作家・井上ひさしが紹介する イギリスの秀逸な笑い話
雨に濡れたシェイクスピア 雨上がりの歩道を、洋傘を腕にひっかけた典型的な、一分の隙もないイギリス紳士やってくる。その上に字幕で「雨に濡れガシェイクスピア」という題名。紳士を演じているのはジョン・ウェルズである。 カメラの手前まできた紳士は、「おや?」となって足を止める。歩道すれすれに停めてある小型車の前輪のところに、紙幣が一枚、べったりと地面に貼りついて落ちているのに気づいたのだ。シェイクスピアの肖像が印刷されているところを見ると、20ポンド紙幣にちがいない。
紳士は、まず周囲をたしかめる。向かい側のコーヒー・パーラーが一軒あるだけの静かな住宅地、それに、ついさっきまで雨が降っていたせいもあって、人の気配はない。 そこで彼は、紳士としての体面を何とか保ちながら、洋傘の先を使って紙幣をたぐりよせようとする。りゅうとした形の紳士がお拾いさんよろしくお札をネコババしようとして悪戦苦闘する様子を、ジョン・ウェルズはみごとなパントマイムで表現する。 しかし雨で地面に貼りついている上に、紙幣の三分の一ぐらいが車の車輪に敷かれている。前輪がこのままである限り紙幣は拾えないと見極めた紳士は、ふと思いついて、向かい側のコーヒー・パーラーで車が動くのを待つことにする。 コーヒーパーラーは八分の入り。額を寄せてなにか語り合う恋人たち、チェス盤をはさんで黙考する中年男の二人組、読書に熱中する娘さん、ウォークマンで音楽を聴きながら体をゆすっている青年、わいわい言いながらアイスクリームを舐めている四人家族などで賑わっている。 紳士は窓際のテーブルに座って、ガラスの窓越しに車を見張りながら、エスプレッソを飲む。ここで画面が二重写しになり、エスプレッソの小さな茶碗が三つにふるえている。だいぶ時間が経過したのだ。 そのあいだに、掃除負のおじさんが車の近くまでやってきて、そのへんを掃いてみたり、おばあさんが二人、右と左からやってきて車の前でおしゃべりをしたりするので、そのたびに紳士は紙幣に気づかれるのではないかとハラハラする。 一番の危機は、ビーチボールが転がり出て、それを拾いに少女が現れたときだ。少女は車の前輪の間に半身を入れてボールを拾おうとするので、紳士は身をよじらんばかりにして気も揉む。 しかしそのことをお客はもちろん、テーブルを縫って歩くウェートレスにも、そしてカウンターの向こうの主人にも気づかれてはならない。再三の危機に気をもみながらも、ゼントルマンとして自然な態度を保とうと必死に苦心する紳士。この不調和な関係が、おかしい。最後に紳士は手を合わせて神に祈ったりもするが、祈りが天に通じたか、少女は紙幣に気づかずにボールを拾って立ち去る。 ホッとして思わず安堵の溜息をついたそのとき、車の持ち主が登場し、濡れた車体をひとわたり拭いてから(このときも紳士はもちろんハラハラする)運転台に乗り込み、ついに車を発進させる。 いまだ! 紳士は代金をテーブルに置いて立ち上がるが、なんとしたことか、コーヒー・パーラーのお客たちが、、そしてウェートレスや店主までがドッと出口めがけて殺到する。みんなもそれぞれひそかに雨に濡れたシェイクスピアを狙っていたのだ。 出遅れた紳士が啞然となったところで、このスケッチは終わる。 |
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