純文学とは「この作品のどこが面白いの?」と思わせる読み物?
こんなふうに思ったのは、アメリカの作家サリンジャーの「ナインストーリーズ」を読んだときです。
サリンジャーは超ベストセラー作品「ライ麦畑で捕まえて」で有名な米国の作家ですが、今回読んだ「ナインストーリーズ」はそれに次ぐ彼の代表作です。
実は「ライ麦畑で捕まえて」も随分前に一度読んだ記憶があるのですが、あまりにも前なので内容をすっかり忘れてしまっており、面白かったかどうかも不明なのです。
以前から家の書棚にある世界文学全集にサリンジャーの巻があり、それば前から気になっていて、意を決してその中に収録されている作品のひとつ「ナインストリーズ」を読んでみることにしました。
しかし読んでみて思ったのは、表題の「この作品のどこが面白いの?」というものだったのです。要はこの作品、アメリカの純文学なのでしょうか?
ブログに「純文学について」という名文があった!
たまたま目にしたブログに「純文学について」という記事があり、内容が優れており非常に感銘を受けましたので、ここでその抜粋をご紹介します。
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純文学とは何か
まず、とても端的な質問を与える。それは、純文学とは何か、ということである。その答えというか定義は多様であるが、1つの定義として、純文学は私小説である、というものがある。
するとさらに私小説とは何かということになるが、それは作者が直接に経験したことに基づき書いた小説ということになり、自叙伝的なものとか、日常のちょっとした経験したことをテーマに書いた小説ということになる。そういえば、私は若い頃から渡部昇一氏のファンであるが、渡部昇一氏は、私小説だと書くテーマが限られているので、次第に枯渇するのではないかと、私小説に対して批判的だった。それでつい私も、私小説的な小説を避けてきたところがあるが、ちょっと一方的だったかもしれないとこの歳になって反省している。自分の個人的な体験から壮大にテーマを描くというのは十分にありえるからである。
別の純文学の定義として、面白さよりも芸術性にフォーカスされた小説というものがある。そういえば大学時代にある知り合いが、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読んでみたが、何が面白いかさっぱり分からないといっていた。今の私なら、そういうならと読んでみたかもしれないが、当時は松本清張一辺倒で、純文学っぽいものは読む気がしなかった。ともかく、「ライ麦畑でつかまえて」が純文学なのかどうか知らないが、文学の芸術性というのは私は、ある程度の教養がないとその意味とか面白さが理解できないもの、と定義してみる。違うだろうか。そういう意味で、ノーベル文学賞をもらった大江健三郎なども私には芸術性が高い純文学と映る。なにしろ、読んでもさっぱり理解できなくて、途中で投げ出してしまう。そしてその背景に単なる荒唐無稽ではなく、何かの思想があるんだろうとは推察する。
出典:純文学について あやたろう 2013年12月22日
http://commutative.world.coocan.jp/blog3/2013/12/post-1126.html
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このブログで注目すべきは、サリンジャーの代表作「ライ麦畑で捕まえて」についての記述です。
この著者も私が同じ作者の作品「ナインストーリーズ」で抱いたと同じ感想を「ライ麦畑で捕まえて」で感じているのです。
要は、アメリカでも日本でも、純文学とは、何を言わんとするのか意味不明の「この作品のどこが面白いの?」と思わせる作品なのではないでしょうか。
「純文学 ⇔ 芥川賞 ⇔ 面白くない」
これは疑いようのない図式なのか?
これまで私のブログでは純文学のつまらなさについて何度も書いてきました。ターゲットに上がったのは、たいてい芥川賞受賞作品でした。それゆえに純文学について上のような図式のようなものを思いついたのです。
それでも飽きもせず読み続けるのは、発表のたびにメディアが大きく取り上げ、賛辞を送るからです。
いったいメディアは何ゆえにつまらない純文学作品の後押しを続けるのでしょうか。
●あわせて読んでいただきたい記事
マイブログ10周年・アクセス数400越え170記事のご紹介 ☆シリーズNo.1~No.9 全170記事一挙大公開
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