adobe stock
3
道夫はそんなたわいないことを考えながら、廊下よりいくぶん明るいエレベーターロビーまできて、壁に二つある三角のボタンのうち、下行きの方を押してから呟いた。
下津さんになんて言おう。お礼のひとことでも言ったほうがいいんだろうか。
上行きのエレベーターが一度通過して、十三階で止まってからすぐ下りてきた。
ドアが開き、下津がまたニタッと笑顔を見せたが、仕事を終えてロビーに下りていくマッサージ師の女性が同乗しており、その時は何も聞かなかった。
その夜一時までに計七回のチェックインをこなした。 中ほどであった新婚カップルに千円貰ったが、後はすべてしぶちんな外人シングル客ばかりで、七回目が終わったところでチップの合計は三千六百円で、最初、例のカップルから二千円貰ったわりにはその後の伸びがもうひとつだと、やや不満に思っていた。
一時半になり、客の待機時間が終り、九名のうち、三分の二の六人のボーイたちは「さあ仮眠時間だ」とそれぞれの寝場所へと散っていった。
この夜は道夫と下津、それに副リーダーの杉山が四時までのナイトワークの当番だった。
ロビーの消灯を終え、スイッチボックスのキーを返そうと、道夫がフロントオフィスのカウンターの中へ入りかけたとき、下津がつかつかと近寄ってきて、例のニタッとして笑みを浮かべながら聞いた。
「やあ浜田、あれからずっと聞けなかったけど、どうだった例のカップル?」
「ええまあまあ、おかげさまでなんとか下津さんが最低線だと言った二千円ありましたよ。もっとも下津さんのようにうまくは言えませんでしたけどね。どうも奥様というのがスムーズに出なくて」
「慣れだよ慣れ、これから意識してそうやればお前だってきっとうまくなるよ。でも二千円か、悪くないじゃないか。他の種類の客だとなかなかそうはいかないからな。どうだ、俺の言ったこともまんざらじゃなかったろう」
「そうですねえ。やはり下津さん、先輩だけのことはありますよ。さっきエレベーター遅れたとき僕にコーヒーおごると言っていましたけど、あれ帳消しにしてもいいですよ」
「いやあれはあれ、コーヒーはちゃんとおごるよ。そのかわりお前はビールおごれよ」
「あっ、こりゃあまいった。さすがは下津さん。しっかりしていますねえ」
「そりゃあそうだ。甘えはいかん。コーチ料はちゃんといただかないとな。それがプロだ」
下津はややキザなそんなセリフを吐くと、ついさっきまでニタッとしていた表情をすっかり引っ込めて、今度はキッと唇を結んだうってかわった毅然としたポーズをとっていた。
「ところで浜田、フロントの上村さんからメッセージ受けとったかい?」
「メッセージって、なんですかそれ?」
「そうか、まだだったのか。十二時半ごろだったかなあ。俳優の二宮さんがチェックインしたんだ。お前あの人のことをよく知ってるだろう。あの人がお前にと言って、上村さんに伝言を渡していたよ。俺、ちょうどカウンターの前にいて見ていたんだ」
「へえー、二宮さん来ていたんですか。知らなかったなあ。あの人が僕宛に伝言ですか?」
「そうだよ。不思議かい?」 「いえ、べつにそういう意味じゃないんですけど。そうですか、じゃあ僕さっそく上村さんのところへ行ってそれ貰ってきます」
道夫は下津にそう言うと、長いフロントカウンター端っこの狭い通路からフロントオフィスへと入っていった。
いつもならチェックイン客を待ち構えてカウンターに立っているフロント係だが、それも終わったこの時間になると、もうそうはしてはおらず内部の事務室に入って、その日の客室売上の集計にかかっているのだ。
フロントカウンターの真ん中あたりの少し奥まったところにある事務室の前まできて、ドアのガラス越しに中を覗くと、あんのじょう上村さんが長い集計用紙をにらみながら、せわしげに計算機をたたいていた。
「上村さん、お忙しいところすいません。下津さんに聞いたんですけど、僕宛のメッセージを・・・・」
「ああ浜田くんか、預かってるよ二宮さんから、顔見たら渡そうと思ってたんだ。
でもなんだねえ。二宮さんは君とずいぶん親しげだったけど、いったいどんな関係? おもしろいねえ、君のような若いもんが、あんな五十年配の人と」
上村さんは空いた椅子に無造作に引っかけてあったジャケットのポケットに手を突っ込みながら、そう言ってやや怪訝な表情で道夫を見た。
「ええ、そう言えばそうなんですけが、あの方、ちょうど僕のおやじぐらいの年齢で、最初来られたとき、チェックインに当たってから、これまでに三度くらいお話ししたんですけど、なんとなく馬が合って、この前はあの方が出演されていたたコマ劇場へ招待されたんです」
「ふーんそうか。キミ童顔でかわいらしい顔してるから、案外中年男性の好みのタイプかもしれないな」
上村さんはそう言って、なにか意味ありげな微笑を浮かべながら二つ折りの茶色の角封筒を道夫に渡した。
つづく
次回 2月19日(木)