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久夫には事態がよくわからなかった。 いったいどういうことだろうか?これって。
だいいちあの人が誰だったかまだ思い出せていない。それなのに持ち金のほとんどを渡して一度に六万円分もの馬券を買わされるとは、まったくどうなってるんだろうか?
その後しばらくの間、久夫はまるでキツネにでも化かされたかのように、ぽかんとした表情でその場に立ちつくしていた。
「あと一分で発売窓口を締め切ります」場内アナウンスのその声で、久夫はやっと我に帰り、わたされた馬券をしげしげと見つめた。〈1―8〉四万円、〈7―8〉二万円の合計六万円。馬券にはそうプリントされていた。
うーん、でもこれあたるのかなあ。少しだけ平静さを取り戻していちばん近くにあるオッズを映し出しているテレビモニターの画面を見た。〈1―8〉十二.六倍。〈7―8〉三十八.六倍というオッズが映し出されていた。
すると、〈1―8〉が入れば五十万円ちょっと、〈7―8〉だと三千八百六十かける二百で、ええっと七十万円以上にもなる。当たればすごい。
発走時間があと一分後に迫っていることもあったせいか、男のことがまだ気にはなっていたが、気持ちはぐっと次のレースへと傾斜した。
久夫は手にしていた馬券をズボンのポケットに奥深くしまい込むと、あたふたと観覧席の方へ急いだ。
さっきいた位置まで戻ってきて、座ろうと思えばまだ少し席は空いていたが、今度ばかりはゆっくり腰かける気にはなれず、階段の端の通路に立ち、今か今かと出走の合図を待っていた。
場内スピーカーをとおして威勢のいいファンファーレが鳴り、ついに第四レースはスタートした。「ウォー」という歓声とともに座っていた観客が一斉に立ち上がった。スタート地点は第一コーナーの手前で、馬群はスタートしてすぐにカーブにかかり、しばらくはどの馬が先頭なのかよくわからなかった。
白とピンクと橙だ。とにかくそれが来ればいい。
馬群が向こう側の長い直線にかかったところで、目を凝らして騎手の帽子の色を見た。
一番手が黄色、二番手は白、その後を並ぶようにピンクと橙色が走っている。オッ、四番以内に三頭全部が入っている! 脳裏をサッと厚い札束がかすめた。馬群はそのままの順位で第三コーナーをまわり、まもなく第四コーナーにかかろうとしていた。さっきから一番手を走っている黄色の馬の勢いがやや鈍り、二番手の白との差が一馬身ほどに詰まっている。
「その調子。黄色後退しろ後退しろ。白、ピンク、橙ガンバレ!」
久夫は興奮で息が詰まりそうになりながら、胸の中で必死に叫んでいた。
第四コーナーにかかり直線に入るちょっと手前で、黄色の馬がずるずる後退して、あっと言うまに四位になった。
やった。来たぞ来たぞ。ピンク、白、橙が。
ゴールまで直線二百メートルのところでピンクの騎手がビシッと鞭を入れると馬は一気にスピードをあげ、あっという間に二位の白に三馬身ほども差をつけた。よし、これでピンクの一着はだいじょうぶだ。あとは後続の二頭のうち、どちらかが二着になってくれればいい。
久夫はそう思って、はりさけんばかりに胸をふくらませながら、直線に入った馬群を凝視していた。
先頭のピンクがさらに飛ばして差を広げたので、もうその方には目を向けず、ひたすら白と橙ばかりに視線を送っていた。二位の白と三位の橙の差は半馬身。でも二頭とも直線に入ってからはなにかヨタヨタしていて、もうひとつスピードにのれていない。久夫がそう思っていたときだった。
第四コーナーをまわった時は確か五~六番手だったはずの黒の馬が直線一気に差を詰めてきて、あっというまに黄色を抜き去り、残り百メートルのところでは三位の橙にも、もう一馬身と迫っていた。おまけに前二頭に比べて足どりがしっかりしていて、スピードもだんだん増してきているようだった。
「危ない。黒に抜かされる!白、橙ガンバってそのまま逃げ切れ」久夫は胸の中でそう叫び、拳をギュッと握りしめ、食い入るように三頭の馬を見つめていた。それでもあと百メートルくらいのところまでは順位はかわらなかった。
ゴールまであとわずか五十メートルというところで黒の騎手がビシッ、ビシッと激しく鞭をいれた。出た出た。黒の馬が出た!そしてついに橙と並んだ。「あぶない!」久夫がわれを忘れて大きな声で叫んだとき、三頭の馬はほどんど並ぶようにしてゴールへなだれこんだ。
ゴール寸前で橙色はわずかだが黒にかわされた。でも白はどうだろう?内枠と外枠で、かなり位置が離れていたので定かではないけれど、なんとか頭差くらいで二着に残っていたのではないだろうか?
「2―8や、2―8や」久夫に大きなダメージを与えるそんな声があたりのあちこちから叫ばれた。「なにっ、2―8だと、そんなばかなこと! だったらこの六万円の馬券はモクズと消えるではないか」とつぶやいて、あたりのそんな声を必死で否定しようとした。
「1―8や、1―8や。白が鼻差で残っていた」すぐ近くでさっきとは別のそんな声がした。とっさにその方をふり向いて声の主に上ずった声で聞いた。「そうですねえ。シロの馬たしかに残りましたねえ」「残った、残った。1―8にまちがいない」野球帽をかぶった初老の男のその自信に満ちた言葉を聞いて、久夫はすっかり有頂天になり、足が地につかない気持ちだった。
でも不安な気持ちもまだ半分くらいあった。
レース後のどよめきが少しおさまって、上の方からぞろぞろと下りてくる観客の波にもまれて久夫も階段を下りていき、とにかく払い戻し窓口の方へ行こうと思っていた時だった。
「第四レースの結果をお知らせします」と、場内アナウンスが流れて、あたりがシーンとした。久夫はこのまま息が止まるのではと思うほど、期待と不安が交錯した気持ちで放送に聞き入った。
「連勝複式。2と8の組。二千百四十円」
それは恐ろしいほど冷酷な響きをもって久夫の耳に飛び込んできた。