切れを作り、それを証明書つきで、一枚一ドルで売ることにしたのである。


うまくいけば一挙に164,000ドルの大金を得ることができると、彼らは試算していた。


まずそこまではアイデアとしても悪くなかった。


しかし彼らの期待をよそに、それらの価値ある?「布キレ」はまったく売れなかったのである。


二人は「こんなにすばらしいアイデアがなぜ駄目だったのだろう」と、その原因について考えてみた。


世の中にビートルズのニセモノのキャラクター商品があふれすぎていて、これが本当にビートルズが使ったシーツの布切れだと信じてもらえなかったのだろうか、


彼らはそんなことも理由として考えていた。


さらに悪いことには、ビートルズの弁護士から「断りもなくビートルズを商売に利用した」と違反を通告する書面が送られてきたのだ。


二人はせっかくの金儲けのアイデアが実らなかったばかりでなく、物心両面で大きな損失を被ったのである。




(内容は抜粋)


2025年7月30日水曜日

街角にゴミ箱がなくて、みんな困っている!《再掲載シリーズ No.8》


 

初出:2017年7月12日水曜

更新:2025年7月30日

 

なぜ街頭からゴミ箱が姿を消したのか?


近頃の街角で少なくなったものと言えば公衆電話ボックスとゴミ箱ではないでしょうか。


これら二つのうち、公衆電話の方は減った理由は誰にでも分かります。


ケータイ電話が普及したため、必要性なくなったからで、いわば必然的なことです。


それに比べてゴミ箱が少なくなったのはまるで理由が分かりません。


こちらは公衆電話と違って、いつの時代でも必要性が高く、街頭を行き交う人々にとってはなくてはならないものです。


それだけに、ひと昔前だとメインストリートには100メートルも歩くと、必ずと言って良いほど道端にはゴミ箱がありました。


それもドラム缶ぐらある大型のものが設置されていました。


ところが今は行けども行けどもそうしたゴミ箱が見当たりません。


以前はどの街角にもあった大型のごみ箱は見事に撤去されて姿を消してしまったのです。


たまにあったとしても、そればコンビニが客へのサービスとして店先に置いたゴミ箱ぐらいです。でもこれは買い物をしない単なる歩行者が使うのは憚れます。


ゴミ箱がないのはストリートだけではありません。


1日中多くの人が行き交う駅のコンコースですが、この広いスペースにもゴミ箱はありません。


旅行者がよく集まるのが駅のコンコースです。


旅行者は行く先々でよく買い物をします。それゆえに包装紙など、ゴミもよく出します。


でも捨てようと思っても周りにゴミ箱がないのです。仕方なく旅行かばんの中にゴミ専用スペースを作らざるを得ません。


旅行者に限らず、街頭でゴミ箱が必要になることは誰にでもよくあります。


たとえば弁当の空き箱とか、鼻をかんだティッシュペーパーとかは誰でもが捨てたくなります。


でも街頭にゴミ箱がなければ、それらをわざわざ家まで持ち帰らなければなりません。

それは少し酷なことです。



どうしてごみ箱を減らしてしまったのか



でもどうして必需性が高いごみ箱が姿を消してしまったのでしょうか。


ネットなどでは、無くなったのはオーム真理教事件以後で、爆発物などの不審物の隠し場所にされるのを防ぐためとか、ごみ箱を無くすと人は街頭でゴミを捨てなくなる習慣がつく、などの理由を推測として挙げています。


でもこうした理由は説得力がありません。


なぜならいずれも根拠が乏しく、公衆電話がなくなった理由のようなはっきりとした必然性が乏しいからです。



ゴミ箱がなくなったから街がきれいになったのか?


上に挙げた理由のうち、不審物の隠し場所になるから、というのは、ごみ箱の他に隠し場所がたくさんありますから根拠がうすくて説得力がありません。


ではゴミを街頭に捨てなくなる習慣がつく、という方はどうでしょう。


外国人旅行者は一様に日本の街頭の清潔さにおどろきます。ごみ箱がないにもかかわらず、どの街頭にもごみやチリがほとんど落ちていないからです。


確かに最近はどこの街頭へ立ってももゴミが散らかったところは見受けられません。


外国人ならずともこの点は認めます。でも街角にゴミ箱がないのは非常に不自然な上に不便ですから、できたらあってほしいと誰もが思っています。


そうした人々の不便さを無視して、ゴミ箱がなくなった理由に結び付けるのは、いささか無謀過ぎるような気がします。


それが証拠にはネットなどでこれを明確な根拠として挙げた記事は載っていません。


正直なところ、ごみ箱が街頭から姿を消した理由は誰にもわからないのです。


これは一つのミステリーと言ってもいいのではないでしょうか。