ほとんどの応募作品が”下読みさん”と呼ばれる予備審査員の目に触れるだけで終わってしまうという事実
過去のブログでもこれまで何度か書いてきたように、私は40代後半の一時期、大手出版社募集の小説新人賞に数回にわたって応募した経験がある。
そうした際に私は、応募した作品はどのようなプロセスで審査が行われるかということに少なからず関心を抱いていた。
そしてその関心は、当然のごとく小説新人賞の審査についてのいろいろと情報を探してみたいという気持ちに変わっていった。
でも、そのころはまだインターネットはそれほど発達しておらず、検索サイトでそうした情報をつかむことは容易ではなかった。
したがって、それについてある程度信頼性のある情報を得たのは、それから7〜8年後のウインドウズ98が世に出た後であった。
そして小説新人賞の審査は、予選段階では審査員になっている作家はまったくタッチすることなく、すべて「下読みさん」と呼ばれる予備審査委員によって行われるということを知ったのである。
それまで私は、審査の最初から審査員である作家が作品の目を通すものとばかり思っていたので、この事実には少なからず驚かされた。
でも、よく考えてみれば、一度に1000件を超える応募作品をわずか数人の作家が読むことは困難だと気がつき、多くの「下読みさん」が手分けして作品を読んで審査するという事情も後になって理解できた。
でも気になるのはその下読みさんたちの質である。はたしたそうした人たちは応募作品を正しく評価することができるのだろうかと、その点が気がかりだった。
その後、そうした「下読みさん」についてさらに詳しく解説しているネットのサイトが見つかった。
「下読みさんの素顔」というタイトルの記事であった。
私はその記事に強い関心を抱き、まさに興味津々と言う気持ちでむさぼり読んだものだ。
その記事は「下読みさん」と呼ばれる人種がどのような人たちなのであるかについて詳しく説明してあった。
一般的には、編集者・評論家・ライターなどがその任務に当たるのだが、その他にも、下読みの仕事をしている人がたくさんいるのだとという。
例えば無名の新人作家。彼らはまだあまり売れる原稿が書けなくて収入の少なく、アルバイトとして下読みの手伝いをするのである。
こうした下読みさんによる審査について、大切な小説の応募原稿がたった一人の下読みの人にしか読まれずに判断されてしまうということに対して、不安を感じる応募者もいるかもしれない、
でも、たとえばエンターテインメント系の作品などは、誰が読んでも面白いものは面白い、誰が読んでもつまらないものはつまらない、というのが非常にはっきりとしているものなので、少なくとも、大賞候補になるような作品が下読みさんによる一次選考で落とされてしまうなどということは絶対にないと、審査担当の編集者は語っている。
一般的に言って、下読みという仕事は精神的にも体力的にも非常にハードで、中には、一回やっただけで「二度とやりたくない」と言って逃げ出す人もいるほどだ。
特に長編の下読みは低賃金重労働で、朝起きてから夜寝るまで、食事とトイレ以外は、ひたすら原稿を読み続けている、というような状況も珍しくない。
たとえば50枚の短編に比べて500枚の長編の場合、単純に読むのに10倍の時間がかかる。しかし、もらえるギャラは、せいぜい2〜3倍でしかない。時給に換算すればコンビニでアルバイトをしたほうが高給になることさえあるのだ。
そんなハードな仕事を、なぜ「下読みのプロ」として続けているのかといえば、それは出版界で働く人間として、一人でも多くの優秀な新人作家を世に送り出したい、という思いがあるからなのだ。それに未来の作家である応募者への愛があるからだ。
そうした彼らによってふるいにかけられた作品が二次選考(編集部内の選考会議)にあげられ、それらの作品を 編集部全員で読んで、最終選考に残す作品を選ぶのである。
規模の大きな賞では、そのごさらに三次選考〜が入る場合もある。
その後、最終選考(選考委員による選考会)がおこなわれるわけだが、
ここで始めて編集部内での予備選考を通過した作品のコピーが、最終選考の選考委員である、プロの作家の先生方に届けられる。
この時点で初めて、事前に公表されている選考委員の先生方に、原稿を読んでいただけることになるわけである。
そして選考委員が一同に会して、最終選考会が行なわれ、入選作品が決められることになるのだ。
これが大まかな小説新人賞誕生までのプロセスであるが、どうですか?このブログをお読みのあなたは「下読みさん」という予備審査員の存在についてご存知であっただろうか?
小説新人賞の舞台裏もなかなか奥が深いものである。
インターネット「下読みの達人」参照
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