〈前回まで〉 三枝はしばらく言葉が出なかった。寝耳に水とはこのことなのか。塾長は言った。一ヶ月前のキャンプ場の食堂でわたしと浜岡さんが・・・。
信じられない。わたし達に関してこんな汚らわしい噂が本部で広がっているなんて。三枝は屈辱感と絶望感が全身に広がって次第に気力が萎えていくのを感じた。でも砂田塾長は私たちの無実を信じ、真相解明のために戦ってくれるに違いない。そうだ、負けてはいられないのだ。私たちこそ塾長の助けにならなければいけないのだ。そう思ったとき、三枝の脳裏にあの夜の光景がありありと浮かんできた。あの夜私と浜岡さんが、講師ミーティングに出す夜食のおにぎりを作っていたときだった。当番の巡回なのか、不意に本社管理社員の浅井と木島が食堂に入ってきた。そして浅井の方が「何だ、浜岡くんと南さんじゃないの。こんな薄暗いところで今ごろ何してるの?」と、何か意味ありげなニヤッとした目つきで私たちに言ったのだ。
そんなことを思い出した三枝はふと思った。《ひょっとして噂を流したのはあの二人かもしれない?》
4
翌朝文夫はずいぶん早く目覚めた。いや、目覚めたと言う表現は適切ではないかもしれない。何しろ前の晩の十二時に自宅に戻って、一時過ぎに床へついてからも一向に気は治まらず、眠ろうとすればするほど逆に目が冴えてきて、三枝が電話の最後に口に出した本部社員の浅井と木島の姿た絶えず瞼に浮かんできていた。
それでも時おり睡魔に襲われ浅い眠りに入るものの、それも三十分と続かず、この夜ほど打った寝返りの多かったことも過去の記憶になかった。
玄関のドアがガタガタと鳴り、急ぎ足で去っていく人の足音が聞こえた。
ああ、もう朝刊が配達される時間なのかと、薄明かりの中で枕もとの時計に目をやると五時五分前を指していた。
どうしよう、こんなに早く目覚めてしまって、女房も子どもたちもあと一時間半ぐらいしなければ起きてはこない。このまま六時半までこうしていようか。いや駄目だ。昨夜、いや今朝と言ったほうがいいのか、一時過ぎにベッドに入って、五時になるまでの四時間の間、ずっと悶々としていて、一向に深い眠りにはつけなかったではないか。これ以上床の中にいるのは苦痛のほかの何物でもない。起きよう。むしろその方が楽だ。
文夫はそう思って横で心地良さそうな寝息を立てている女房の里子に気づかれないようにそっとベッドを抜け出すとダイニングのテーブルのほうへ忍び足で歩いて行った。
外からゴミ収集車のものらしい音が微かに聴こえてきたが、やがてそれが遠ざかると、もう辺りからは物音一つ聴こえてこず、まだ近隣の誰一人として起きている気配はなかった。
さて、コーヒーでも飲もうか。一瞬そう思ったが自分で湯を沸かすのも面倒に思い、仕方なく新聞を取ってくると、たいして気の向かないまましばらくは所在なさげにそれに目を通していた。
それでも六時半近くになって、やっと我が家の他の三人が起きてきて、ようなくバタバタとした朝の活気を取り戻してきた。
さらに三十分たって、やっと目の前に並べられたいつもの目玉焼きとトースト、それに牛乳の朝食を済ますと、文夫は普段より二十分ぐらい早い七時半にはもう家を出ていた。
五分ほど歩いてバス停まで行き、やってきたバスに乗り、中を見渡すとそこにはいつもとは違った顔ぶれの乗客の姿があった。
十五分ほどで駅前に着き、そこから事務所までの十五分ほどの道のりを文夫は普段よりずっと速足で歩きながら、昨日から片時も頭を離れないあの噂の真相について考えていた。
とにかく早く浜岡君と連絡して、その後南さんから昨夜の続きを聞いて、本部の二人に当たってみて、真相を糾すのはその後だ。 その結果もしこれがいい加減なデマだったら、あの二人は只ではおかないぞ。 文夫はそう思ってグッと表情を引き締めると、それまでより更に歩を速めて花川町の事務所へと向かって行った。
そのせいもあって事務所のドアを開けたときは、普段の出勤時間より三十分ぐらいも早い九時少し前だった。
どうしよう。浜岡君には九時半以降に電話して欲しいと言ってあるし、それまでまだ三十分もある。待とうか? いや待てない。こちらから電話しよう。
そう決めると、文夫はすこし荒っぽく受話器を取ると浜岡宅のナンバーを一つづつ力を込めて押していった。昨夜と違って呼び出し音が七〜八回続いてからやっと『もしもし』と、少し眠たそうな男の声が聴こえてきた。浜岡康二の声だった。
二時に仕事を終えるとすると、帰って寝るのは三時半頃か、今が九時だし、六時間の睡眠時間か。それだと少し眠たいかな? いや、眠たいのはお互い様だ。こちらだって昨夜はろくに眠れはしなかったのだから。でもとにかく浜岡が電話に出てきたのだ。これで真相を糾すための質問が思い切りできるのだ。
文夫は作や三枝に電話したときの、聞きたいことをズバッと言えないまどろっこしさをこの際一気に浜岡にぶつけてみようと、グッと身を乗り出すようにして受話器に迫った。
「浜岡君、オハヨウ、砂田です。長かったよ昨夜は。お母さんから聞いてくれたとは思うけど、昨夜も君に電話したんだよ。あいにく君はアルバイトを始めたとかで、それ知らなかったものだから。まあそれはいいとして、実は君と南さんのことでずいぶんおかしな噂が本部社員の間に広まっていてね。そのことなんだ、用件というのは」
「はい塾長、そのことについては今朝八時ごろ南さんからの電話で知りました。でも内容については彼女はどうしても喋ろうとはせず、塾長から直接聞いて欲しいの一点張りで、ぼくとしては何のことだかさっぱり分からないんです。変な噂とはいったい何なんですか?」
浜岡はいつものボソボソとした調子で応えたが、心底不審がっているのが口調からよく伺えた。
「やはりそうなのか。南くんは君に電話したものの、噂の内容については言わなかったのか。そりゃあ言えないだろうなあんなこと、若い女性の口からは。いや君が昨夜いなかったもので、彼女に先に話したんだよ。嫁入り前の女性にあんなこと訊くのは冷や汗ものだったんだけど、とにかく核心についてだけは伝えたかったんだ。でも南さんと違って君は男だ。遠慮せずにズバッと言うから、そのつもりで聞いて欲しい」
文夫はそう前置きした後、事の詳細について、昨夜三枝に話した表現よりうんと露骨に,しかも念入りに浜岡に伝えた。なにしろ男同士、酒席などで時には猥談めいた話しも交わすこともあり、今度は三枝の時のような冷や汗はかかなかった。
「何ですか、いったいそれは? 本当にそんな噂が本部で広まっているんですか?」
普段のボソボソとした調子が一気に引っ込み、こんなふうにも喋れるのか、と文夫が驚くほど浜岡は毅然とした声で言った。
「認めたくないけど本当のことなんだ。大阪での打合せ会議の後で小谷社長から聞いたんだよ」
「それでそんな噂、小谷社長も信じているのですか?」
「ウーン、それはなんとも言えない。しかし社長は本部びいきだからな。君たちのこともよく知らないし、半分ぐらいは信じているかもしれないよ」
「よしてくださいよ、塾長。そんな非常識なこと誰がしますか。断っておきますけど、これでも彼女とはまだ清い交際を続けているんです。ましてや子どもたちを引率していったキャンプ場なんかで。いったい誰なんですか? そんなとんでもない噂を流して喜んでいる奴は」
温和な浜岡の声が次第に怒りを込めたものに変わっていくのが文夫にもよく分かった。
「うん、そのことなんだ。昨夜南くんがチラッといったんだけで、何か食堂で君たち二人が夜食を作っているとき、不意に本部社員の浅井くんと木島くんが入ってきたとかで」
「ああ、あの二人ですね。そうです、確かに入ってきました。オニギリを二十個作り終えて、打合せまでまだ少し時間があるからと、ぼくたちは食堂の隅にあるベンチに腰掛けて話していたんです。
そのときです。浅井さんと木島さんが入ってきたのは。ぼくたちは、熱いのとまぶしいのとで、厨房の電気といちばん隅の蛍光灯一本以外は全部消していたんです。そしたら浅井さんは入ってくるなり電気をパッパッと全部つけて、そして隅っこに座っていたぼくたちに気がついて、何か薄ら笑いを浮かべたような陰険な目つきで見ていました」
「そうか、それも南くんに聴いたのと同じだ。浅井と木島か、木島はさておき、どうもあの浅井という男はどうも虫が好かん、陰険で。ほら君も覚えているだろう。新幹線の指定席の切符のこと」
「ええ、覚えていますよ。キャンプの時の大阪までの切符、取れなかったと言って、ぼくと南さんの座席を別々の車輌に取ったこと、その後塾長が、『まだ一ヶ月も前なのにそんなはずはない』と言って、隣り合った席を取り直してくださった」
「そうだ、そのこと。それに彼については君が知らない別のことでもいわくがあるしね。とにかくそれはそうとして、南くんが十一時ごろ事務所へ来るんだ。できたら君にもそのとき同席して欲しいんだ。電話で二人と話して、ぼくにもだいたいの輪郭が見えてきたのだけど、二人に同席してもらってもう一度詳しく事実を確認したいんだよ」
「はい承知しました。ぼくと南さんの名誉の問題です。塾長、お願いです。徹底的に真相を追究してください」
「そうだな、君たちだけじゃない。責任者のぼくにとっても大切なことなんだ。なにしろ君たちはぼくの部下なんだから。とにかく十一時に待っているから」
つづく
次回 5月15日(木)