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昨夜道夫は考えに考えて招待券に添える手紙にこう書いた。
〈前略 あなたにこれをお渡しするとき、たぶん僕はこう言うでしょう「これ親戚のかたからの伝言です」と、でもそうじゃないんです。嘘ついてすいません。
実はこれぼく自身からのあなたへのメッセージなんです。口頭でお伝えすればよかったのかもしれませんが、どうも僕にはその勇気がなく、ついこうした手段をとってしまいました。あなたとはこれまでいくらもお話したことがなく、僕という者に対するあなたのイメージが果たしてどういうものだかわかりません。でも僕の抱いているあなたのイメージはここ数ヶ月間、すこぶる好ましいものなのです。これまでフロアであなたとすれ違ったり、社員食堂であなたの姿を見たりしたことは何度もありましたが、そのたびにステキな人だと勝手に心をときめかしていました。そして一週間前でしたか、朝の業務引継ぎのとき、運よくあなたと当たって『夜のお仕事たいへんでしょう。眠たくありませんか』と、優しい言葉を掛けられたとき、僕は感激で胸が高鳴り、ドゴマギしてしまって、ろくに返事もできない始末でした。あの後僕は深く後悔しました。せっかく憧れのあなたと話ができるチャンスが与えられたというのに、なぜもうすこし気の利いた返事をして会話を続けられなかったのかと。 実はこのメッセージはあのときの失敗を挽回するために僕が勇気をふりしぼって書いたものなんです。
同封したチケットは明日の土曜日の、コマ劇場のお芝居の招待券です。昨日これに出演されていて、現在ここへ滞在中の俳優の二宮さんからいただいたものです。二枚あって、はっきり言って僕も、いったい誰を誘ったらいいものかと、ずいぶん迷いました。四時からの仮眠時間もろくに眠らずそのことばかり考えていて、明け方近くになってようやく誘う人はあなたしかいないと結論を出しました。そして朝の勤務につくわずか前にこのメッセージを書いたのです。なにしろ芝居は明日ですし、時間も午後一時からですから急なことであり、あるいはあなとも時間的に無理(そうでなくても駄目)かもしれませんが、そのことはじゅうぶん承知の上でのお誘いです。でも僕としては、あなたが運よく明日が公休日であったり、またこのために有給を取ったり、あるいは昼までで仕事を早退したりして駆けつけてくれたらどんなに幸せなことでしょう。今朝これをあなたにお渡しして、明日の一時までにあるいは返事をいただくチャンスが(時間的にも)ないかもしれません。でも、とにかく僕は明日十二時過ぎにそこへ行き、入場口の前であなたをお待ちするつもりです。
ずいぶん急で、しかもぶしつけなお誘いであることはじゅうぶん承知していますが、もうずいぶん前から、どこでもいいから一度だけでもあなたとご一緒したいと思っていた僕の願いをどうかかなえてください。
ではこれにて。乱筆、乱文お許しください。
池上章子様
浜田道夫
文面を書き終えて最後に彼女の名前を書くところで道夫は少し迷った。
池上様だけにしようか。それともフルネームの池上章子様としようか。 章子という彼女の名前はそれまで知らなくて、つい少し前、守衛室前のタイムカードを見にいって調べたばかりだったのだ。
池上様じゃあなんとなくよそよそしいし、やっぱり章子と入れよう。
そう決めて名前を書き終え、封筒に入れたときは、早朝の勤務につくわずか二~三分まえだったのだ。それからああして「親戚の方からの伝言です」と嘘を言って渡したのだ。
あっという間にやってきた次の日の午後一時少し前。
それまでにもう数十分もキョロキョロとあたりを見渡していた道夫だが、
やっぱり駄目だったかと、しょんぼり肩を落として柱にもたれかかっていた。
そんな道夫の斜め前から突然「浜田さん、わたし来ました」という聞き覚えのある澄んだ涼しげな声が聞こえ、ふり向くと、鮮やかな青い水玉模様のワンピース姿の池上さんが立っていた。
道夫はカッと目を見開いてその姿を凝視したものの、あまりの感激に声が出ず、頭のてっぺんからつま先まで、ピリッとすこぶる感触のいい戦慄に思わず身を震わせていた。
それでも震える胸をかろうじて抑えながら 「来てくれてありがとう」と、やっとひとことぎこちなく言って、時計に目をやり、開演五分前だからと、入場口のほうへ彼女を誘った。
それから先、どのようにして中に入り、どこを通って座席までたどり着いたのか、とんと覚えていなかった。気がついたときには 「ただいまから開演いたします」というアナウンスとともに短いブザーが鳴り、舞台の幕がスルスルと上がり始めていた。
「このお芝居、おもしろいでしょうか」
場内のライトが次第に暗くなっていくのを意識しながら、また道夫がぎこちなく言って、少しはにかんだ笑顔をとなりの章子に向けた。
「さあどうなんでしょう。わたしお芝居って初めてですし、でもこんなステキな劇場、こられただけでも幸せだわ」 そう言って章子があの優しい笑顔を道夫に返した。
それから一時間半、前半が終わり、幕間の休憩時間がくるまで、道夫は舞台には一応目を向けていたものの気はそぞろで、芝居の内容とかあらすじだとかは一向に掌握しておらず、となりの章子のことばかりが頭の中を占領していた。
つづく
次回 3月19日(木)