2018年9月8日土曜日

また悪文に出会ってしまった ・ 「夕暮れの時間に」 山田太一 



有名作家の作品にも悪文はある


  タイトルを「また悪文に出会ってしまった」としたのは、本来悪文などあってはならないプロの作家の文章で

この2年足らずの間にすでに3回も悪文に遭遇しているからです。


  それらの作家は、故・阿佐田哲也「三博四食五眠」、荒川洋治「過去を持つ人」、故・佐野洋子「問題があります」(括弧内作品名)の3氏です。

  なお断っておきますが、これら3氏が悪文家として定評があるとか言うことでなく、あくまでわたし個人の独断で言っているだけのことです。

  その過去の3人に次いで今回が4人目なので、出会いの頻度に対する驚きの気持ちを強調して表しているのです。

  一概に悪文と言っても、その定義はいろいろでしょうが、私にとって悪文とはただ一つ、それは意味がよく分からない文章のことです。つまり何のことを書いているのか、何が言いたいのかがよくわからない文章です。

  こんな文章に出会ったたときは、分からないのは自分の読解力が不足しているのではないだろうかと、まず疑ってみます。そして一度でなく二度も三度も読んでみます。でもやはり分かりません。で、その理由を考えた結果、悪文だから、という結論に達するのです。

  今回もそんな結論に達したエッセイ集に出会いました。脚本家山田太一氏の作品です。

山田太一と言えば、誰もが知る脚本家の大御所で、テレビや映画でも有名な作品は数知れず、それだけでなく小説やエッセイでも山本周五郎賞や小林秀雄賞など、名のある賞を取っている大作家です。

  それ故に今回氏の作品を悪文呼ばわりするのは大いに気が引けますが、これまでもブログなどで上にも挙げた高名な作家の作品を悪文と指定した身としては、今回もまたお許しを請わねばなりません。


そもそも悪文とは、その定義は?


  上でも書きましたがわたし個人にとっての悪文とは、分り難い文章のことです。辞書などにある悪文の定義にはもちろん「分り難さ「」は入っています。でもそれだけではありません。いか悪文の定義について主なるネット辞書の説明を見てみましょう。

・あく‐ぶん【悪文】

へたでわかりにくい文章
文脈が混乱して、まとまりのない章。

(デジタル大辞泉)


・あく ぶん【悪文】


難解言葉を使ったり、文脈乱れていたりして、理解しにくい
へたな文章

weblio辞書)


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山田太一のエッセイのどこ(なに)が悪文なのか?


  上の説明で悪文の定義はお分かりになったことと思います。

では次に実際の文章を例に挙げてみることにしましょう...

  このブログのタイトルにも掲げた「エッセイ集「夕暮れの時間に」の中に「渋谷恋文横丁」という作品があり、その中に次のような一文があります(P144)。

≪「なつかしの」という領域の話になると「たぶん」というのが枕詞のようになってしまう。たぶん昭和三十年前後の映画だが、「恋文」という作品があった。丹羽文雄の新聞小説を女優の田中絹代さんが演出した作品で、脚本は木下恵介さんである。俳優は森雅之、久我美子・・・・・・・・・≫


  上の文章を起承転結で言えば、起の部分が『なつかしの」という領域の話になると「たぶん」というのが枕詞のようになってしまう』になります。

  この作品はタイトルに渋谷恋文横丁とあり、むかし渋谷にあった通りのことをがメインテーマになっているのですが、タイトルを知らない人なら冒頭の文章から、「なつかしの」と「たぶん」という言葉の関係についての話なのだろう、と思うのではないでしょうか。

  ところが起承転結の承の部分に入ると、上のようにまったく違った方向へ進みます。

「たぶん三十年前後の映画だが、恋文という作品があった」と続き、それ以後「なつかしの」と「たぶん」についての説明はまったくありません。つまり起の部分の「なつかしの」や「たぶん」がどこかへ飛んでしまっているのです。

  したがってこの話のテーマが何であるのかが、さっぱりわからなくなってしまうのです。   要は出だしの部分の「「なつかしの」という領域の話になると「たぶん」というのが枕詞のようになってしまう」は必要ないのです。これがあるがゆえにテーマが何かと迷わされるややこしん文章になってしまうのです。

  それだけではありません。この「なつかしの」という領域の話になると「たぶん」というのが枕詞のようになってしまう」という文章だけをみても、シンプルな言葉遣いの割には意味の分かりにくい文章です。


7割が悪文で、何とか読めるのが3割


  このエッセイ集にはこれに似たような分り難い文章が少なく見ても全体の7割を占めています。あと3割がかろうじて読める文章ですが、それらにしてもどちらかと言えば共感できる点が少ない楽しくない文章ばかりです。

  ちなみにこの作品集に取り上げられた作品は書下ろしではなく、過去に何らかの雑誌に掲載されたものばかりです。中でも新潮社のPR誌である文芸雑誌「波」に収録された作品が多く見られます。それだけに純文学嗜好が強いのは否めません。

  最後にもう一点、著者は詩の愛好者です。それゆえに文中にいろいろな詩の引用があります。

  悪文家の一人として過去に遭遇した荒川洋治氏も詩人です。どうやら詩人とか詩の愛好家には悪文家が多いのかもしれません。

 詩は難解で哲学に通じるところがありますから、それも頷けます。


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