2026年7月7日火曜日

小説のようなエッセイ ・シリーズ No.4

「私の部屋は2階だけど、はしごで上がればバレないから」と彼女は言った




初対面の若い女性社員は新聞を広げて見ていた


東京下北沢の、その頃勤めていた会社の幹部研修所で、営業所長のための実務研修を終了し、新人所長として私は初めて大阪福島区の事務所に出社した。


室内には6名の新人社員が待機していたが、目立ったのは20代中頃と思しき女性社員で、席に座って新聞を大きく広げて見ていた。確か朝日新聞だったと思う。


「ほう、珍しいな。今どきの若い女性が職場で新聞を読んでいるとは」と思ったが、立ち上がってお辞儀した女性は、知的でチャーミングな風貌をしていた。


会社は数年前に設立された図書販売会社で本社は東京新宿だったが、関西の拠点づくりを強化しており、その一環として設けられたのが大阪市の福島営業所であった。


その営業所長として、つい数か月前まで、一営業社員だった私に白羽の矢が当たり所長としての任につくことになったのだ。


私が新しい営業所の所長なら当然社員も全員が新人である。


全部で6名いたが、その中の唯一の女性が頭文字「EI」という25歳の彼女だったのだ。


私がこの会社を選んだのは


学窓を巣立って以来約20年間務めたホテルマンを訳あって辞め、図書販売という未知の業界に飛び込んできた私は既に30代半ばを過ぎ、あと数年も経てば40歳を迎える年齢になっていた。


再就職先にこの会社を選んだのは、本が好きだからというのも理由だが、それにも増して、社長が東大卒という点に惹かれたのだ。


それに歴史は浅いが、全国に営業所を展開しており、売上高も年商が200億円以上に達しており、先行き明るいと見込んだのだ。


彼女とは年齢は一回りほど違ったがなぜか気がよく合った

話し上手でお酒も強くアフターファイブの格好の相手になってくれた


彼女については、この会社へ入るまで、どのような経験を積んできたのかよく知らなかったが、すこぶる社交家で、話がとても上手で、人を引き付ける術をよく心得ていた。


特に男性の気を引くのがうまく、相手を「自分に気がある」と思わせる術を心得ていたようだ。


だから、たいていの男はなすべなく彼女に操られてしまい、彼女の思うままになってしまうのである。


私を自宅に誘うのに彼女が放った驚くべき大胆なセリフとは


ある日の仕事終わりに、彼女といつも行く居酒屋で過ごしたが、時間はアッと言う間にすぎ、帰宅時間が迫っていた。


でも二人とも未練が残り、そのままおとなしく帰る気持ちになれずにいた時、彼女が思いもよらないようなことを言ったのだ。


「ねえ所長、これから私の家へ来ませんか」 


それを聞いて私は耳を疑った。部下の女性が上司の男性を誘う、それも夜の夜中に、よりによって「私の家にきませんか」とは。


いったい何事なのか。世の中にこんなことがあるのか。


私は驚きを隠せないまま、彼女に訊いた。


「私の家に来ないかと言っても、家には両親や家族がいるでしょう」


すると、なんと大胆なことか、彼女はこう言い放ったのだ。


「大丈夫ですよ、私の部屋は2階で、はしごで上がればバレないから


これを聞いた私はどうしたかというと、たいていの心ある男だと、酒に酔った勢いのそんな女性の誘いには乗らないはずなのに、明日が土曜で休日ということもあってか、いとも簡単にそれに同調したのである。


後で考えたのだが、その頃の私の家庭生活は妻との不仲がピークに達しており(他人にはわからない深い事情があった)、荒れに荒れた悲惨な状態にあったからかもしれない。


彼女の自宅は阪急電車沿線のI駅から徒歩10分ほどの住宅地にあった。小さな門の奥に2階建て住宅があり、暗い中、目を凝らして見ると、敷地の隅の方の地面から2階に向けて「はしご」らしきものが立てかけてある。


でも、今夜誰か来ることを予想していたのだろうか。それとも訳あって、いつもそうしているのだろうか。不思議に思ったが、私は彼女に指示されるまま、静かにはしごを登って行ったのだ。


翌朝、父親の声に驚かされた


春先だったが、彼女の部屋にはまだコタツがあった。二人はその中で夜を過ごした。


翌朝のことだ。突然階下から「〇子、新聞代〇〇あるか?」という声と共に、階段を上がってくる大きな足音が聞こえた。


どうやら父親らしい。新聞の集金が来て小銭がなかったのだ。


私は驚きに驚いた。バレたら一巻の終わりだ。


で彼女はどう反応したかというと、私にジェスチャーで「コタツの中にもぐる」ように指示したのだ。


これまた大胆かつ素早い判断で、昨夜同様に私は舌を巻いてしまったのだ。


こうして、夜の彼女の自宅訪問は無事に終わったのだ。嘘のような話だが、本当のことである。


果たして翌朝部屋にやってきた父親は気づいていたかどうかは不明である。


いずれにしても勝負を決めたのは彼女の大胆さにあったと言っていいだろう。


そんな彼女は、その後半年ぐらいたって、家庭の事情ということで、会社を去っていった。


はなはだ型破りで、この上なく大胆だった彼女は、その後どのような人生を送っているのだろうか。幸せであってくれたらいいのだが。


終り