2026年2月26日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈5〉下津さんの失敗・ナイトボーイの愉楽②(5)

 

                 

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 まったく遅いんだから。それにこのすえたような臭いはなんだ。今しがた残飯でも運んだのだろうか。 社員用エレベーターの中で道夫はブツブツつぶやきながら、ゆっくり変っていく文字盤をを見つめていた。そして6が消えて7がついた時ふと思った。


 ルームメイドの池上さんこのフロアの係りなんだ。彼女、昨日の朝、客から預かったランドリーを引き継ぐとき、優しい声でぼくに言ったんだ。


「毎日夜のお勤めは大変でしょう。眠たくありませんか?」と


これまで何度か顔をあわせているけど、口をきいたのは昨日が初めてで、ついドギマギして 「え、ええ。すこし眠たいですけど」とドモリながら答えてしまった。


衿のところがグリーンであとは真っ白の制服姿の池上さん、とてもステキだった。ショートカットの髪によくマッチしていて、すごく清楚な感じだった。


彼女確か去年高校を卒業して入社してきたはずだから、年齢はいま十九歳のはず、二歳違いか、ちょうどいいな。


あんな人を彼女にもてたらなんてすばらしいことだろう。一週間に二度ほど会って、お茶を飲んだり、映画を見たり、そしてたまには京都とか奈良へ遠出したりして・・・。

 

しばしそんな甘い空想にひたっていた道夫だが、またエレベーターがガタンと揺れてドアが開き、目の前に十一階のフロアの床がにぶく光っていた。


 そうだ。二宮さんの部屋へ行くところだったんだ。


道夫は我にかえり、そうつぶやくと彼女のことはひとまず胸の奥へと押し込んだ。


エレベーターを降りて、深閑としたメイド詰所を横切り、重たい鉄のドアを二つ押して、やっと客室フロアへ出た。 


「トイレへ行ってくる」といった手前、誰かに会ったらまずいと思い、左右を入念に確認してから歩き始めた。


ところどころにドアの下の隙間からこぼれるライトの明かり、微かに聞こえるラジオの音、百メートル近くある長いフロアで、道夫の目と耳に入ってきたものはそれ以外何もなかった。


やがて着いた1108号室の前に立ち、コンコンと二度ノックすると、「開いていますよ。どうぞ」と、普段と変わらない二宮の声が返ってきた。


 こんな時間に鍵をかけないでいるなんて無用心だな。チラッとそう思ってから 「浜田です。失礼します」と言ってから部屋の中へ入っていった。


 二宮はそのとき何か書きものでもしていたのか、部屋のコーナーにあるライティングデスクの前に座っており、薄いノートを閉じてからふり向いた。


 「わざわざ呼びたててすまなかったね浜田くん、いやロビーで渡してもよかったんだけど、あいにく二枚しかないもんで、他のボーイさんの手前もあって、ここで渡した方がいいと思ってね。


実はこれなんだよ。いまぼくが出演している芝居の券、特等席二枚。明後日の土曜日だけど、どう、来られるかな?」


 「芝居の券、特等席二枚。それを僕にくださるんですか?」


 ここへやって来るまでは、いったい何だろう、と考えてはいたものの、それが芝居の切符だとは想像もできず、そう言った後も、果たしてこれをいただいていいものかと、しばしの間考えていた。 


「そうだよ。前から思っていたんだけど、客の評判も定まった中日くらいがいいと思ってね。初日以来、連日大入りを続けていて、なかなかの人気で切符の入手も大変らしいよ。特に土曜、日曜は」 


「これコマ劇場なんですねえ。あの舞台がせり上がったり回転したりするという」


 「うんそうだ。いまでこそ僕も慣れたけど、最初の頃なんか回転のとき目がまわりそうになって、ちょっととまどったね。観客にはとてもおもしらい仕掛けだけどね」


 「へえー、すごいですねえ、舞台がくるくる回転するなんて、話には聞いていたんですけど、何しろ入場料があれではとうてい僕らの若ぞうの行けるところではないと思ってたんです。それでこれ何時からなんですか」 


その時はもう封筒を受け取っていて、その口の部分を丸くして、中を覗きながら道夫はたずねた。


 「昼の部だから一時からだよ。終わるのは四時三十分」


 「一時ですか。行けます。行けますとも、こんな機会なんかめったにないんですから」


 

その土曜日は、英語学校は昼前まで早退だと、もう決めてしまっており、二宮に向かって勢いよくそう答えた。


 「そうか、そりゃよかった。急なことで君がこられないと言うかと思って心配だったんだ。


この芝居ねえ、時代物だけど舞台装置もさることながら、原作、脚本、役者と三つの要素がぴったり合っていて、自分でいうのもなんだけど、すごくいい出来栄えで、君もきっと気に入ると思うよ。見た後でぜひ感想を聞かせてもらいたいな」


 「はい。そりゃあもう。なにしろ二宮さんが出演されているんですから、目をすえてしっかり見させていただきます」 


「そうかい。そう言ってもらって僕も招待しがいがあるよ。さて今日はもう遅いからこれで。また次の日にでも会ってコーヒーでも飲みましょう」


 二宮のその言葉で道夫は部屋を辞した。 時計はかれこれ一時半をさそうとしていた。


つづく


次回は3月5日(木)