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まさか!とは思ったが、やはりゴール前で白の馬は激しく差し込んできた黒の馬に抜かれていたのだ。アナウンスを聞いて、そのまま三歩ほど歩いたところで、体の力が見る見る抜けてくるのがはっきりわかった。そして立っているのもいやだという気になり、近くのベンチにへなへなと座り込んだ。
そんなばかな。さっきの人だって、白が鼻差で残っていた、と言ってたではないか。
久夫にはまだ結果が信じられなかった。そして「先ほどの放送は間違いでした」と、まさかあるはずもない場内放送が聞こえてくるのでは、などとばかげたことを力なく考えていた。
その場にどれくらい座っていただろうか。次に耳にしたのは、「第六レースの結果をお知らせします」というアナウンスであった。
レースとレースの間は三十分だから、第四レースが終わってからその場所に一時間以上もポカンと座りつくしていたのだ。その一時間余、第四レースでもう少しのところで取れた大金を逃した悔しさと、六万円もの馬券を一度に買わせた男のことが交互に頭にもたげて来ていた。
それにしてもあの男、いったい誰だったのだろう?六万円の馬券を買わせたのは好意からなのだろうか?確かにあの男が言ったように、五枠の黄色の馬は途中でズルズル後退して着外に敗れた。そしてトータルな結果にしても、一着のピンクの馬は別格としても、最後に黒の馬に抜かれた白と橙の馬を含めて、予想した馬のすべてが四着以内に入っており、実にいいとこをついてたではないか。
でも、もし黒に抜かれずに、あのまま〈7―8〉と入っていて大金をつかんでいたとすれば、いったいどうやってあの男を見つけ、どのようにお礼を言ったらよいのだろう?
少しだけ冷静さを取り戻して、久夫がそんなことを考えていたときだった。それまでのものと違って、今度は男の人によるアナウンスが聞こえてきた。
「場内の皆様にお知らせします。たちの悪いコーチ屋グループが場内に入り込んでいます。馬券売り場近くで知らない人に話し掛けられたときはじゅうぶんご注意ください」
一回目のときにはそれを聞き流した。でも二回目に同じアナウンスが流れてきたとき、〈コーチ屋〉と言う言葉が耳について離れなかった。
コーチ屋って、いったい何だろう?コーチと言えば人を指導すること。コーチ屋、つまり人を指導する商売か。そんなふうに考えていて、ハッと気がついた。馬券売り場窓口の近くでなれなれしく近づいてきたあの大柄なパンチパーマの男の姿が脳裏に浮かんできたのだ。
あれだ。あの男がコーチ屋だ。そうだ、自分はそれに引っ掛かったのだ。「やあ久しぶりですねえ」と近づいてきたときのあの懐かしそうな声。親しみに満ちたこぼれんばかりのあの笑顔。そうだ。あれは全部やつの芝居だったのだ。そうだ。きっとそれに違いない。どうりでいくら考えても思い出せなかったわけだ。
最初からあんな男知らなかったのに、人に他のことを考えさせて、その隙に自分のペースに乗せてしまう。しかも小道具に前のレースで取ったという部厚い札束?をちらつかせながら。
でも、レースの予想はいいとこついてたではないか。黄色の馬は足を故障していて駄目だと言った。そのとおり、あの馬は第四コーナー手前で大きく後退して着外になっている。馬については彼らもそれなりに研究しているのであろうか?
それにしても不思議なのは、買った馬券を全部渡してサッと去っていった。騙したとしても彼には何の報酬もないではないか。
そう考えていると、久夫は何がなんだかよくわからなくなってきた。
腹立たしさと悔しさはまだ残っていたが、さきほどに比べるといくらかは冷静さを取り戻してきていた。
そうだ。さっきアナウンスした男の人のところへ行って聞いてみよう。もし自分がそうだったのなら被害届を出した方がいいんだし。
ふとそう思うと、一時間以上も座っていたベンチをやっと立ち上がり、建物の奥の方へと歩いていった。時計はすでに午後二時をまわっており、次は第7レースが行われようとしていた時だった。
一階の通路の中ほどまで進んだところで、手にスピーカーを持って観客の整理に当たっていたガードマンにたずねてみた。
「あのう、この競馬場の事務室はどこでしょうか?」
「事務室って、何しにいかれるのですか?競馬開催中はなかなか入れてくれませんよ」久夫よりうんと若いガードマンが事務的な口調で言った。
「じつは僕、先ほど放送で聞いたコーチ屋っていうのに引っかかったようなんです。それでそのことを・・・」
「そうなんですか。それだったら警備室へ行ってください。この突当たりを左に曲がったところです」そのガードマンは事情を聞いてもまったく同情するそぶりは見せず、淡々とした口調で言って、手でその方向を示した。
教えられたとおり、一階の隅のほうにある警備室に行くと、入り口を入ってすぐの休憩室らしい場所で、五〜六人の若い警備員が所在無さげに椅子に座って休んでいた。
たぶん休憩時間なのだろう。皆ぐったりとした疲れた表情をしていた。そのうちの一人に向かって、「あのう、コーチ屋のことで」と久夫が切り出したとたん、一番奥に座っていた男が「あなたも引っ掛かったんですか?これで今日五人目」と、とんきょうな声を上げた。
その後、その男はジロリと久夫を見て、「こちらへどうぞ」と、突き当りのドアを開けて別の部屋を案内した。
つづく
次回12月25日(木)
