2020年5月28日木曜日

STAY HOMEでもテレビはあまり見ない ・テレビ離れの元凶はくだらないバラエティ番組の蔓延


テレビのバラエティ番組が「嫌いな芸能人」を増やしていく

このところテレビ離れがどんどん進んでいるようですが、原因はいったいどこにあるのでしょうか。

ズバリ、それはくだらないバラエティ番組が多すぎることと、出演する芸能人が飽きられているからではないでしょうか。


テレビはバラエティ番組オンパレード

いま人々のテレビ視聴時間が次第に少なくなっています。例えば3年前は1日に少なくても5時間程度見ていた人が、今では2時間も減って3時間になっているようなケースが少なくないのです。

でもなぜこれほど減ったのでしょうか。その答えはズバリ、見たい番組が少ないからです。

テレビ番組表を見渡しても、載っているのはバラエティ番組ばかりで、見たいと思う魅力的な番組がほとんど無いのです。

その結果ニュースや報道番組を中心に短時間の視聴となってしまうのです。


同じタレントばかり出るので飽きてしまう

バラエティ番組をつまらなくしている原因の一つは、同じタレントが出すぎていることです。いま人気タレントになると、1周間に10本程度のレギュラー番組を抱えている人は少なくありません。

週10本以上ともなると単純計算しても1日に1.本ですから、毎日1回以上はどこかのテレビに出ていることになります。

これだとたとえ夜のゴールデンタイムしかテレビを見ない人でも、いつも同じタレントの姿ばかり目に付くのです。

これがテレビ離れの理由の一つです。なぜなら、人は飽きる動物だからです。

最初は「いいな」と思っていたタレントでも、いつも、いつも見ていると、だんだん飽きてきて、そのうち嫌いになってしまうのです。

まさに「過ぎたるは及ばざるが如し」という諺のとおりなのです。


人々は「もうテレビは見たくない」と思い始めている

少し極端な表現かもしれませんが、コロナ禍でSTAY HONEの今でさえ「テレビはあまり見たくない」と思っている人は決して少なくないはずです。

そう思っていながら時間つぶしのために仕方なく見たくもない番組を見ている人が多いのです。

くだらないと言われながらも、バラエティ番組があある程度の視聴率を保っているのはこのためなのです。

でも、見たくもないと思っている人たちが見ないと決断するとき視聴率は一気に下降するはずです。


逆効果と思えるようなバカなCMも少なくない

テレビが嫌いになる原因は番組だけではありません。民放テレビには必ず出てくるものにコマーシャルがあります。

いわゆるCMと呼ばれるもので、番組の初めや途中で、これでもかこれでもかというほどたくさん出てきます。

こううしたCMは有名タレントが起用されている場合が多いのですが、高い出演料を払って制作したもにも関わらず、いったいコスパ的に見合うのだろうか?と疑問視される低品質な作品も少なくありません。

それだけでなく質の低さから、出演者自身の価値を下げているケースすらあるのです。

つまり、質の低いCMに出たために、長年かけて培ってきた一流俳優(一流歌手)としてのクオリティにキズをつけているのです。

にもかかわらず黙って出演し続けているのが不思議で仕方ありません。


2020年5月24日日曜日

コロナ禍のSTAY HOME・電子図書「青空文庫」のおかげで読書がはかるど




家なら楽な姿勢で読書ができる

読書には効率が必要になります。つまりなるべく早く読み、しかも疲れずに楽に読み終えることです。

なぜなら読むべき本があまりにも多いので効率を考えないとうまく量を消化していくことができないからです。

コロナ禍で家にいる時間が増え読書をする機会が多くなります。わたしの場合、家での読書は紙の本より電子書籍が多くなりますがいったい何故なのでしょうか?

その理由の一つは、他人の視線を気にすることないので、ソファーにのけぞったり、半分寝転がったような姿勢で、紙の本より楽な姿勢で読むことができるからです。


青空文庫の利用が増えたのは断捨離で家の本を処分したから

5年前の引っ越しを機会に断捨離を断行し本を大量に整理しました。

その結果、いま家にある本は従来の4分の1ほどになって大幅に減少しました。

ということは家にある本を読む機会も減ったということになり、当然他の読書媒体が必要になります。

そして増えたのがインターネットの電子図書・青空文庫による読書なのです。


紙の本に比べて電子図書が格段に楽に読めるのは何故なのか

効率を考え、できるだけ早く、しかも楽に読むためには読書媒体の選択が必要になります。

いま考えられる読書媒体には紙の本と電子図書があります。文字通り2者択一でどちらを選ぶか、ということになります。

長く親しんできた紙の本、それに比較的新しいインターネット利用の電子図書のどちらを選ぶかというのが問題なのです。

2者を比較した時、電子図書での読書には以下のようなメリットがあることに気づきました。



・活字の大きさ自由に選択できる 
図書館へ行くと、目があまり良くない人のための「大活字本」のコーナーがあり、そこには普通の本の数倍にも及ぶ大活字の本ばかりが並んでいます。でも電子図書なら簡単な操作で活字の大きさを自由に変えられますから目の良くない人でも何ら心配はいりません。


・ハンズフリー、手を使わないで楽な姿勢で読める
紙の本は手に持って読むのが普通ですが長く読んでいたら手が疲れます。でも電子図書は手に持たなくても読めます。パソコンなら画面が立っていますから、手など添えずにそのまま目をやるだけで読めるのです。いわゆるハンズフリーの状態で読書ができるので、長時間でも手が疲れることはないのです。


長い本もページめくりはワンクリックで
紙の本で煩わしく感じるのはページめくりです。新しいページへ進むたびにページをめくらないといけないのです。本によって異なりますが、分厚い本だと数百ページにも及ぶことがあります。いうまでもなくこうした本の場合には数百回のページめくりが伴うのです。でも電子図書ならこの煩わしさがありません。ページの端まで来ると、その部分をクリックするだけで次のページへ進めるからです。これってすごく楽ちんではありませんか。


・栞もワンクリックで簡単に挿入
本には栞がつきものです。どこまで読んだかをマークするためのもので、紐がついていたり、紙製のものを挿入したりします。電子図書には栞型のマークがあり、それをクリックするだけで次から読む箇所へ自動的に栞が入ります。




2020年5月20日水曜日

耳にしたくない10の気障りなワード


人には好きなものがある反面嫌いなものもあります。

嫌いな食べ物、嫌いな芸能人、嫌いなテレビ番組、嫌いな国など

ジャンルはいろいろいろあり並べたらきりがありません。

言葉も例外ではありません。言葉は時代ともに移り変わりますが、目下のところ嫌いなのは下に並べた10の言葉です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・がっつり

(意味と解説)

 十分であるさま。たくさん。たっぷり。「がっつり食べる」「がっつり働いた」
 [補説]北海道の方言が広まったものとも言われる。 出典:goo辞書

(コメント)
ズバリ語感の悪いワードであり聴くだけで嫌な気持になります。先日もテレビで若い女性レポーターが使っていましたが、好感のもてる容姿もこの言葉がだいなしにしていました。


・ほぼほぼ

(意味と解説)
ほぼを2回繰り返したものです。ほぼ間違いないといえばいいのに、近頃ではほぼほぼ間違いない、という人がいるのです。ほぼが90%だとすると、ほぼほぼは95%ぐらいの確率なのでしょうか?

(コメント)
語感が悪いだけでなく、同じ平仮名文字が4つ並んでいるようで見た感じも良くありません。使う人が多いのは、テレビの芸能人、プロ野球解説者などのようです。


・ほっこり

(意味と解説
(1) いかにも暖かそうなさま。ほかほか。「ほっこりと暖かい綿入れ」「心がほっこりする話」 ふくよかなさま。「―とした風だったけが、今ぢゃあ痩 (や) せおとろへなんして」 つやがあって鮮やかなさま。「庭の紅葉さへ―とした色がないわい」
[名]ふかしたさつま芋。―買うて喰うてござるも」

(コメント)
ピッタリとした使い方と言えるのは、ふかしたさつまいもを形容するほっこりだけで、後は少なからずの違和感を感じる。
  
・ぶっちゃけ

(意味と解説)
「打ち明ける」が崩れた言葉である。 また、「ぶち開ける」「ぶちまける」が崩れた言葉であるという説もある。 どちらが語源でもそんなに大差無いのであまり気にする必要はない。 女子高生などが「ぶっちゃけ美味い」「ぶっちゃけ凄い」「ぶっちゃけ可愛い」などと言った場合は「本気で・真面目に」などの意味で使われる。 出典:ニコニコ大百科

(コメント)
言葉をきれい、汚い、に分けると、この言葉は間違いなく汚いに属し、語感も最悪で下品な言葉と言えます。


・ガチで

(意味と解説
本気で、本当に、非常に、などの意味の若者言葉
ガチンコ」を略した「ガチ」を副詞形容詞として用いた若者言葉表現。本気で、凄く、などの意味の表現

(コメント)
なんとなくユーモアが漂う言葉ですが、若者限定の言葉で、中高年が使うと違和感は否めません。


・ぷりぷり

(意味と解説)
 腹を立てて機嫌の悪いさま。ぷんぷん。「母は一人でぷりぷりしている」
 押すとふるえるほど弾力があるさま。「ぷりぷりした赤ん坊のほっぺた」
 弾力があって、歯ざわりや食感のよいさま。「ぷりぷりのエビを使った料理」
                           出典:weblio辞書 
(コメント)
(1)と(2)はいいとして、(3)には抵抗がある。テレビの食レポ番組などで若い女性タレントが料理の舌触りに関し、何かにつけて「プリプリ」「ふわふあ」を連発するのはとても耳ざわり。


・自分的には

(意味と解説)
「自分的には」とか「私的(わたくしてき)に」という言い方は、ふつうの人はしません。
「私的(してき)」は、「公的」の対義語で少し硬い表現で文章語として使いますが、口語では「私(わたくし)としては」といいます。 出典:ヤフー知恵袋

(コメント)
自分的だけでなく「彼的には」とか「彼女的には」や、もっと極端なのは、「あの人的には」というのまでありますし、また「私のおばあちゃん的には」というものだってあります。


・基本○○

(意味と解説)
「基本」は、「基本的に」とすれば文法的には正しくなりますが、それよりも、「原則として」とするのが、もっとも正しく自然な表現です。
基本〇〇と言う表現は仲間内だけで使うのは許されるでしょうが、ビジネスや目上の人に対してなど「きちんと話す」べき場面では避けるべき表現だと思います。 
出典:ヤフー知恵袋

(コメント)
これが間違った表現であることは、ちょっと考えるだけでわかるはずなのに、あえて使う人は、この言い方こそ今的な表現とでも思っているのでしょうか。


・なんとか感

(意味と解説)
「~感」という形式で用いられる一連の表現総称、または、沸きあがってくる名状しがたい感情感覚を言い表した表現。「~感」は国語として一般的な虚無感」や「安心感」などに始まり、「抵抗感」「寂寥感」、果てはコレジャナイ感」「終わった感」に至るまでさまざまな言い回しに用いられる表現
 (コメント)
「ガチで」と同様にこの言葉にもなんとなくユーモアがありますが、手当り次第何にでもつけるところに問題があります。例えば「とてもおいしい感」「気分ノリノリ感」など。


・させてもらう

(意味と解説)
させていただきます」は「させてもらう」の謙譲表現で、へりくだって「させてもらう」という気持ちを伝える時に使います。「させていただきます」は丁寧な響きがする言葉なので、つい使ってしまいがちですよね。しかし、「させていただきます」を使うには、「相手の許可を受けている」「恩恵を受けている」という2つの条件が必要です。場合によっては「いたします」を使った方がいいケースもあります。 出典:career picks
(コメント)
「させてもらう」と言う表現はTPOを踏まえて正しく使えば何も問題もありません。しかし、いま何故かこの表現が蔓延しています。特に多いのはテレビの芸能人で、スポンサーや視聴者に阿る(おもねる)ためなのか、使わないでいいところで執拗に使い続けていることにあります。相手に対して下手に出ることによって気を引こうとしたり、継続して使ってもらおうという魂胆が見透かせるところが嫌なのです。


2020年5月14日木曜日

高齢者の皆さん「若いもんには負けない」とは言わないほうがいいですよ


高齢者とは65歳以上をいうのですが、60代の人だとまだ自分を高齢者とは認めたくなく

間違っても「老人」とは呼ばれたくない、と思っている人は少なくないでしょう。

60代に限りません。70代だってそう思う人はいるに違いありません。

なにしろ日本の65歳以上の層は3千万人もいるのですから、そう思う人の数が多くても不思議ではないのです。

そうした人たちが時として口にするのが「まだまだ若いもんにはまけない」という言い草です。

おそらく若者と張り合いたいというより、年寄り扱いされたら、いろいろな面でで不利を招く、という不安心理がこう言わすのでしょう。

ではこれを聴いた「若いもん」はどのように反応するのでしょうか。


「年寄りの冷や水」と言われないためにも

高齢者が発する「若いもんに負けない」を耳にした若いもんが返す言葉が何かというと、その一つに「年寄の冷水(ひやみず)」があります。

年寄りの冷や水はいろはカルタの句としても使われているよく聞く言葉です。

でも聴いたときはたいていは深く考えずのやり過ごしてしまっており意味をはっきり知りません。一体どういったことを意味する言葉なのでしょうか。

年寄りの冷や水とは年寄と思しき人が無理して危険であったり、無茶と思える行動(無謀な行動)をとること、をいいます。

この言葉の由来は、年寄りが冷水(冷たい水)を浴びたりすると、風邪を引いたりして、ろくなことはない、という戒めです。

つまり年寄りが体に良くないことをすることに対する皮肉を込めた警告や忠告の言葉なのであり、暗に「年寄りらしくしなさい」と言っているのです。

他人から言われるだけではありません。老人自身が行き過ぎたことを認めて、「こんなことに首を突っ込むとは、まるで年寄りの冷や水そのものだね」と自虐的に発することもあります。


「年寄りの冷や水」は概して良くない結果を招く

年寄りの冷や水はらしくない行為のことを言うのではないでしょうか。

何事もらしくないことをしたら結果は良いものにはならないのが世の常です。

老人が年寄りの冷や水で「若いもんに負けない」とでしゃばっていると、多くの場合、周りから煙たがられたり、疎んじられたりして、嫌がらせを受けたり、遠ざけられてしまうことになりかねません。

要は老人が強がりを言っても良い結果は招かないのです。


「年寄りは年寄りらしく」は嫌いだが

「年寄りの冷や水」以外にも高齢者に対する忠告の言葉があります。その一つは「年寄は年寄りらしく」というものです。

上で書いた「らしくない」の反対です。でもこれには素直に頷けない老人は少なくないはずです。

なにしろ「いつまでも若さを保とう」というスローガンのもとに、これまで若さのためにあれこれ努力してきたのです。

なのにいきなり「年寄りは年寄らしく」とはあんまりではないですか。その気持は良くわかります。

当然のこと心がけとして「若々しくありたい」という気持ちを持つことは良いことです。でも、「まだまだ若いもんには負けない」というふうに、全面に出すと嫌がられるのです。

「若いもんに負けない」という気持ちは良いことなのですが、あくまで内に秘めておくことが大切なのではないでしょうか。


人生100年時代、高齢者の線引に一考を要すのでは

「年寄りの冷や水」とか「年寄は年寄らしく」などの高齢者に対する忠告の言葉を聴きたくない人が多いのは、高齢者の対象になる人口が3千万人もいるからです。

しかもこの数は年とともに増えているのです。それもそうでしょう、今は人生100年時代とも言われるようになっているのです。

だとすると、65歳からの残り人生はは35年もあるのです。つまり人生100年のうち35%が残っているのです。

これほど長い残り人生がある人達をひとまとめに高齢者とすることは失礼かも知れません。

どうでしょうか、現在の65歳以上を改め70歳以上を高齢者とし、70~80歳をジュニア高齢者、80歳以上をシニア高齢者という呼称にする案は?

2020年5月10日日曜日

コロナ禍で学校へ行けない、でも家で本を読めば勉強はできる


コロナ禍の今、多くの児童が学校へ行きたくても行けないのが現状ですが作家の浅田次郎氏はかねてより

「学校へ行かなくても本を読めば勉強できる」という学習に対する持論を唱えています。

これってまさに至言ではないでしょうか。

言うまでもなく勉強の基本とは読むことにあります。したがって学校へ行かなくても家で本さえ読めば勉強はできるのです。

このことに気づいていない人たちのなんと多いことでしょうか。

コロナ禍で児童が学校へ通えない今、早くこれに気づくことが大事です。


読み、書き、そろばんのうち、二つの能力は本を読めば習得できる

勉強の基本は読み書きそろばんと言われますが、中でも基本になるのは読み書きです。この二つがすべての勉強に基礎になるからです。

この読み書きの力を培ってくれるのが読書です。つまり本を読むことにより読む力と書く力を同時に習得することができるからです。


コロナによる学校の長期休暇は児童に読書習慣をつけさせる絶好の機会

読書を継続的に行うためにはまず習慣をつけさせることが必要です。そのためにはある程度のまとまった時間が必要です。

コロナ禍で多くの学校が休みになっていて時間の余裕がある今は絶好のチャンスです。

児童にとって学校に行けないのは不幸なことですが、これを読書ができる絶好のチャンスと捉れば、まさに災い転じて福となす、の結果が期待できるのです。


ネット時代の家庭での読書には電子図書・青空文庫が利用がおすすめ

読書をするのには本が必要です。今は学校だけでなく町の図書館も休みです。したがってそこで本を探すことができません。

でも心配には及びません。学校や町の図書館でなくても本は見つける事はできるのです。それはインターネット図書館の青空文庫を利用することです。

町の図書館には何万冊にも及ぶ膨大な数の本がありますが、電子図書館・青空文庫も負けてはおらず、小中学生を対象にした児童書だけを取ってみても、その数は数え切れないほどたくさくあります。

しかも図書館のようにわざわざ足を運ぶ必要がありません。家にいながらインターネットでパソコンやスマホを使えば、いつでも好きな作品が手軽に読めるのです。

それに青空文庫には紙の本とは異なる電子書籍ならではの利点が色々あります。


まずはじめは電子図書に慣れること

インターネットの電子図書が出現して久しいとはいえ、いまだに使ったことがない人もかなりいるようです。

そんな人達は電子図書を敷居が高くて利用するのが難しいものと考えているかも知れません。

でも決してそんなことはありません。慣れるまでは少し時間がかかりますが、慣れてしまえば紙の本よりスムーズに読めるかも知れません。

なぜなら電子書籍には紙の本と比べ読む上で様々な利点があるからです。ここではその利点について述べていくことにします。


電子図書が紙の本より楽に読めるのはなぜ?

・活字の大きさは自由に選択
図書館へ行くと、目があまり良くない人のための「大活字本」のコーナーがあり、そこには普通の本の数倍にも及ぶ大活字の本ばかりが並んでいます。でも電子図書なら簡単な操作で活字の大きさを自由に変えられますから目の良くない人でも何ら心配はいりません。


・ハンズフリー、楽な姿勢で読める
紙の本は手に持って読むのが普通ですが長く読んでいたら手が疲れます。でも電子図書は手に持たなくても読めます。パソコンなら画面が立っていますから、手など添えずにそのまま目をやるだけで読めるのです。いわゆるハンズフリーの状態で読書ができるので、長時間でも手が疲れることはないのです。


・ページめくりはワンクリックで
紙の本で煩わしく感じるのはページめくりです。新しいページへ進むたびにページをめくらないといけないのです。本によって異なりますが、分厚い本だと数百ページにも及ぶことがあります。いうまでもなくこうした本の場合には数百回のページめくりが伴うのです。でも電子図書ならこの煩わしさがありません。ページの端まで来ると、その部分をクリックするだけで次のページへ進めるからです。これってすごく楽ちんではありませんか。


・栞も簡単に挿入
本には栞がつきものです。どこまで読んだかをマークするためのもので、紐がついていたり、紙製のものを挿入したりします。電子図書には栞型のマークがあり、それをクリックするだけで次から読む箇所へ自動的に栞が入ります。


いまこそ親や教師は積極的な読書指導を

コロナ禍で学校へ行けない今、不安な思いにかられているのは生徒たちだけではありません。まわりにいる親や教師たちも、なんとも言えない焦りを感じていて、日毎にイライラ感が募るばかりです。

でもここは落ち着いて対策について検討するときです。

もちろん家庭学習を奨励して指導することも大切です。でもこれは春休み、夏休みなど普段の休みにもやっていることで、新鮮味に欠けるために子どもたちのモチベーションを維持することは難しいかも知れません。

コロナ禍という新しい局面の今は、子どもたちの勉強のためにも新しいテーマが必要なのではないでしょうか。

そこで登場するのがインターネットの電子図書・青空文庫の利用による読書なのです。

多くの児童にとって電子書籍は新しい挑戦かもしれず、それだけに新鮮味からくる魅力は大きいのではないでしょうか。

児童の周りにいる親や教師たちは、いまこそ子どもたちが電子図書に馴染むように手を添えて読書指導する時なのです。

この時期にこれによって子どもたちが電子図書を好きになれば、まさに災い転じて福となす、ではないでしょうか。


2020年5月9日土曜日

どうだ、わかったか、これがアメリカの日本の差だ!

GAFA+Microsoftの時価総額、東証1部超え 560兆円に

2020/5/8 23:31 (2020/5/9) 
日本経済新聞 電子版

窗体底端
株式市場で巨大IT(情報技術)に資金が集中している。
米マイクロソフトや米アップルなど時価総額上位5社の合計が、東証1部約2170社の合計を上回った。
テレワークやインターネット通販など新型コロナウイルスで変容した生活様式でも勝ち組で、自動車などの次世代技術での投資余力も大きいことから評価を集める。
ただ資金の一極集中は市場のいびつさを映してもいる。
出典:日本経済新(2020/5/09)

2020年5月7日木曜日

小説新人賞の応募者にぜひとも伝えたいこと(4)


予選通過率が10%程度でしかないことをしっかり認識しておこう

このシリーズ(3)でも書きましたが、メジャーと呼ばれる文藝春秋、小説現代、集英社などの出版

社が主催する小説新人賞の応募者は1回の募集につき、だいたい1000~1500編程度の作品の応募があります。

この中で予選を通過するのは1割程度の100~150編ぐらいでしかありません。これで分かる通り小説新人賞応募者を待ち構えているのは狭くて厳しい門なのです。

これを冒頭に書くのは、応募者にこの数字をしっかり認識して現実をよく踏まえておいてほしいからです。

つまり、こうした現実を知っておかないと落選した時のショックが大きく、次の応募のモチベーションを失ってしまうことにもなりかねないからです。

でも応募者の90%もの人が落選という事実を知っておけば、落選の際のショックも小さくてすみ、諦めもつきやすいのではないでしょうか。

それだけでなく《もう一度挑戦してみよう》という意欲も湧いてくるのです。



応募後に心しておくべきこと

これから述べることは非常に大切なことですから是非とも覚えておいて実行に移してほしいことです。

前項で書いたように小説新人賞に応募しても、応募者の90%は一次審査でふるい落とされてしまいます。

何事に於いても落選にはショックが伴います。中でも小説新人賞応募での落選のインパクトはかなり強いと言えるのではないでしょうか。なぜなら、小説作成には長い日時がかかるからです。

作品の長さにもよりますが、短くても1ヶ月、長編だと数ヶ月~1年以上に及ぶこともあるでしょう。

これだけの期間、頭をしぼりながら苦闘して生み出されるた作品です。それが一次予選であえなくボツになってしまったらショックを受けるのは当然のことです。

それに、審査結果は予選通過作品が月刊誌で発表されるだけで、落選に対しては何の通知や連絡もありませんし原稿も返却されません。

こうした冷酷とも思えるような厳しい現実をしっかり認識しておくことによって、なるべくショックを小さくし、気を取り直して次の応募に備えてください。



審査結果が発表される前に2作目を執筆する

小説新人賞は一次審査を通過するのは10%程度の狭い門です。ということは一度の応募だけで一次予選を通過するのは難しいかも知れません。

確率から考えても応募回数が多いほうが予選通過の確率は高くなるに違いありません。1回の応募だけで済ますのでなく、2回、3回と応募回数を増やしていくのです。

幸いターゲットにする募集媒体は少なくありません。例えば1回目の応募が文藝春秋のオール読物新人賞だとすると、2回目は小説現代の新人賞、3回目は集英社の小説すばる新人賞というふうに対象を変えていくのです。

こうして次々応募していけばいいのですが、大事な点は、1回目の応募から次の応募までの期間です。

大切な点は1回目の応募が終わると、その結果発表がある前に2回目の応募を終えることです。

理由は、1回目の審査結果を待ってからでは、運悪く落選した場合は、ショックからモチベーションを喪失して2作目の執筆の意欲を失う恐れがあるからです。

3作目も同じです。2作目の結果発表の前に執筆するのです。

この方法だと、たとえ前の応募作品が落選しても、その発表前なら執筆意欲を維持できるのです。


ターゲットは一つでなく複数の方がいい

いま小説新人賞の数は少なくありません。もちろん作家へ直結するようなメジャーな賞に限って言えば数は限られますが、準メジャーやネット小説も含めればおそらく十指では間に合わないほどの数があります。

もちろんメジャーだけ狙って応募を続けることも悪くはありませんが、準大手やネット小説も意識すれば、それだけターゲットは増えてくるのです。

それに応募媒体によって選考基準や作品のテイストなどが異なってきますから。その分予選通過確率が高くなります。

1回の応募で落選しても、すぐ諦めるのではなく、ターゲットを変えて、2回、3回と応募を重ねていくことが大事なのです。

応募者の中には10回以上予選で落ちても、それでもへこたれずに応募を繰り返している人もいるのです。


経験者が語る大事なこと・たとえ予選通過しても油断してはいけない

上の項では落選した場合のことばかり例を上げて書きましたが、ここではその逆の場合、つまり運良く10%の壁を破って予選通過した場合のことを書いていきます。

人間誰しも、物事が自分が思ったように運べば気を良くし自信もつきます。それも1回だけではなく、2回、3回と連続してうまく行けば、喜びようも半端でなく、ともすれば有頂天になるほど喜ぶかも知れません。

その結果、鼻高々になり舞い上がってしまうかも知れません。実はこう言っている筆者がかつてその状態になったのです。

それは人生で始めて応募したオール読物新人賞で、みごと予選通過しただけでなく、その発表前に応募した小説現代新人賞では1次予選はおろか2次予選まで進み、さらに3回目に応募した小説すばるが、またまた1次予選を通過したのです。

いずれも応募作品は1000~1700編という狭き門を突破したのです。そんな厳しい戦線で、初めて応募した1回目から連続3回も予選を通過することができたのです。

しかもいずれも入賞すればプロ作家へ直結というメジャーな出版社のものばかりなのです。これを喜ばないはずがありません。それどころか、すっかり舞い上がったのぼせてしまったのです。その結果はどうなったでしょうか。

苦労して書きあげた小説とはいえ、三作が連続してすべて予選を通過するなどとはまるで夢のように思えたのです。

そして、これだと小説家になるのも間もないことだ、というような慢心めいた思いが胸をよぎったのです。

それだけではなく、作家になるのがこんなに簡単なことなら、何も急ぐことはない、という考えが芽生えてきて、その後しばらくは何も応募しないだけではなく、小説を書くことすら止めてしまったのです。

そして気がつけば年月だけ経て、いつの間にか小説家になる夢は消えてしまっていたのです。

こうした経験があるからこそから言えることですが、たとえ応募作品が1度や2度予選を通過したからと言って、決して気を緩めてはいけないのです。

小説家への道は新人賞の予選を通過してからが更に厳しくなるのです。