2010年6月29日火曜日

いくつかの「なじめない言葉」


1 「是々非々
以前から不思議に思っているのだが、政治家は何故この言葉をよく使うのだろうか。これを耳にしたのはほとんどがテレビなどでの政治家の発言の際だったように思うのだが。
第一この言葉、辞書でも調べなければ意味がよくわからない。それに聞いたときの響きも良いとは言えず、言葉としてのセンスも感じられない。したがってこれを使った人に対しては、新たにマイナス評価を加えることにしている。

2 「温度差」
 この言葉は政治家に限らずテレビの司会者などもよく口にしているが、なんとなく意味が不明瞭で響きもよくない。
従来は単に気象上の気温(温度)の差について使うのが普通だったはずなのだが、今ではやたらと多用されていて、場合によっては使う人のセンスを疑うときもある。
例えば「A氏とB氏の日本経済の今後についての意見にはかなりの温度差がある」という発言があったとする。この場合、結論は差があるということを言いたいだけで、他になにか意味があるだろうか。いや決してないはずで、まわりでよく使われるので、単に気取って真似してるだけである。第一これを英語に訳した場合、この温度差という表現がどのように訳されるのか、はたして発言者は考えてみたことはあるのだろうか。
 
3 「鳥肌が立つ(鳥肌もの)」
 テレビのバラエティ番組などで芸能人がよく使っている言葉である。
日常生活で人が「鳥肌が立つ」というような場面に遭遇することはそうやたらとないはずである。従ってこの言葉を使用することも滅多にないことであろう。
しかしテレビでは違っていて、ちょっと驚いただけのことに対してもすぐ「思わず鳥肌が立ってきた」とか「これは鳥肌ものですね」というふうに実に気軽に使われていて、聞いていやな感じになり、逆にこちらが鳥肌が立つような気持になる。

4 「~にやさしい」
エコブームに乗じてか、実によく使われている言葉で、まるで「猫も杓子も」という感すらする。
やれ「車にやさしい」とか「地球にやさしい」だとか
「環境にやさしい」など、まさに百花繚乱である。
でもこの「やさしい」という言葉は、例えば「あの方ははやさしい人ですね」とか「やさしいお医者さんだったわ」というふうに、人に対しての形容詞にするのが最もふさわしいと思うのだが。

5 「そうなんだ(そうなんや)」
 これはいわゆる「あいづち」のことばであるが、いまどきの若い女性が一時の「うっそ!」にかわって、やたらと口にしている言葉でもある。
そもそもあいづちとは相手が言ったことに対する反応を示すものであるから、相手のセリフ次第で色々な応え方があるはずである。
 でも今の若い女性の応答は圧倒的にこの「ああそうなんだ(や)」なのである。
 まあ一種の流行には違いなかろうが、別の角度から考えてみれば、こうした言葉を使う今時の女性は感情表現が乏しいとも言えるのではないだろうか。
 正しい「あいづち」とは、相手のセリフに反応して、
「えっ、そうなの」とか「それ、おもしろいわねえ」
だとか「へえ、初めて聞いたわ。そんな話」とういうふうにいろいろと感情を入れて表現したいものだ。
余談だが、この「そうなんだ(や)」を男性が使うと、
聞いてて特に気持が悪い。

2010年6月28日月曜日

傑作ジョーク2題


その1 「あの世もあまくはない
        
閻魔さまが罪人に向かって言いました。
「これから三種類の刑について実際の場面を見せながら説明するので、終わったらお前が希望する刑を一つ言いなさい。 まず一つ目は『火あぶり』で、こんな刑だ」
そう言って閻魔さまはその場面をスクリーンに映して見せました。見ると、モウモウと燃え上がる炎のなかで「アツイ!アツイ、焼け死にそうだ!たすけてくれ!」と叫びながら男がもがき苦しんでいます。これを見た罪人は「これは駄目だ。これではひとたまりもないだろう」と思いその刑は断ることにしました。
次は二番目の『水攻めの刑』です。そのシーンを見てみると、すでに部屋の80%ぐらいまで水がたまっていて、男が天井近くでアップアップと今にも水に沈んでしまいそうな状態で苦しんでいます。
「これも駄目だ。溺れ死ぬのは時間の問題だ」と思って、この刑も見送ることにしました。
そして3番目の刑です。
「最後は『せっちん詰めの刑』だ」と閻魔さまは言いました。
スクリーンには腰の位置ぐらいまで溜まった肥ツボの中で、男がしゃがんでキセルタバコを吸っている姿が映っていました。
それを見て罪人は思いました。「うーん、臭そうだけど、これだと前の二つの刑のようにもがき苦しんで死ぬこともないだろう」
そう思って「よし、これにしよう」と決めたときでした。突然その刑の番人が戻ってきて大声で言いました
「ヨーシ、休憩時間は終わったぞ。さあもぐった、もぐった」

その2 「漱石の言い訳」

 夏目漱石が大学で講師として教壇に立っていたときのことです。
 ある日の授業中、中ほどの列に座っていた一人の学生がたもとに左腕を突っ込んだまま講義を聞いています。
 それを見た漱石はマナーが悪いと思って注意しました。
 「キミキミ、マナーが悪いよ。授業を受けるときはちゃんとたもとから手を出して聞きなさい」
 するとそれを聞いていた別の生徒が漱石に言いました。
 「先生、彼は事故で左手を失っているのです」
それを聞いた漱石は、苦しそうにこう答えました。
「うーん、そうだったのか。私だって授業のためにない知恵を出しているものだからつい・・・」
                  以上 作者不詳

2010年6月27日日曜日

「呼び込み」新時代

 つい一昔前までだと「呼び込み」と聞けば、夜の巷でキャバレーやピンクサロンなど、いわゆる風俗関係の店先に立って男性客を誘う黒っぽい服を着た「お兄さん」の姿を連想したものだ。

もちろん今でもそうした人たちを目にすることはあるのだが、概してこの「呼び込み」と呼ばれる世界の状況は、このところ一変したと言ってもいいのではないだろうか。

 このごろ繁華街を歩いていると、この「呼び込み」の世界に新たに参入してきたと思しき若い女性の姿を、昼夜を問わずよく目にするようになってきた。

 つい先日も駅前商店街の一角で自分の背丈より高いプラカードを支えながら大声で店の宣伝をする20歳そこそこと見うけられる女性の姿を目にしたばかりだ。
 
その女性、声が大きいのはもちろんだが、抑揚がよく利いていて、しゃべりかたも非常に上手で、歩きながら聞いていた当方を思わず「この人只者ではないな。若い女性の身でたいしたものだ」と思わせたぐらいなのである。

こうした若い女性たちによる「呼び込み」の姿は、何も商店街の一角に限らず、居酒屋などが集まった飲み屋街の真ん中でも、ランチを売り物にした日中のイタリア料理店の前でも、あるいは女性フ

ァッション関係の店ばかりが連なる夕刻のショッピングアーケードの中でも、というふうに時と場所を問わず、あらゆる場面で目にするようになってきたのである。

これらの人たちを注意深く観察してみると、どうやら2種類に分かれているように思われる。

つまり、その一つは技術を叩き込まれたいわゆる「プロの呼び込み屋さん」で、それだけを職務とする人たち、そしてもう一つは「普通の店員さん」で、従来はなかった「店先でのお客さんの呼び込み」という職務を新たに付け加えられた人たち。という分類にである。

 従って、世の中の「普通のお店」が、こうした呼び込み方式を取り入れていくのが一般的な傾向なのだとすると、いわゆる「プロの呼び込み」は別として、募集広告を見て「普通の店員」として応募する人たちとしても、従来のように店の中で、ただお客さんを待っているだけでなく、今ではこういった「呼び込み」ということも、職務の一つに入っているのだという「意識改革」をしておく必要があるのではなかろうか。
 
 

2010年6月26日土曜日

女性専用車両の是非


 電車を利用するの男性にとって、時として割り切れない思いを残すのが、間違えて乗り込んだ「女性専用車両」からあわてて他の車両に乗り換えるときである。

そういうとき、私などは決まってこう呟いている。

「くそっ、誰がこんなこと決めたんだ。込み合うラッシュ時に限って・・・、だいいち女性専用車だけ空いていて不公平じゃないか」
 
そもそもこんな変なシステムがあるのは、これまでのところ日本だけだったらしく、最近になって僅かに東南アジアの一部の国が真似して、これをを取り入れたそうではあるが。(こんなこと別に真似しなくてもいいと思うのだが)。 

でも性差別意識に敏感な欧米でこんなことをしたら人権問題で大変なことになるという。
 
だが、日本人としてもこの規則に黙って従っているだけではないようだ。
 
ネットには「女性専用車両に反対する会」というユニークなサイトがあって、そこには「女性専用車両非協力乗車会」という「専用車」への乗車記録が載っており、その記事での駅員や車掌と乗車した
この会の会員とのやりとりは非常におもしろい。
 
そこでのやりとりを見るかぎり、どうも「その会」の方に分がありそうで、規則を決めた当事者側の答弁はいかにも苦しそうだ。
 
そもそもこんな規則、当の女性でも、意識の高い人だと反対の側に立つと思うのだが。
 
そうした女性は、おおっぴらにこのシステムに反対しないとしても、多分「女性専用車両」にはあえて乗り込もうとしないのではないだろうか。
 
余談だが、もしこれが電車以外の他の乗り物だとどうだろう?(これから先はいずれもジョークなのだが)
 
飛行機だとすると、女性専用機はおしゃべりがやかましすぎて、そばを飛んでいる鳥が迷惑するんじゃないだろうか。

また女性専用BUSだと「ブス専用バス」と勘違いされて誰も乗らないとか・・・・

まあそんな訳で「女性専用車両」なんてものはろくなもんじゃないと日頃から思っているのだが。

2010年6月25日金曜日

ホテルペンシルベニア

 マンハッタン七番街33丁目に客室数2000余の室数を誇るニューヨークでも有数のマンモスホテルの一つ、ホテルペンシルベニアがある。

かの有名なエンパイヤステートビルから遠くなく、すぐ前にはスポーツの殿堂として名高いマジソンスクウェア―ガーデンがあり、立地が良くてわかりやすい場所に建っている。

別に目的はなかったのだが、なにげなしに海外旅行のウェブサイトをサーフィンしていると、ニューヨークの欄で偶然にこのホテルの写真を目にして、懐かしさもあって、ついブログに書いてみることにした。

忘れもしない、あれは日本経済の高度急成長が終焉に近づいていた1970年に世紀の大イベントとして大阪で開催された万国博と同じ年の、今から40年前のことである。
 
当時私は万博を見越してオープンしたばかりの大阪のある大手ホテルに勤めていた。

その頃の私はホテルという職場が成長期の真っ只中にあったせいか、ホテルマンとして星雲の志に燃えており、博覧会が終わったばかりのその年10月に、意を決して修行のためにニューヨークへと旅立ったのである。

そしてエキスチェンジビジター(職場交換留学生)として1年間の任務についた先が、このホテルであったのである。
 
もっともその当時は現在とは名前が違い、スタットラーヒルトンホテルといって、米国ホテル界の雄、かのヒルトンホテルチェーンの一つであった。
 
しかし、その名前を長くとどめることなく、その後経営者が2度かわり、現在のホテルペンシルベニアに落ち着いたのである。

この「ペンシルベニア」と言う名前、単にアメリカの一つの州名にはちがいないが、ヒルトンのようにステイタスを強調する訳でもないのに、なんとなく格調があり、それなりの高級感も漂わせている非常に良い名前である。
 
その後事情があって、志し半ばでホテルマンを中途挫折した私ではあるが、名前こそかわったとは言え、若き日修行を積ませてもらったこの歴史ある異国のホテルに、今後の末永い発展を祈って、心からエールを送りたい。

2010年6月24日木曜日

ネット利用時間数と読書量の意外な関係

いま素直な気持で考えてみて、現在のように、まるで洪水のごとく、怒涛の勢いで押寄せてくる膨大な量のインターネット情報を前にして

果たして人々がそれをしっかりと受け止めて有効利用へと結びつけていくことは可能なのであろうか。

いや決してそうはゆくまい。

むしろ、多くの場合、その勢いに足元をすくわれて自分を見失い、いたずらにオタオタして冷静さを失って、その結果、貴重な情報の有効利用など、もはやおぼつかなくなってしまっているのが多くのシチュエーションでの現実の姿なのではないだろうか。

そんな情報過多で、精神的に余裕のない状況下にあって、人々はネット以外のもう一つの大きな情報源である「読書」ということに対して、十分に考えを巡らすことが果たしてできるのであろうか。

別の言い方をすれば、人々はこれから先、ネットと読書の二大情報源を偏りなく上手に、かつ有効に使いこなしていくことができるのかということである。

この問題に対してこれまでの調査では、その多くにおいて参加したほとんどの回答者が疑問を投げかけている。

つまり、60%をまわる大多数の人々が、インターネットの利用が増大するにしたがって、読書量は減少すると答えているのである。

受け入れる人間側のキャパシティを考えれば、人情としてほとんどの人がこの考えに同意できるのに違いない。

しかしである。毎日新聞社が2008年、この問題について大がかりな調査を実施したところ、以外にも従来の大方の考えに反する結果が出たのである。

その調査によれば、ある一定時間数までのインターネット利用は読書量を減らすことがあるが、それから先は利用時間が増えるにしたがって、読書量はむしろ増えていくという調査データを示しているのである。

ここでは、その理由については述べてないが、察するところ、「ネットと読書の相関関係による知識欲のシナジー効果(相乗効果)」のせいではないだろうか。

だとすると、インターネット利用時間の多い人ほど、それに比例して読書量(時間)も多いというになるのである。

なるほど!理屈を考えてみれば、こうした考えもそれなりに納得できるのではないかと思うのだが・・・。

2010年6月23日水曜日

読書を「趣味」と言っていいのだろうか?


 以前営利組織を運営していた時期があったが、その当時の社員採用面接でのことである。

 ある30代の男性応募者を前にして、履歴書の趣味欄に目を通しながら「読書が趣味とありますが、最近どんな本をお読みになりましたか?」とたずねてみた。

すると男性が聞き返した。

「最近って、どれくらい前までですか?」

 その返事をやや妙に思いながら、「まあこの2~3ヶ月、あるいは半年以内でもいいですが」と答えると、「いや、この半年ぐらいは何も読んでないですね、1年ぐらい前ですと少し読みましたけど」と応募者は別に当惑した様子もなく、シャーシャーと答えた。

 その返事には、こちらとしてもいささか驚かされたが、彼のその答えは、その後読書について考える際の、一つの良いヒントになった。

 つまり、読書を趣味のジャンルに置くから、彼のように、やってもやらなくてもいい気楽なものとしてとらえ、それゆえ1年もの長い間放置できるのではあるまいか。

 そうではなく、もし読書を人々にとって「大事なこと」と考え、日頃から絶え間ない接触を重んじるなら、それは趣味としてではなく、むしろ「学習」あるいは「勉強」としてとらえるべきではないかと気づかされたのである。

 今の日本、膨大な量のインターネット情報は別にしても、魅力的な大型書店や公共図書館は比較的充実している。にもかかわらず、読書人口は一向に増えず、一人当たりの読書量はむしろ過去に比べて減少傾向にある。

しかも悪いことには、世界の国別読書量比較などのデータを眺めてみても、日本人の読書量は驚くほど低いのである。

でも、こうした傾向を決してインターネットの普及のせいにしてはいけない。

 もしインターネットのことを考えるなら、知識欲の相乗効果ということもあって、読書量はむしろ増えて当然なのであるから。

 こんな現状で、読書を趣味のジャンルに置いて、このままのうのうとしていることはできず、この際、これをはっきりと学習としてとらえ、今後徹底的に教育していかなければ、読書人口、読書量ともに増えることなく、国民の知力向上も期待できない。

 したがって、履歴書の趣味欄にはもちろんのこと、他のどんな公の場面においても、「趣味は読書」などと宣言することは控えて、個人においても、これを学習としてしっかり捉え、ひたすらその技術の練磨に努めるべきではないだろうか。
  
 余談だが、図書館で読書する人々はすごく真剣で、その姿から「読書は趣味」という言葉は、とうてい思い浮かばない。