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そうでなくても都市ホテルの土曜日は閑なのに、深夜一時を過ぎるとなると、ロビーはもう人っこ一人いなくなる。いつもより一時間早くリーダーの森下さんもサブリーダーの杉山さんも、それに他の五人のボーイたちも仮眠についていた。
この日は一年先輩の下津さん、この四月に入ったばかりの十八歳の関口君、それに道夫の三人が四時からの仮眠B班に当たっていた。これから四時までに三人がすることと言えば、まず一時から始める一時間おきの館内巡回。
この日道夫は二時からの二回目の当番に当たっていた。それに三時過ぎに始める明朝の新聞配達用リストの作成。リストといっても、それはルームナンバーを書いた用紙に外人客だけをピックアップして丸印を入れるだけの単純な作業で、十五分もあれば終わる簡単な仕事なのだ。
あとは出入りするマッサージ師と、時折ある遅い帰館の客のためにエレベーターを運転することだけである。
時計が一時をさした頃から道夫はなんとなくそわそわしてきた。
あと二十分もしたら、またあの十一番さんに会える。それに対する期待感が道夫を落ち着かせなくさせていたのだ。 できたらあの人と一度外で会いたいなあ。二人で喫茶店に行ってお茶を飲み、そのあと映画に行く。それから・・・・。
道夫はそんなことを想像して徐々に期待をふくらませながら、数分おきに壁にかかった時計に目をやっていた。
時計がやっと一時十五分をさしたとき、新人の関口君に向かって言った。
「関口君、僕ちょっと上に行ってくるよ。十二階のお客さんにこの時間に部屋へ来るように言われているんだ。エレベーターは少しの間、上に止めておくけど十分くらいで戻ってくるからよろしくな」
相手がまだあまり事情の分からない関口君でよかった。これが先輩の下津さんあたりだと、「上へ行くたったお前いったい何しに行くんだ?」などと、ねほりはほり聞かれるところだ。
「はい分かりました。もし客が帰ってきたらもう一台のほう運転します」
関口君は素直さ丸出しで道夫にそう答えた。
十一番さんに伝えたとおり、約束の三分前にエレベーターを十二階に止めて、フロアに下りると、すぐ前に置いてあるベンチに座って待っていた。
シーンと静まり返った長いフロアの奥のほうでパタンとドアが閉まる音がして、その後かすかだが、こちらへ向かって人が歩いてくる足音が聞こえてきた。
十一番さんだな。今仕事が終わったんだ。 道夫は立ち上がってフロアの角から覗いてみようかと思ったが、かろうじてその衝動を抑えると、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。二回煙を吐き出して、三回目のそれを口にやったとき、静寂の中から女の声が響いた。
「あら、やっぱり来てくれたのね。わざわざごめんなさいね」
さっきより一段とやさしい十一番さんの声が心地よく道夫を耳に入ってきた。
「時間通りですね。これでやっとお仕事終りですか? お疲れでしょう。ここへちょっとかけませんか?」 道夫はいったん立ち上がると、手のひらでベンチをさしながら言った。
「いいんですか、エレベーター止めたままで」 十一番さんが道夫のすぐ前まできてから聞いた。「ええいいんです。今日は土曜日でしょう、お客さん少ないですし、それに他の者にも用事があってここで十分位エレベーター止めると言ってますし」
「あらそうなの。じゃあ、お言葉に甘えてちょっとだけ」
道夫が再び腰をおろしたすぐその横に、形が良く、いかにも肉感的な十一番さんの丸いヒップがゆっくり下ろされた。
「ねえお昼間なにしているの?」 座るや否や、彼女はさっきと同じ質問を道夫に向けた。
「ああ昼間ですか、ええっと、八時半にここを出るでしょう。それから梅田まで戻って、いきつけの喫茶店へ行き、そこに九時半頃までいて、十時に桜橋の英語学校へ行き、そこで三時まで勉強して、四時に神崎川の下宿へ帰って寝る。まあざっとこんなところです」 道夫は日常生活をありのまま羅列して答えた。
「そう、お昼前英語学校へ行っているの。それとこの夜のお仕事なのね。大変でしょう。きつくない?」 「平気ですよ。僕、健康には自身あるし、ここでの仮眠を入れると一日五時間は睡眠を取っていますし、それに英語学校での居眠りも入れると普通の人とそう変わらないですよ」
「あらあら、英語学校での居眠りだなんて、大丈夫なの、お勉強の方」
「平気ですよ。コックリ、コックリしながらも肝心なところはちゃんと聞いていますし、ほらよく言うでしょう。眠りかけのとき、人間の記憶力は冴えているって」
道夫は誰に聞いたことかも分からない、そんなことを言いながら彼女をふり向いてはにかみながらもニコッと笑った。
「ねえ、一度私の家に遊びにいらっしゃいよ」
その時はまだ少しも予期していなかった十一番さんの言葉だった。
とっさのことで返事につまり、道夫はかろうじて 「は、はい」としか答えられなかった。
「わたしねえ、中崎街のマンションに住んでいるの。梅田からだと歩いて来られるわ。どう、来週あたり?」 「えっ、ええ。いいですけど」 今度もあまりまともな返事はできなかった。
「住所と電話番号書いておくわ。ねえ、来週火曜日はどうかしら。その日、わたしお仕事やすみなの」 彼女はバッグからすばやくメモ用紙を取り出すと、細いきれいな字をそれに書き記した。
「四時半はどうかしら、夕食ご一緒しましょうよ」 メモを貰ってポケットに入れたあとも、まだ道夫には事実がよく飲み込めず、少し上ずった声で 「ええ、その日は僕も休みですから」と、偶然の一致を不思議に思いながら、それだけ答えた。
あわよくば一度外でお茶と映画でも一緒したいな。 ついさっきまではそれくらいの期待感に胸を膨らませていたのに、それが一気に彼女の住まいに誘われてしまうとは、こんな嬉しい誤算ってあるだろうか。
「よかったわ。話が決まったようね。じゃあそろそろ下に下りましょうか」
十一番さんはさも何もなかったかのように、サバサバした調子でそう言うと、ゆっくりとベンチ腰を上げた。
「はい。すぐエレベーター動かします」 道夫はそう言って、まだ実感がつかめないまま、彼女にしたがって腰を上げた。
一階について、ドアが開く直前に彼女が言った。 「じゃあ火曜日の四時、お待ちしています。近くまできたら電話してね。おやすみなさい」
そう言って玄関の方へ去っていく十一番さんの後ろ姿を道夫はただポカンと見つめていた。
つづく
次回 9月4日(木)