テレビでもおなじみの若手人気社会学者・古市憲寿のエントリーで、何かと話題を呼んだ今回の芥川賞でしたが、残念ながら当人の作品「平成くん、さようなら」は落選の憂き目を見る結果に終わってしまいました。
出版社としては、又吉直樹の「火花」に続いて二匹目のドジョウを狙っていたのかもしれませんが、今回はその思惑はかないませんでした。ではなぜ「平成くん、さようなら」はダメだったのでしょうか。以下は選考委員によるこの作品に対する選評です。
「平成くん、さようなら」 選考委員による選評(抜粋)
(出典)文芸春秋2019年3月号
山田詠美氏
死をこのような形で取り上げるのなら、もっと徹底的に軽々しく扱って欲しかった。そうしたら、そこから独自のリアルが顔を出したかもしれない。
でも、ここでは、父はカルト宗教に関わった犯罪者、母は自殺、本人は失明の危機という三重苦。で、安楽死願望?マジですか?
この作者は発表の翌朝、TVのワイドショーで、「純文学にはうじうじする主人公が多いけれど、自分の作品は自己否定だから駄目だった」というような落選の弁を述べていたが、これまたマジですか?
自己否定ではなく自己過信の間違いではないのか。そして、小説を腐らせるのは、まさにその自己過信なのだが・・・・・やれやれ・・・・・平成くんさようなら。
島田雅彦氏
「死にたい」といって、他者の同情や注目を集める「時代の寵児」の自分至上主義を突き放す批評やヒューモアが欠如しており、結果的に三人称で書かれた自分史ポルノの域を出ていない。
もちろん、誰にでも私小説を書いて、自己陶酔に浸る権利はあるが、そこに自虐が盛り込まれていたり、自分の常識が通じない他社存在があってこそ多くの共感が得られる。
それがあったのが又吉で、欠如していたのが古市である。
高樹のぶ子氏
客観的には恵まれている男がなぜ安楽死を希うか、に読者の興味は向かう。安易な理由(難病)でなく、死を望むほどの説得力ある苦悩が描かれていれば、それはそのまま現代社会への批評になっただろう。
蛇足ながら一般論として、メディアに流通している候補者のイメージは、周回遅れのスタートを強いる。なぜか。
年齢もキャリアも時には性別さえも捨象して公正に読もうとするとき、すでに在るイメージは邪魔になるからだ。
もちろん周回遅れのスタートが、見事トップでゴールすることもあります。
小川洋子氏
彼は「僕たち人間は、まだ少しも死を克服できてないんだね」と口にする。無邪気なほどに幼い死生観に取りつかれている平成くん魅力が、十分に伝わってこなかったのは、安楽死が合法化された日本社会の描き方に、否応なく読者を引きずり込むだけの力がなかったからであろう。
例えば、安楽葬を取材する場面.死に新たな方向から光を当てるほどの凄みが、どうしても感じられなかった。
吉田修一氏
書かれていることの隅から隅まで最新・最先端なのに、どこにも新しさを感じないという不思議な小説で、作家としてはナルシズムをもっとコントロールすべきだし、文学としては人間を描いて時代を浮かび上がらせるべきであって、時代のために人間を使うのは危険だと思う。
あと、安楽死や尊厳死というものは死にたい人のためではなく、死ねない人のためにあるのではないだろうか。
もちろん周回遅れのスタートが、見事トップでゴールすることもあります。
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