2025年8月30日土曜日

図書館にこんな珍しい本があった《再掲載シリーズ No.11》

初出:2021年10月12日火曜日

更更:2025年8月30日(土)


 今から約20年ほど前、その頃働いていた職場の20代の女性が教えてくれました。今話題の本だということを。


タイトルは「ぼっけえ きょうてえ」というずいぶん変わったものでした。意味は「すごく怖い」という岡山弁だそうです。


作者は岡山県出身の岩井志麻子といって、当時売れっ子になっていました。


その記憶が残っていて、今回図書館で偶然目にしたこの本なのですが、なんと下に写真があるように、本のタイトルが「猥談」というもので、上記の本と同じ著者が書いたものです。


とても気になったので借りてみたのですが、図書館にこんな本があるとは驚きです。 



「猥談」岩井志麻子著 朝日新聞社 

20年近く前の2002年発行の本です。図書館では男女の下半身にまつわる話を書いたいわゆる「いやらしい本」はあまり見かけません。

それ故にこの「猥談」というタイトルの本があるのが珍しいと思ったのです。

珍しい理由はこれだけではありません。この本が置かれていたのは「話題の本」というコーナーで、そこの棚に並べられていたのです。

この棚には、この図書館で今よく読まれている(貸し出しの多い)本ばかりが集められているいわば人気本コーナーなのです。

そこに20年もの前の本が並ぶのは珍しいことです。それに発行先に目をやると、なんと朝日新聞社となっているではありませんか。

 

つまり 

・「猥談」というタイトル

・20年近く前の本

・「話題の本」のコーナーにあった

・お硬い「朝日新聞社」発行のやわらかい本 


というふうに、4つものことさら気を引く点があったのです。

これだと私に限らず男性の多くが「借りて読んでみよう」という気にならないはずがありません。

 

(読後感)

著者と3人の男性作家による対談集です。3人の中で存在感があるのは野坂昭如です。まさに今回のテーマ「猥談」にピッタリの人選で、お色気話に関心ての造詣の深さは脱帽ものです。この作家に対しては、いかに自称「色きちがい」の著者といえども、まともに太刀打ちできないようです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・ 


猥談 (単行本) の商品紹介  TSUTAYAオンラインショッピングより)

 

人生枯れては面白からず。艶美あふれる処女対談集。私生活から小説まで、男と女が組んず解れつ、包み隠さず語り尽くす。

 発行

2002年

 目次 

・猥談(野坂昭如)

・禁忌と倫理(花村万月)

・色気と文芸(久世光彦)

 

猥談 (単行本) の著者情報

岩井志麻子

岩井志麻子は1964年生まれの日本の小説家。岡山県出身。岡山県立和気閑谷高等学校商業科卒業。
高校在学中の1982年に、第3回小説ジュニア短編小説新人賞佳作に入選。1986年、少女小説『夢みるうさぎとポリスボーイ』で作家デビュー。
その後も『岡山女』で第124回直木賞候補となるなど、順調に執筆活動をする。また、テレビ出演や講演会の講師としての活躍の場を広げている。

2025年8月28日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈3〉ナイトボーイの愉楽(7)

                      

adobe stock

 

  7


そうでなくても都市ホテルの土曜日は閑なのに、深夜一時を過ぎるとなると、ロビーはもう人っこ一人いなくなる。いつもより一時間早くリーダーの森下さんもサブリーダーの杉山さんも、それに他の五人のボーイたちも仮眠についていた。


この日は一年先輩の下津さん、この四月に入ったばかりの十八歳の関口君、それに道夫の三人が四時からの仮眠B班に当たっていた。これから四時までに三人がすることと言えば、まず一時から始める一時間おきの館内巡回。


この日道夫は二時からの二回目の当番に当たっていた。それに三時過ぎに始める明朝の新聞配達用リストの作成。リストといっても、それはルームナンバーを書いた用紙に外人客だけをピックアップして丸印を入れるだけの単純な作業で、十五分もあれば終わる簡単な仕事なのだ。


あとは出入りするマッサージ師と、時折ある遅い帰館の客のためにエレベーターを運転することだけである。


時計が一時をさした頃から道夫はなんとなくそわそわしてきた。

あと二十分もしたら、またあの十一番さんに会える。それに対する期待感が道夫を落ち着かせなくさせていたのだ。 できたらあの人と一度外で会いたいなあ。二人で喫茶店に行ってお茶を飲み、そのあと映画に行く。それから・・・。


道夫はそんなことを想像して徐々に期待をふくらませながら、数分おきに壁にかかった時計に目をやっていた。


時計がやっと一時十五分をさしたとき、新人の関口君に向かって言った。

「関口君、僕ちょっと上に行ってくるよ。十二階のお客さんにこの時間に部屋へ来るように言われているんだ。エレベーターは少しの間、上に止めておくけど十分くらいで戻ってくるからよろしくな」 


相手がまだあまり事情の分からない関口君でよかった。これが先輩の下津さんあたりだと、「上へ行くたったお前いったい何しに行くんだ?」などと、ねほりはほり聞かれるところだ。


「はい分かりました。もし客が帰ってきたらもう一台のほう運転します」

関口君は素直さ丸出しで道夫にそう答えた。


十一番さんに伝えたとおり、約束の三分前にエレベーターを十二階に止めて、フロアに下りると、すぐ前に置いてあるベンチに座って待っていた。

シーンと静まり返った長いフロアの奥のほうでパタンとドアが閉まる音がして、その後かすかだが、こちらへ向かって人が歩いてくる足音が聞こえてきた。


十一番さんだな。今仕事が終わったんだ。 道夫は立ち上がってフロアの角から覗いてみようかと思ったが、かろうじてその衝動を抑えると、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。二回煙を吐き出して、三回目のそれを口にやったとき、静寂の中から女の声が響いた。 


「あら、やっぱり来てくれたのね。わざわざごめんなさいね」

さっきより一段とやさしい十一番さんの声が心地よく道夫を耳に入ってきた。


「時間通りですね。これでやっとお仕事終りですか? お疲れでしょう。ここへちょっとかけませんか?」 道夫はいったん立ち上がると、手のひらでベンチをさしながら言った。


「いいんですか、エレベーター止めたままで」 十一番さんが道夫のすぐ前まできてから聞いた。「ええいいんです。今日は土曜日でしょう、お客さん少ないですし、それに他の者にも用事があってここで十分位エレベーター止めると言ってますし」


「あらそうなの。じゃあ、お言葉に甘えてちょっとだけ」

道夫が再び腰をおろしたすぐその横に、形が良く、いかにも肉感的な十一番さんの丸いヒップがゆっくり下ろされた。


「ねえお昼間なにしているの?」 座るや否や、彼女はさっきと同じ質問を道夫に向けた。


「ああ昼間ですか、ええっと、八時半にここを出るでしょう。それから梅田まで戻って、いきつけの喫茶店へ行き、そこに九時半頃までいて、十時に桜橋の英語学校へ行き、そこで三時まで勉強して、四時に神崎川の下宿へ帰って寝る。まあざっとこんなところです」 道夫は日常生活をありのまま羅列して答えた。


「そう、お昼前英語学校へ行っているの。それとこの夜のお仕事なのね。大変でしょう。きつくない?」 「平気ですよ。僕、健康には自身あるし、ここでの仮眠を入れると一日五時間は睡眠を取っていますし、それに英語学校での居眠りも入れると普通の人とそう変わらないですよ」 


「あらあら、英語学校での居眠りだなんて、大丈夫なの、お勉強の方」 

「平気ですよ。コックリ、コックリしながらも肝心なところはちゃんと聞いていますし、ほらよく言うでしょう。眠りかけのとき、人間の記憶力は冴えているって」

道夫は誰に聞いたことかも分からない、そんなことを言いながら彼女をふり向いてはにかみながらもニコッと笑った。


「ねえ、一度私の家に遊びにいらっしゃいよ」

その時はまだ少しも予期していなかった十一番さんの言葉だった。

とっさのことで返事につまり、道夫はかろうじて 「は、はい」としか答えられなかった。


 「わたしねえ、中崎街のマンションに住んでいるの。梅田からだと歩いて来られるわ。どう、来週あたり?」 「えっ、ええ。いいですけど」 今度もあまりまともな返事はできなかった。

「住所と電話番号書いておくわ。ねえ、来週火曜日はどうかしら。その日、わたしお仕事やすみなの」 彼女はバッグからすばやくメモ用紙を取り出すと、細いきれいな字をそれに書き記した。


「四時半はどうかしら、夕食ご一緒しましょうよ」 メモを貰ってポケットに入れたあとも、まだ道夫には事実がよく飲み込めず、少し上ずった声で 「ええ、その日は僕も休みですから」と、偶然の一致を不思議に思いながら、それだけ答えた。

 あわよくば一度外でお茶と映画でも一緒したいな。 ついさっきまではそれくらいの期待感に胸を膨らませていたのに、それが一気に彼女の住まいに誘われてしまうとは、こんな嬉しい誤算ってあるだろうか。

「よかったわ。話が決まったようね。じゃあそろそろ下に下りましょうか」

 十一番さんはさも何もなかったかのように、サバサバした調子でそう言うと、ゆっくりとベンチ腰を上げた。


 「はい。すぐエレベーター動かします」 道夫はそう言って、まだ実感がつかめないまま、彼女にしたがって腰を上げた。


 一階について、ドアが開く直前に彼女が言った。 「じゃあ火曜日の四時、お待ちしています。近くまできたら電話してね。おやすみなさい」 


そう言って玄関の方へ去っていく十一番さんの後ろ姿を道夫はただポカンと見つめていた。


 つづく


 次回 9月4日(木)


2025年8月24日日曜日

(故)大平正芳(元首相)をめぐるエピソード2題 《再掲載シリーズ No.10》

 


初出:2019年7月 1日

更新:2025年8月24日




故)大平元首相に関する取っておきのエピソード


(その1)チャック開いていますよ


今はもう無くなりましたが、大阪の中の島に、大阪グランドホテル(2009年閉館)という老舗ホテルがありました。国内のVIPや外国の要人がよく泊まる大阪屈指の高級ホテルでした。

余談ですが作家の森村誠一氏は若い頃ホテルマンでしたが、その彼が一時期働いていたのがこのホテルです。

わたしは20代前半、このホテルでフロントクラークとして勤務していたのですが、ある年の春ごろでしたか、その頃はまだ外務大臣であった大平正芳氏が宿泊のためにやってきました。


実は氏の家と私の父の家は、互いの祖父が兄弟という本家と分家の関係の遠縁にあたります。


翌日の朝、出発前にロビーで挨拶しました。初対面の私が自己紹介すると、彼はいきなり「五郎は元気か?」と尋ねました。五郎とはわたしの父の名前です。


彼は長い間(何十年も)会っていない父の名前をちゃんと覚えていてくれたのです。


父は「子供の頃はよく一緒に遊んだ」と話していましたが、彼の言葉はそれが事実であることを証明してくれました。


それはさておき、そう言った彼の姿に目をやると、なんとズボンの前のチャックがぽっかりと開いたままになっているではありませんか。


そんな姿のまま、人の多いロビーを堂々と歩いていたのです。

私がすかさず「チャック開いていますよ」というと、彼は「あっそうか」と少しも悪びれた様子もなく、おもむろにチャックに手を伸ばしていました。



(その2天井から頭上に刀を吊るして

 

私の父はかつての大平正芳氏について、こんな話をしていました。


香川県の旧制観音寺中学から東京商大(現、一橋大学)に進んだ彼は、すごい勉強家だったそうです。


何がすごいかというと勉強に対するそその姿勢です。

勉強を長く続けるためには中断しないことが大切で途中でむやみに立ち上がらないことです。


とはいえ、立ち上がって中断することを止めることは簡単ではありません。

彼はどうしたら立ち上がらないようになるか工夫を凝らしました。

その結果、天井から頭上の位置に刀を吊るすことを思いついたのです。


うっかり立ち上がると刀が頭に刺さるので怖くて立ち上がれなくなるからです。


それほどまでして彼は勉強に打ち込んでいたのです。


2025年8月21日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈3〉ナイトボーイの愉楽(6)

                      

adobe stock


                                                         

 6


 その夜、二時から六時までの二班に分かれての仮眠時間に、道夫と小山は前半二時間のA班に当たっていた。二人はクロークの奥の控え室に行くと、少し汗臭い毛布と枕を取り出し、それを抱えていつも仮眠場所と決めているティラウンジの奥のソファーに向かって歩いて行った。

 

「ねえ浜田さん。さっきのあれ、いくらありました?」 すっかり灯が消された暗いロビーを並んで歩いている時、小山がふいにたずねた。

 「ああそうそう、お前あの後すぐ客に呼ばれて客室の方へ行っただろう。それで渡せなかったけど、二千円あったよ、二千円」 


本当は三千円入っていたのだが、小山は後輩だし、それにニューリバーホテルに当の外人がいるのを探したのは自分なのだから、彼へはそれでいいのだと、さっきから勝手に決めていた。


 「へえー、二千円も。よかったですねえ浜田さん。とんだ臨時収入が入って」

 「うん。でもなおれ、今日チップ少なかったろう。だから半分はそれに上乗せしなけれなならないんだ。そうすると残りは五百円だけだよ」 相手を甘く見てか、道夫はまたいいかげんなことを言った。


 「そうでしょうねえ、浜田さん今日は十一時からがエレベーターで、その後の十二時からはラウンジ当番だったし、チップを稼ぐ暇は無かったですよね」

 小山は何の疑いも持たず屈託なく答えた。この男、本当に気のいい奴なのだ。


 二人は階段を上がり、一階のロビーよりももっと暗いラウンジの中を、何かにぶつからないようにと、手さぐりで注意深く進んで行き、一番奥の長いソファーが二つ並べてある所までくると、抱えていた毛布と枕をその上に荒っぽく放り投げた。

 小山に約束の千円を渡した後で道夫が言った。

 

「なあ小山、俺たちいつもこんな所に毛布を広げて眠っているけど、何かお客さんに悪いような気がしないか? 昼間だと、ここにはいろんなお客さんが座ってお茶を飲んでいるというそんな場所で、ほらっ、お前が今、毛布を広げようとしているそのソファーだっって、ついこの前、映画の記者会見の時、女優のYHさんが座っていた所だよ」


 「そう言われてみればそうですねえ。お客さんは知らないこととは言え、あまりいいことではないですねえ。でも僕は先輩の真似をしているだけだし、それに森下リーダーもこのことに関しては、あまりうるさく言いませんからねえ」


「そう言えばそうだなあ森下リーダー。ひょっとして仮眠時間に自分だけ客室を使えることで皆に気を使っているのかなあ。それであの汗臭い仮眠室へ行け、とは言わないのかなあ。


でもまあいいや、夏にはあの仮眠室も改築されてきれいになるそうだから、お客さんには悪いけれど、それまではここを使わせてもうらおうよ」 道夫はそう言いながらソファーの上にゴロッと仰向けになり、ソバガラの枕に頭をつけた。


小山が何か言うかと思って黙っていると、聞こえてきたのは「スヤスヤ」という心地よさそうな寝息だけだった。 こいつまったく寝つきがいいんだから。


そうは思ったものの、道夫もをすぐにそれに加わり、広いラウンジの隅で二人はスースーと寝息の二重奏をかなでていた。


それから十日間ぐらい道夫は一度も遅刻をしなかった。 昼間通っている英語学校を三時に終えると、以前だとそれから少し盛り場をうろついて、六時か七時に下宿に帰っていた。でも三回目の遅刻をしたその次の日からプッツリとそれをやめ、四時には神崎川の下宿に着いていた。それから近くの銭湯のいき、五時になるともう蒲団の中に入っていた。その後、出勤の八時半までが道夫にとっての本格的な睡眠の時間なのである。 


職場での仮眠時間を併せると五時間半の睡眠時間であり、平均的には少し短いかに見えたが、昼間の英語学校での居眠りを入れるとけっこう足りていて、別段寝不足だとも思えなかった。もっとも遅刻が続いていた頃は、トータルでこれが二時間ほど少なく、その為に、つい寝過ごしてしまっていたのだ。


四月も終りの土曜日のその夜、道夫はなぜか出勤前からウキウキしていた。

いつものように梅田でバスを降りると、週に何度か行くガード下のうどん屋へ入り、好物のテンプラうどんを頼んだ。ホテルで夜食が出るので、出勤前の腹ごしらえとしてはこれでじゅうぶんだ。 


熱いうどんの汁をすすりながら、昨夜エレベーターの中でマッサージ師の十一番さんと話したことを思い出していた。


十二時にその日最後のエレベーター当番について十五分位たった時だった。

十二階まで二人の客を送って、下に下りている時、九階で乗り込んできたのが十一番さんだった。


彼女にはあの後も三〜四回会っていた。でもいずれの時も、ただ顔を会わせるだけで、口もきいていなかった。と言うのも、このところ道夫のエレベーター当番は客の出入りの多い早い時間帯ばかりで、彼女がエレベーターに乗り込んできた時はすべて他の客が同乗しており、個人的な話をする機会がなかったのだ。


ただこの数回、お互いにきっちり目をを合わせて微笑みながら別れたせいか、口はきかずとも以前に比べるとずっと親密感は増している。と道夫には思えた。


「あら今晩は。この時間当番だったの?」 久しぶりに聞く十一番さんのハスキーな声だった。 


「はい。今日は最終に当たったもんですから。お仕事はもう終りですか?」

やや胸の高まるのを感じながら、彼女にチラッと目をやってから聞いた。


「いいえまだなの。あと一回残ってるのよ。これからフロントへ下りて、終わった時間をノートに記入して、次は十一階へ行くの。今度のお客さんは外人さん。大変だわ。体が大きいので力が要って」 


そう言ってニコッと微笑んだ十一番さんの目尻にできた細いしわに、なんとも言えない中年女性の魅力を感じながら道夫はうっとりとしてその顔を眺めていた。


「あの、今度は何時に終わるのですか? よかったらその時間に十一階まで迎えにいきますけど」 「あらほんと、嬉しいわそうしていただけると。十二時半からだから、終わるのは一時十五分よ。エレベーターに乗るのは一時二十分ぐらいかしら」


「じゃあ僕、二~三分前に行ってエレベーターを止めて待っています。その頃だともう客の出入りはほとんどありませんから」

「でもあなた、その時間は当番じゃないんでしょう?」

「ええ、一時以後当番はいません。エレベーターを呼ぶブザーが鳴ったとき、手の空いた者が上がってくるのです。どうせ誰かが来るのですから一緒ですよ」


道夫としては久しぶりに巡ってきた十一番さんとの会話の機会を一階に下りるわずか数十秒間で終わらせたくなかったのだ。


「昼間はいつもなにしてるの?」 十一番さんがそう聞いたとき、エレベーターは一階に着いてドアが開いた。 「またすぐに上がるんでしょう。そのとき話します」

道夫のその返事に十一番さんはまたニコッと微笑んで「ええ」とだけ言ってフロントの方へ歩いていった。


それから二〜三分ほどして十一番さんはまたエレベーターの前に戻ってきた。 でも今度は運悪く玄関の方から一人の客がこちらへ向かってきているのが目に入った。

仕方なくその客を待って乗せたため、この時は何も話ができなかった。



つづく


次回8月21日(木)


2025年8月14日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈3〉ナイトボーイの愉楽(5)

                      

adobe stock

        

「ナイトボーイの愉楽」 どんなお話?


舞台はまだチンチン電車やトロリーバスが 

走っていて、今 比べて高層ビルがうんと

      少なくいくばくかののど残って          いた昭和37年頃の大阪

20歳になったばかりの浜田道夫は中之島

のGホテルでナイトボーイとして働き始め

 

昼間は英語学校に通っていて、出勤するの

は夜9時からだが、人とはあべこべの生活

スタイルになかなか慣れず、最 の頃は遅

       刻を繰り返しておりいつもリーダーの森       下さ んに叱られバツとして300ぐら         いある客室へ新聞配  ばかりやらされて         腐っていたそんな道夫にこの上なく

 がときめく出来事が巡ってきたホテル

へ通ってくるセシーな美マッサージ

師の11番さんに声をかけられ のだ 

「お歳いくつ?、昼間は何しているの?」 と。  

               

5

 深夜一時にもなると、さすがに人の出入りも少なく、さっきまでの喧騒が嘘みたいに広いロビーから次第に人影が絶えていき、時おり鳴るエレベーターのドアが開く時のチンという音がやけにはっきりと耳に響いてくる。


 この時間だともうチェックインもなく、仕事が一段落したボーイたちはロビーの隅の小さなカウンターデスクの周りに集まってしきりに雑談を交わしていた。

 話題といえば、今夜自分たちが携わったチェックインのこと。宿泊中の芸能人のこと。明日仕事が終わってからの遊びの予定などというたわいのないものが多かった。


 そんな会話の中で、さっきからロビーの隅のほうを見つめていた後輩の小山君が道夫の肩ををたたいて突然言った。

 「ねえ浜田さん。あの隅のソファーに座っている女の人がいるでしょう。あの人一人でああして一時間以上も座っているんですよ。誰かを待っているのですかねえ」

 小山のその言葉に道夫も視線をそちらの方へ向けてみた。


 少し距離があり、おまけに窓向きにすわっていたため顔は見えなかったが、ソファーの背から少し出た黄色い服の肩口と少し長めの髪を見て、その女性を今夜一度見たことがあると思った。 「ああ、あの人ねえ。どこかで見たことがあるなあ。ああそうだ。さっきラウンジで紅茶を注文した女の人だ。確か十一時半位だったかなあ」

 「へー、じゃあもう二時間以上ここへいるんですねえ。見たところ宿泊客のようでもないし、ちょっと気になりますねえ」 「そうだなあ、そろそろロビーも消灯だし、小山君、行って確かめてきたらどうだ」 「ええいいですけど。でも一人じゃどうも」 

 「いいよ。じゃあ一緒に行ってみようか」


 好奇心も手伝って、道夫は二つ返事でOKすると小山君とともにそちらの方へ歩いて行った。その女性の前までやってきた時、小山君が妙にモジモジしているので、道夫の方が切り出した。 


「あのう、失礼ですがこのロビーそろそろ消灯なのですけど、どなたかをお待ちなのですか?」 


女はゆっくり顔を上げて二人を見た。間違いなくさっきティラウンジに来た人だ。あのときは横に立って注文を聞いたので気がつかなかったけれど、今こうして正面から見ると、化粧こそ少し厚めだが切れ長の目をしたなかなかの美人である。

 歳のころなら三十前後であろうか。 


 その女は少し考えた後で今度は道夫の方だけ見て言った。

 「消灯って、ここ電気が消えるちゃうの?」 

「ええそうなんです。一時半になると」

 道夫はチラッと腕時計を見ながら答えた。


 「あらそうなの。困ったわ、どうしようかしら。私ねえ、十二時にここである人と会うことにしていたの。十一時半頃に来て、ずっと待ってるんだけど、いまだにその人現れないのよ。少し遅れるかもしれないけど必ず行くからと言ってたので、こうして待ってるの。でももう 十一時をまわったんでしょう。いったいどうしたのかしら」 女は面長の整った顔を少し曇らせて答えた。


女のところへやって来る前の道夫と小山は、この女のことを「多分、外人相手の夜の女だろう」などと話していた。でもこうして近くで見てみると、女にはどことなく清楚な感じが漂っており、決してそうだとばかりは言い切れなかった。


 「その人、このホテルへ泊るって言っていましたか?」

 「ええ。今夜から三日間その予定だと」 「失礼ですがその方のお名前は?」

 道夫がポケットのメモ帳を探りながらたずねた」

 「ロイ、ヘンダーソン。アメリカ人よ」 「ロイ、ヘンダーソンですね。ヘンダーソンのスペルは?」

 「ええっと、H、E、N、D、E、R、S、O、N 確かそうよ」


 道夫はすばやくそれを書き取るとメモを小山に渡しながら言った。

 「小山君、フロントへ行って宿泊客と今日到着予定の予約客を調べてきてくれないか」

 「はい分かりました」 小山はメモ帳を持ってすぐフロントのほうへ歩いていった。

 「それでその方、今日アメリカから到着するのですか?」

 「いいえ、日本には四日前に来ていて、今日は東京からなの」

 「東京ですか。でも東京からだと列車にしても、飛行機にしても最終便はとっくに着いていますしねえ」 「そうねえ。おかしいわ」


 「あのう、ひょっとして他のホテルとお間違えじゃないのですか?」

 ふと道夫は前にもこんなことがあったな、と思い出しながら、そうたずねてみた。

 「いいえ、確かにこのホテルよ。場所も中島だと言ってたし」

 「でも中島にはもう一軒ホテルがありますよ。ニューリバーホテルってのが」

 「いいえ、確かにここだと言ってたはずだわ」 女はいったん腰を浮かせてソファーに座り直してから言った。


 小山はすぐ戻ってきた。 「浜田さん、ありませんよこの名前、宿泊客にも予約客の残りにも」 小山がそう言ってメモを返そうとしたが、それは受け取らず、「そうかやっぱりな、ちょっと待ってって」とだけ言って、道夫はサービスカウンターの方へ戻っていった。


 カウンターの前に来て、電話の受話器を取ると、ニューリバーホテルの番号を回して、出てきた人にロイ・ヘンダーソンという人の宿泊の有無をたずねた。


 しばらく待たされた後で受話器から 「その方のルームナンバーは八二九号です」とういう答えが返ってきた。 


やっぱりそうだったか、この前のケースとまったく同じだ。もっともあの時は男の人だったけど。道夫は自分の推理が当たったことをいささか満足に思いながら、また二人の所へ戻っていった。


 「やっぱりホテルをお間違えでしたよ。そのヘンダ―ソンという方、ニューリバーホテルへお泊りだそうです」 女はそれを聞いたとき、「えっ」とだけ言って、しばらくはキョトンとしていた。


 「よくあるんですよこういうこと。ここがニューシティホテルであちらがニューリバーホテルでしょう。最初のニューの字が同じなもんで、つい勘違いされる方が」


 道夫のその言葉に、女は少し恥ずかしそうな表情を浮かべながら口を開いた。

 「どうしよう私、恥ずかしいわ、ホテルを間違えたなんて。私の不注意からお二人にはすっかりご迷惑をかけてしまって、ごめんなさいね、なにかお詫びしなくちゃあ」


 そう言うと、前のテーブルに置いてあったハンドバッグに手を伸ばすと、それをソファーとテーブルの間に隠すようにしてなにやら中をまさぐっていた。

 「これ少ないんですけど、お二人でお茶でも飲んでください」 女はティッシュペーパーの小さな包を道夫に向かって差し出した。


 「いいんですよそんなこと。我々は当たり前のことをしただけですから」

 一応、礼儀にしたがってそう言ったものの、女が少しも手を引っ込めようとしないのを見て、「そうですか。それではお言葉に甘えて」と、今度はさっと手を出してそれを掴んだ。


 「おい小山君。車、車、玄関にこの方のタクシーの手配を」

 「はい浜田さん。今すぐに」


 渡された思わぬ報酬にすっかり気を良くしたのか、小山はすごくいい返事をして玄関の方へすっ飛んでいった。 道夫もせめてもの感謝の意をと、女をタクシーの所まで案内していった。


つづく


次回 8月21日(木)