2026年1月22日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈5〉紳士と編集長(1)

                   

 

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小説『紳士と編集長』要約   by GEMINI

 ある日、主人公の青年「僕」は駅前のバス停で、初老の紳士から声をかけられる。紳士は、僕が読んでいた創刊号の雑誌『リベーラ』に強い関心を示し、上品な物腰でその内容を絶賛した。紳士の洗練された風貌に惹かれた僕は、バスを一台見送ってまで再会を待ち、二人は後日、喫茶店で言葉を交わすことになる。

 紳士は自らを弁護士の「木谷」と名乗り、甥がその雑誌の編集長を務めているのだと明かした。ロンドン留学の経験を語り、知的な話題で僕を魅了する木谷に、僕は深い信頼を寄せていく。しかし、交流を重ねるうちに、木谷の言動にわずかな綻びが見え始める。留学先を「ロンドン」と言ったかと思えば次は「パリ」だと言い張り、あんなに熱心だった雑誌の話題にも興味を失ったかのような素振りを見せる。そして三度目の夜、公園のベンチで木谷は突如として僕の手を握ろうとし、執拗に身体的な接触を求めてきた。その豹変ぶりに恐怖を感じた僕は、彼を振り切って逃げ出す。

 困惑する僕のもとに、後日、木谷の息子から電話が入る。そこで明かされた真実は、僕が抱いていた紳士像を根底から覆すものだった。木谷の本職は弁護士ではなく会計士であり、現在は重度の「躁鬱病」を患って通院中だというのだ。雑誌の編集長の甥という話も、留学の経験も、すべては病による「大言壮語」が生んだ空想に過ぎなかった。息子は、父が「躁」状態にあるため、これ以上の接触を控えてほしいと僕に懇願する。

 冬が訪れたある日、僕は公園で偶然木谷に再会する。かつての活気は消え、うつろな表情で大量の買い物を袋に詰める彼の姿は、辞書で調べた「躁鬱病」の症状そのものだった。僕はいたたまれなさを感じ、足早にその場を立ち去る。華やかな紳士の仮面の裏側にあった、病と孤独という残酷な現実を突きつけられた僕は、夜の冷たい風に吹かれながら、彼に対してやるせない同情を抱き、一人佇むのだった。



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その初老の紳士が話しかけてきたのは、僕が駅前バス停前の地下街入り口のコンクリートの囲いにもたれて、その月発刊されたばかりの雑誌の目次に目を通している時だった。


おおかたの月刊雑誌と同じサイズでA5版のその雑誌は、厚みこそ週刊誌並ではあったが、〈リベーラ〉という名前にどことなく知的な雰囲気を漂わせていて、目次を読む段階で僕はすっかり魅了されていた。


「あのすいませんが」

紳士はセリフこそ月並みであったが、すこぶるトーンのいい上品な声で僕にそう話しかけながらすぐ横に立っていた。


「はい。なんでしょうか」

クリーム色の薄手のスーツを粋に着こなしたその身なりのいい紳士にチラッと目をやって、わずかな警戒心を抱きながら、僕もまた月並みの返事をした。


「今お読みのその雑誌、今月発刊されたばかりのリベーラですね」

「ええそうですが、それがどうか」


警戒心は少ないものの、見ず知らずの人からの思わぬ質問に、やや当惑気味にそう答え、あらためてその紳士に視線を送った。


六十を少し超えているだろうか、頭髪はほば半分くらい白く染まっているが、黒とまだらになったその髪が妙に顔立ちとあっていて、それがこの人の風貌をより魅力的に見せていた。


「いかがですかその雑誌。おもしろいですか?」

さっきより少し表情をくずして紳士がまた聞いた。


「ええまあ。中身はこれからですが目次を読んだかぎりではなかなかおもしろそうですね。それにこの表紙とか装丁とかもこれまでのものにないユニークさもっていて」


何者かはわからなかったが、そこはかとなく上品さを漂わせているその紳士に、僕はもうすっかり警戒心を解いていて、思ったまま正直に感想を述べていた。


「そうですか。それを聞いてわたしも大変嬉しく思います。実はこの雑誌なんですが」紳士がそう言って次の言葉をつなごうとした時、目の前に僕の乗るバスがやってきた。彼はどうやらそのバスでないらしく、それに乗るんですかと、問うようなまなざしで

僕を見ていた。


「では僕はこのバスに」そう言いかけて、バスの方へ一歩踏み出してから思った。 

どうしよう、あの人まだ何か話したそうだし、このままこれに乗ってもいいものだろうか。バス一台遅らせて話を聞いてみようか。でも次のバスまで三十分もある。今日は少し疲れているし、さらに三十分も待つのキツイな、やっぱりこれに乗ろう。あの人にはまた会えるだろうし、話は次に機会に聞けばいいんだし。


そう結論を出して、今度は彼に向かって会釈しながらはっきり言った。

「あのう、僕このバスに乗りますから、いつもだいたいこんな時間にここから乗りますので、また次にお会いしたときに」


僕のその言葉に、彼は少し名残惜しそうな表情を見せたが笑顔はくずさず、「はい。じゃあその時に」と言って、ゆっくり頭を下げていた。


バスが発車して駅前を左折してからも、まだその紳士のことが気になっていた。


「実はこの雑誌なんですが」で途切れた、いや途切れさせてしまったあの言葉、いったい後にどういうことが続くのだったんだろうか?それにしても全身に漂わせいたあの上品な雰囲気、人口六十万のこの地方都市にだって、あの歳のあんな人はめったにいるもんではない。ああ言って別れたんだから、近いうちにまた会えるには違いないけど、こんな気持ちになるんだったら、例え三十分待つにしても次のバスにして、話の続きを聞けばよかったのかも。


そんな後悔めいたことを考えながら、ふと気がついて手にしたままのリベーラの表紙をまじまじと眺めていた。


その次の日、昨日とほぼ同じ時刻にバス停にやって来て、今度はスタンドで買ったスポーツ紙を読みながら立っていた。十分ほど待って昨日乗ったバスがやって来て、ぼく以外の数名を乗せて発車した。


そこへ行く前から、今日はたとえ一~二台やり過ごしてもあの人の話を心ゆくまで聞いてみよう。と決めていただけに、次のバスを待つことになんら苦痛めいたものは感じなかった。でもそれにも限度があった。そこでおおかた三十分ちかく立っていたのに、いっこうに昨日の初老の紳士が現れるけはいはなく、僕は少しソワソワしはじめていた。


昨日、別れ際に確かに言ったはずだ。「いつもだいたいこの時間にこのバスに乗りますから、お話は次にお会いしたときに」と、そして彼も「はい。じゃあその時に」と答えていた。


それを今日だと思うのはこちらの勝手なんだけど、でもまあいいか、もし今日会えなければまた明日ということもあるんだし。


そんなふうに考えながら、昨日は話の腰を折って、自分の方から先にバスに乗ってしまったというのに、一夜明けただけの今日は、その話の続きを聞くために、今度はあっさりバスをやり過ごしてまで、くるという何の保証もないのに彼のことを熱心に待っている。そんな自分が我ながら滑稽に思えてきて、思わずニタッと照れ笑いを浮かべると、それを読みかけのスポーツ紙に投げかけていた。


つづく


次回1月29日(木)