2025年5月17日土曜日

書評「九十歳 イキのいい毎日」 宇野千代  中公文庫

 

九十歳近くになっても毎日一万歩あるくのがすごい


九十歳近くになっても毎日一万歩あるくことを日課にしていたというからスゴイ。

だが外を歩くのは嫌いで、わが家の広いリビングを指を折って数えながら歩くというのがなんともユニーク。

とにかく書いていることが前向きで明るく、読んでいて楽しいだけでなく勇気が出てくる。

若い方はもちろん、高齢者の方々へ是非ともおすすめしたい一冊である。


・・・・・・・・・・・・

 

感想 レビュー (読書メーター)

 

hitokoto

 宇野千代「90歳、イキのいい毎日」、2023.3発行。暮しの中の私(83~90歳)、愉しい好きなことだけを(90~97歳)、私の文章作法、私の発明料理の4つの章立て。名文の数々:①生きていくことが上手な人は、何よりも快活な人である。生きていくことが上手な人で、それで陰気な人、というのを私は見たことがない ②健康に良いと言われることをすぐやってみる ③年を取ると欲望が整理され単純化される ④よい文章というものは、見ただけでさっと眼の中へはいるようなものである ⑤文章を書くコツは、さらりとした気持で書くこと

ナイス★25

 

懐かしい。本文内に「メリケン粉」メリケン粉ご存じでしょうか?今は小麦粉。が主流なので知らない方がいるかも。このメリケン粉もメークインの芋天ぷらを作る件で出てきたのですが、宇野千代=オリーブオイルで美肌のお婆ちゃん。ってイメージが、実は作家で着物のデザインをされてる方で、麻雀をこよなく愛し…。とイメージから軽く逸脱した「宇野千代」さんをこの1冊で知ることとなりました。文章を書くコツ・気持ちの良い文章…と続きますが、毎日机の前に座り書く。毎日が最大のポイントだと。「私はあなたが好き」この1言確かに伝わる。

ナイス★5

 

 

たっきー

宇野千代さんの明るさ、チャーミングさが伝わってきて、読んでいる間ずっと楽しかった。「生きていくことが上手な人は、何より快活な人」、「陽気は美徳、陰気は罪悪」、「私はしあわせ、昔もいまもこれからも」。


 ・・・・・・・・・・・


出版社内容情報

陽気は美徳、陰気は悪徳を信条に九十八歳の天寿を全うした小説家・宇野千代。毎日、机の前に座り、食事を作り、週に一日だけ大好きな麻雀に興じる。八十三歳から最晩年まで、前向きでイキのいい毎日を綴った随筆選集。「私の文章作法」「私の発明料理」も収録。

 

内容説明

陽気は美徳、陰気は悪徳を信条に九十八歳の天寿を全うした小説家・宇野千代。毎日、机の前に座り、食事を作り、週に一日だけ大好きな麻雀に興じる。八十三歳から最晩年まで、前向きでイキのいい毎日を綴った随筆選集。「私の文章作法」「私の発明料理」も収録。

 

目次

暮しの中の私(83歳~90歳)(暮しの中の私;私はいつでも忙しい ほか)
愉しい好きなことだけを(90歳~97歳)(よい天気;自慢の種がひとつ減った ほか)
私の文章作法(小説は誰にでも書ける;文章を書くコツ ほか)
私の発明料理

 

著者等紹介

宇野千代[ウノチヨ]
明治30年(1897)、山口県に生まれ岩国高等女学校卒業後、単身上京。自活のため、記者、筆耕、店員など職を転々とし、芥川龍之介はじめ多くの作家に出会い、文学の道へ。昭和32年(1957)『おはん』により女流文学者賞、野間文芸賞。47年、芸術院賞受賞。平成2年(1990)文化功労者に選ばれた。8年(1996)死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。


出典:紀伊国屋書店ウェブストアー


2025年5月15日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈2〉うわさ 台風 そして青空(5)

     

             
  〈前回まで〉H市で小中学生対象のフランチャイズ学習塾を運営している砂田文夫は、部下の男女二人に関して良からぬうわさが本部の社員間で流れていることを知り、真偽を質すため真相解明に乗り出した。まずは当事者の二人に事情を訊くことから始めようとターゲットになっている浜岡康次と南三枝に当たったが、予想通り二人とも強く否定した。その過程で南三枝が本部社員の二名、浅井と木島の名前を口に出した。キャンプ場の食堂で浜岡と二人で講師ミーティング用に夜食のおにぎりを作っているところへ巡回と称して二人がやってきたのだという。浅井と木島、砂田の脳裏に二人の名前が焼き付いた。木島はともかく、浅井という本部管理社員に対して強い疑念が沸いたのだ。

           5

 それから数時間後、あたふたとやって来た二人の話を午後一時までの二時間余りに渡って文夫は熱心に聞き入っていた。そして結論として言えることは、この二人が大阪の本部社員の間で広まっている、あのいかがわしい噂にあるようなことは断じて行っていないということだった。


 二人が帰った後も、文夫はデスクに座ったままずっと考えていた。事務員の沢井多恵がお茶を運んできて、「塾長、お食事は?」と聞くまで、昼食時間がもうとっくに過ぎていることにさえ気がつかなかった。たいした空腹感もなかったのだが、彼女の言葉に促されて、文夫はとりあえず外へ出て、事務所から三軒先の〈喫茶・幸〉へ足を向けた。時計はもう一時半を指していた。


 昼食時間を過ぎていたせいか、店内はガランとしていてウェイトレスが待ってましたとばかり「いらっしゃいませ」とすこぶる愛想のいい声を発しながら注文取りにやってきた。

 こんな時間の食事じゃ、重たい物にすると夜の酒がまずくなるな。そう思ってサンドイッチとコーヒーを注文した。旨いともまずいとも思わないそのサンドイッチを無表情でほうばりながら文夫はまた考えた。


 本部社員の浅井と木島か。あの二人が今回の噂を流した張本人たちなのか。木島はさておき、浅井ならやりそうなことだ。あの男はついこの前の八月の半ばまで本部のスーパーバイザーとして、この地区の担当者だったのだ。確か二年くらい前からだったろうか、月に一~二度こちらへやってきて、業務指導という形でいろいろこちらの講師たちと接触してきていた。彼のことに関しては浜岡くんや南くん、その他の講師たちもよくこぼしていた。

 特に南三枝にそれが多く、彼がやってきて帰っていくたびに訴えていた。


 「塾長、あの浅井さんていうひと、いったい何なんですか。来る度にわたしが担当している教室にやってきては、やれ時間効率が悪いたとか、やれ生徒の欠席が多いだとか、もう文句ばっかり言って。そのくせ、『じゃあどうすればいいのですか?』と反問すると、スーパーバイザーのクセに何ひとつ具体的な案を出さないのです。


それでいて『ねえ、仕事終わったらちょっと付き合わない、いい店があるんだ』とか言って、人を気安くに誘ったりして。もうこの一年間、そんなことばっかり。塾長、あの人何とかなりませんか。別の方と担当者を交代させるとかして。ついこの前なんかひどかったんですよ。最後のレッスンが終わる八時ごろ、またわたしの教室にやってきて、授業中なのにわたしを外に呼び出して『レッスンが終わるまで外で待ってるから』って言うんです。


 わたし『終わったら用事があるし、そんなことしてもらったら困ります』と応えたんです。

でも彼、ずうずうしくも待合室のソファで一時間近くも待っていて、終わるや否や『飲みに行こう』と誘うんです。でもわたし断りました。以前一度だけ彼に付き合って居酒屋へ行って懲りたんです。だって彼の話ったら、もう会社や上司の悪口ばっかり。あんな話ばかり聞かされて、何がおもしろいのですか。おまけに酔ってくるとイヤラシイことも平気で言うんです。そのときも居酒屋を出た後で、彼が『もっと付き合え』としつこく誘うので、わたしはっきり言ったんです。


 「わたし、あなたとは金輪際お付き合いする気はありません。スーパーバイザーと言う仕事にかこつけて、必要もないのにわたしの教室にやってくるのは止してください』と。

 その言葉を聞いて、彼はすごく怒ったみたいで『そうか分かった。後で後悔するなよ』と、何か捨てゼリフのような言葉を吐いて去っていったんです。塾長、わたしはもうあの人に会うのがイヤです。


 二ヶ月前に三枝はそう文夫に訴えていたのだ。 

 すると今回のことは三枝に対する浅井の復讐なのだろうか? 最後の一切れのサンドイッチを口に押し込み、冷えかけたコーヒーをすすりながら、文夫はそんなことも考えていた。

                                 

 二時半に事務所へ戻ると沢井多恵から三件の電話があったことを伝えられた。でもどれもすぐに応答する必要のないものばかりだと思って、返事の電話はかけなかった。

 普段だとそうでもないのだが、さっきから頭にはずっと浅井のことがこびりついていて、その他のことはすべて些事に思えていたのだ。 


 四時から始める九人の教室責任者への電話連絡にはまだ時間があった。やらねばならない事務処理は山ほどあったのだが、それにも手をつけず、タバコに火をつけると、最初に深く吸い込むと、天上に向かってフウッと煙を吹き出しながら椅子の背にグッと背中をもたせかけ、しきり本部社員の浅井忠夫について思いを巡らせていた。


 浅井忠夫、年齢は今年三十一歳だったろうか。京都のK大の出身だと社長の小谷がいつか言っていた。 三年前にそれまで勤めていた印刷会社を辞めて、教育事業に関心があると言って、この真剣塾に新聞の求人広告を見て入ってきたのだとも聞いた。入社してから一年間は本部社員として傘下のフランチャイジーの指導に当たるスーパーバイザーとしての教育を施され、二年前から前任者に栗山に代わってこの地区の担当者になったのだ。


 仕事はまんざらできなくもないのだが、いつも物事を正面からでなく斜めから眺めているような、いわばシニカルとでも言おうか、何ごとに対しても妙に理屈っぽく、おまけに人に対しては好戦的な態度で臨むことが多く、相手にする者のことごとくになんらかの敵愾心を抱いて接するような男なのだ。その上女性講師には、自分のスーパーバイザーという役職を振りかざし、それを利用して相手につけこみ、不埒な行動をとろうとすることがしばしばある。


 南三枝に限らず、これまでそんな彼の行動を訴えてきた女性講師は何人もいたのだ。

 それに彼に関しては、忘れもしないあの出来事もあるではないか。

 あれはいつだったろう? そうだ、窓から見える歩道のイチョウの木が丸裸になり、時おり冷たい北風が吹いてきた頃の、この真剣塾の各教室に暖房の用意を整え終えた十一月の終わりの頃だった。 あと数日で師走に入るという十一月最後のあの土曜日、その月半ばに開校した、このH市の隣のT市の第二教室開設を祝して、塾長の文夫以下、講師十六名、それにこの地区担当の本部スーパーバイザーの浅井を含めた総勢十八名は駅前のシティホテルの宴会場でブッフェパーティを催したのであった。


 新規の教室を開設する度に、それまでも何らかの形でそうした催しは行ってきていたが、その時はちょうど生徒数が五百名を突破した時でもあり、その記念という意味も含めて、それまでになく盛り上がったパーティだった。

 でもせっかく盛り上がったそのパーティも、終わり近くになって男性講師の一部と本部社員の浅井のと間でちょっとした小競り合いが始まったせいで水を差されてしまったのだ。


 H市の地区がここまで伸びたのは、塾長以下、講師が一丸となって努力した賜だと講師たちが主張するのに対して、浅井は「それは違う。本部の知名度とたゆまない宣伝活動があったからこそ、いまにH市地区の繁栄があるのだ」と、暗に講師たちの努力を否定するかのような口振りであったのだ。


普段はおとなしい浜岡もこの議論に加わっていて、「浅井さん、それは違いますよ。浅井さんを含めて本部の力もある程度は認めます。でもそれは全体の一~二割程度で、大部分は我々の日常活動、つまり商店をまわっての軒先を借りたポスター貼り、それに週に一度はやった講師全員による早朝の校門前のビラ配り、こうした地道な活動に負っているんですよ。本部、本部とあまり言わないで下さい」


 彼にしては珍しいくらい興奮した面持ちで、そんなふうに言いながら浅井に詰め寄っていた。 そんな中で浅井はなおも反論を試みようとしていたが、何しろ多勢に無勢、思うように主張が通らず、くちおしさからか、その表情は次第に陰険なものに変わっていって、まだ催しの時間が三十分も残っているというのに、いきなり席を蹴って去っていってしまったのだ。

その夜の祝賀会はそんな後味の悪さを残して間もなく終わった。


つづく

次回 5月22日(木)

2025年5月10日土曜日

書評「ブラック企業戦記」角川新書

 



出版社内容情報

!注! これはすべて現実にあった話です。

〇勤務時間は24時間で残業時間は月に500時間超
〇定額残業代には要注意! 定額働かせホーダイへのあくなき野望
〇解雇理由を問う裁判官に「私は社長ですよ!」で
〇「今日があなたの定年退職日です」といきなり解雇
〇新しい業務は転職先探し
〇上司の交代でホワイト職場があっさりブラック化

法律知識は最強の自衛手段。今すぐ使える防衛法を弁護士集団が伝授!


 

内容説明

コンプライアンスの概念が浸透した現代社会にあってなお、ブラック企業はその間隙をぬって現れる!労働被害の撲滅に取り組む弁護士たちが出合ってきた想像の上をゆく驚きの事例を紹介し、解説も添付。ワークルールを知らないままに働くすべての社会人に贈る、自分の身を守るための必読の書。

 

目次

第一章 求人広告はウソだらけ
第二章 ハラスメントの暴風雨―セクハラ、パワハラ、マタハラ
第三章 地獄の長時間労働と残業代不払い
第四章 去る者許さず―退職妨害
第五章 そんな理由で解雇?不当解雇と退職強要
第六章 ブラック企業による「人災」労働災害の実態
付録 知っておきたい働く人のためのキーワード



出典:紀伊国屋書店ウェブストアー


2025年5月8日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈2〉うわさ 台風 そして青空(4)

 


 〈前回まで〉 三枝はしばらく言葉が出なかった。寝耳に水とはこのことなのか。塾長は言った。一ヶ月前のキャンプ場の食堂でわたしと浜岡さんが・・・。

 信じられない。わたし達に関してこんな汚らわしい噂が本部で広がっているなんて。三枝は屈辱感と絶望感が全身に広がって次第に気力が萎えていくのを感じた。でも砂田塾長は私たちの無実を信じ、真相解明のために戦ってくれるに違いない。そうだ、負けてはいられないのだ。私たちこそ塾長の助けにならなければいけないのだ。そう思ったとき、三枝の脳裏にあの夜の光景がありありと浮かんできた。あの夜私と浜岡さんが、講師ミーティングに出す夜食のおにぎりを作っていたときだった。当番の巡回なのか、不意に本社管理社員の浅井と木島が食堂に入ってきた。そして浅井の方が「何だ、浜岡くんと南さんじゃないの。こんな薄暗いところで今ごろ何してるの?」と、何か意味ありげなニヤッとした目つきで私たちに言ったのだ。

そんなことを思い出した三枝はふと思った。《ひょっとして噂を流したのはあの二人かもしれない?》



            4


 翌朝文夫はずいぶん早く目覚めた。いや、目覚めたと言う表現は適切ではないかもしれない。何しろ前の晩の十二時に自宅に戻って、一時過ぎに床へついてからも一向に気は治まらず、眠ろうとすればするほど逆に目が冴えてきて、三枝が電話の最後に口に出した本部社員の浅井と木島の姿た絶えず瞼に浮かんできていた。

 それでも時おり睡魔に襲われ浅い眠りに入るものの、それも三十分と続かず、この夜ほど打った寝返りの多かったことも過去の記憶になかった。


 玄関のドアがガタガタと鳴り、急ぎ足で去っていく人の足音が聞こえた。

 ああ、もう朝刊が配達される時間なのかと、薄明かりの中で枕もとの時計に目をやると五時五分前を指していた。


どうしよう、こんなに早く目覚めてしまって、女房も子どもたちもあと一時間半ぐらいしなければ起きてはこない。このまま六時半までこうしていようか。いや駄目だ。昨夜、いや今朝と言ったほうがいいのか、一時過ぎにベッドに入って、五時になるまでの四時間の間、ずっと悶々としていて、一向に深い眠りにはつけなかったではないか。これ以上床の中にいるのは苦痛のほかの何物でもない。起きよう。むしろその方が楽だ。

 

 文夫はそう思って横で心地良さそうな寝息を立てている女房の里子に気づかれないようにそっとベッドを抜け出すとダイニングのテーブルのほうへ忍び足で歩いて行った。


 外からゴミ収集車のものらしい音が微かに聴こえてきたが、やがてそれが遠ざかると、もう辺りからは物音一つ聴こえてこず、まだ近隣の誰一人として起きている気配はなかった。


 さて、コーヒーでも飲もうか。一瞬そう思ったが自分で湯を沸かすのも面倒に思い、仕方なく新聞を取ってくると、たいして気の向かないまましばらくは所在なさげにそれに目を通していた。

 それでも六時半近くになって、やっと我が家の他の三人が起きてきて、ようなくバタバタとした朝の活気を取り戻してきた。

 

 さらに三十分たって、やっと目の前に並べられたいつもの目玉焼きとトースト、それに牛乳の朝食を済ますと、文夫は普段より二十分ぐらい早い七時半にはもう家を出ていた。


 五分ほど歩いてバス停まで行き、やってきたバスに乗り、中を見渡すとそこにはいつもとは違った顔ぶれの乗客の姿があった。


 十五分ほどで駅前に着き、そこから事務所までの十五分ほどの道のりを文夫は普段よりずっと速足で歩きながら、昨日から片時も頭を離れないあの噂の真相について考えていた。


 とにかく早く浜岡君と連絡して、その後南さんから昨夜の続きを聞いて、本部の二人に当たってみて、真相を糾すのはその後だ。 その結果もしこれがいい加減なデマだったら、あの二人は只ではおかないぞ。 文夫はそう思ってグッと表情を引き締めると、それまでより更に歩を速めて花川町の事務所へと向かって行った。


 そのせいもあって事務所のドアを開けたときは、普段の出勤時間より三十分ぐらいも早い九時少し前だった。


 どうしよう。浜岡君には九時半以降に電話して欲しいと言ってあるし、それまでまだ三十分もある。待とうか? いや待てない。こちらから電話しよう。


 そう決めると、文夫はすこし荒っぽく受話器を取ると浜岡宅のナンバーを一つづつ力を込めて押していった。昨夜と違って呼び出し音が七〜八回続いてからやっと『もしもし』と、少し眠たそうな男の声が聴こえてきた。浜岡康二の声だった。

 

 二時に仕事を終えるとすると、帰って寝るのは三時半頃か、今が九時だし、六時間の睡眠時間か。それだと少し眠たいかな? いや、眠たいのはお互い様だ。こちらだって昨夜はろくに眠れはしなかったのだから。でもとにかく浜岡が電話に出てきたのだ。これで真相を糾すための質問が思い切りできるのだ。


 文夫は作や三枝に電話したときの、聞きたいことをズバッと言えないまどろっこしさをこの際一気に浜岡にぶつけてみようと、グッと身を乗り出すようにして受話器に迫った。


 「浜岡君、オハヨウ、砂田です。長かったよ昨夜は。お母さんから聞いてくれたとは思うけど、昨夜も君に電話したんだよ。あいにく君はアルバイトを始めたとかで、それ知らなかったものだから。まあそれはいいとして、実は君と南さんのことでずいぶんおかしな噂が本部社員の間に広まっていてね。そのことなんだ、用件というのは」


 「はい塾長、そのことについては今朝八時ごろ南さんからの電話で知りました。でも内容については彼女はどうしても喋ろうとはせず、塾長から直接聞いて欲しいの一点張りで、ぼくとしては何のことだかさっぱり分からないんです。変な噂とはいったい何なんですか?」


 浜岡はいつものボソボソとした調子で応えたが、心底不審がっているのが口調からよく伺えた。


 「やはりそうなのか。南くんは君に電話したものの、噂の内容については言わなかったのか。そりゃあ言えないだろうなあんなこと、若い女性の口からは。いや君が昨夜いなかったもので、彼女に先に話したんだよ。嫁入り前の女性にあんなこと訊くのは冷や汗ものだったんだけど、とにかく核心についてだけは伝えたかったんだ。でも南さんと違って君は男だ。遠慮せずにズバッと言うから、そのつもりで聞いて欲しい」


 文夫はそう前置きした後、事の詳細について、昨夜三枝に話した表現よりうんと露骨に,しかも念入りに浜岡に伝えた。なにしろ男同士、酒席などで時には猥談めいた話しも交わすこともあり、今度は三枝の時のような冷や汗はかかなかった。


 「何ですか、いったいそれは? 本当にそんな噂が本部で広まっているんですか?」

 普段のボソボソとした調子が一気に引っ込み、こんなふうにも喋れるのか、と文夫が驚くほど浜岡は毅然とした声で言った。


 「認めたくないけど本当のことなんだ。大阪での打合せ会議の後で小谷社長から聞いたんだよ」

 「それでそんな噂、小谷社長も信じているのですか?」

 「ウーン、それはなんとも言えない。しかし社長は本部びいきだからな。君たちのこともよく知らないし、半分ぐらいは信じているかもしれないよ」


 「よしてくださいよ、塾長。そんな非常識なこと誰がしますか。断っておきますけど、これでも彼女とはまだ清い交際を続けているんです。ましてや子どもたちを引率していったキャンプ場なんかで。いったい誰なんですか? そんなとんでもない噂を流して喜んでいる奴は」


 温和な浜岡の声が次第に怒りを込めたものに変わっていくのが文夫にもよく分かった。

 「うん、そのことなんだ。昨夜南くんがチラッといったんだけで、何か食堂で君たち二人が夜食を作っているとき、不意に本部社員の浅井くんと木島くんが入ってきたとかで」

 「ああ、あの二人ですね。そうです、確かに入ってきました。オニギリを二十個作り終えて、打合せまでまだ少し時間があるからと、ぼくたちは食堂の隅にあるベンチに腰掛けて話していたんです。


そのときです。浅井さんと木島さんが入ってきたのは。ぼくたちは、熱いのとまぶしいのとで、厨房の電気といちばん隅の蛍光灯一本以外は全部消していたんです。そしたら浅井さんは入ってくるなり電気をパッパッと全部つけて、そして隅っこに座っていたぼくたちに気がついて、何か薄ら笑いを浮かべたような陰険な目つきで見ていました」


「そうか、それも南くんに聴いたのと同じだ。浅井と木島か、木島はさておき、どうもあの浅井という男はどうも虫が好かん、陰険で。ほら君も覚えているだろう。新幹線の指定席の切符のこと」


 「ええ、覚えていますよ。キャンプの時の大阪までの切符、取れなかったと言って、ぼくと南さんの座席を別々の車輌に取ったこと、その後塾長が、『まだ一ヶ月も前なのにそんなはずはない』と言って、隣り合った席を取り直してくださった」


 「そうだ、そのこと。それに彼については君が知らない別のことでもいわくがあるしね。とにかくそれはそうとして、南くんが十一時ごろ事務所へ来るんだ。できたら君にもそのとき同席して欲しいんだ。電話で二人と話して、ぼくにもだいたいの輪郭が見えてきたのだけど、二人に同席してもらってもう一度詳しく事実を確認したいんだよ」


 「はい承知しました。ぼくと南さんの名誉の問題です。塾長、お願いです。徹底的に真相を追究してください」


 「そうだな、君たちだけじゃない。責任者のぼくにとっても大切なことなんだ。なにしろ君たちはぼくの部下なんだから。とにかく十一時に待っているから」


つづく


次回 5月15日(木)


2025年5月4日日曜日

郵便配達員を見るたびに心に浮かぶこと



バイクで町中を走り回っている郵便配達の人を見るたびに思い出すことがある。


郵便配達員の姿は外出したら必ずと言っていいほど目にするのに、そのたびに思いだすとは、よほど印象に残ったことに違いないのだが、いったいどのようなことなのだろうか。


それは何かの記事で読んだことがあるのだが、たしか小学1年生になったばかりの男の子が、おばあちゃんと一緒に通りを歩いているときの話である。


その子は街をバイクで走り回っている郵便配達人を目にしたとき、おばあちゃんにこういったのだ。


「おばあちゃん,ぼく大人になったら、あの人みたいに郵便配達の仕事したいな」 


おばあちゃんが孫に言ったのは残念な内容だった


すると、おばあちゃんは孫の発言を受けてこう応えたのだ。


「郵便配達ねえ、おまえは子どもだからまだわからないと思うけど、おばあちゃんは良いと思わないないわ、だって仕事はきついし、その割にお給料は安いし、おとなは誰もいい仕事とは思ってないんだよ」


おばあちゃんの豪直球でストレートな応え

なんとストレートな発言なんだろう。しかも剛速球で、せっかくの返球も、これではこどもが受け止めることはできるはずがない。


おばあちゃんは何も孫の発言を真に受けて応えなくてもよかったのだ。なぜなら、こどもは何事に対して直感で反応し、よく考えて発言することなどないからだ。


要するに孫は、赤いバイクに乗って走り回る郵便配達員をカッコいいと思い、瞬間的に「僕もやってみたい」と、たまたま側にいたおばあちゃんに語りかけただけなのだ。


したがってこの思いを大人になるまで持ち続けることはまずないだろう。おばあちゃんはこの場面で郵便局員の仕事をネガティブに語ることはないのだ。


第一人の職業をけなすことは「職業に貴賎なし」という考えに反しているのではないか。それにもっと良くないのは「子どもの夢をも壊す」ことにつながるからだ。


おばあちゃんはこういえばよかったのだ


では人の仕事をけなさず、子供の夢を壊さずに、おばあちゃんはこの場合、孫にどのように話せばよかったのだろうか。以下はその一例である。


ああ、あの郵便局の人のようにね。それもいいかもしれないね、みんなが楽しみに待っている手紙なんか届けてあげる仕事だし。 


でもねえ、世の中には人に役に立つ仕事はいろいろあるから、一つづつ見ていってゆっくり考えたらいいとおばあちゃんは思うよ。