(その5)小説名《紳士と編集長》
喧騒に満ちたその店で彼と僕とは二時間近く飲んでいて、何度も何度も話題をかえて話し合った。でも僕が不満かつ不審に思ったのは、途中で何度か話を例の雑誌「リベーラ」と彼の甥の編集長のことにもっていこうとしたにもかかわらずその度に彼は「うん、うん」とうなずくだけで、それについて自分から何も発言しようとしなかったことだ。
いったいどうしたんだろう彼?そもそも二人のきっかけはあのリベーラだったはずなのに、しかも彼の甥がその編集長であるというのに。
やや不審なそんな面持ちで、「九時過ぎか、そろそろ出なければ」と、すでに半分ぐらい席の空いた店内を見渡しながら僕がそう考えていた時、また彼が唐突に妙なことを口にした。
「ところで僕、近々また若い頃いたパリに行ってみようと思っているんです」
パリ?おかしいな。ロンドンじゃなかっただろうか。この前ホテルのバーで、二十三のとき、ロンドンのロースクールに留学していた。確かそう言ったはずだ。ロンドン以外にこの人パリにもいたことがあるのだろうか? 僕は次第に不審な気持ちをつのらせながらそう考えていたが、そんな僕を尻目に彼はなおも話し続けた。
「いいですよ。あのシャンゼリゼの大通り。小高いモンマルトルの丘。それにあのメトロにももう一度乗ってみたいなあ」
「木谷さん、この前ロンドンに留学していたと言われましたがパリにもいらしたんですか?」
不審な気持ちを少しでも晴らそうと、僕はとりあえずそうたずねてみた。
「えっ、ロンドン。僕そんなことを言いましたか? パリですよ。パリ。僕が留学していたのは」
ここへきて僕は彼のことがよくわからなくなっていた。
うーん、どうもよくわからない。創刊されたばかりの雑誌リベーラの編集長が彼の甥であるということ、法律事務所をやっていて、今はそこの顧問であり、仕事は息子に任せており、彼自身は週に二~三度しか顔を出さないということ
つい一週間前に、若い頃ロンドンに留学していたと言ったかと思うと、今日は、いやそうでなくて留学していたのはパリだと言ったりして、でも何より不思議なのは、最初あれだけ熱心に語っていた雑誌リベーラと甥の編集長について、ここんとこまったく触れようとしないことだ。
そんなふうに考えていると、酔いも手伝ったせいか、次第に頭に混乱を来たし、何がなんだかよくわからなくなってきて、早くここを出て外気に当たって頭を冷やさなければと思っていた。
「いい時間ですし、そろそろ出ましょうか」
伝票の方へ手を伸ばしながら僕が言った。
「えっ、もう帰るんですか?もう少しいいじゃないですか。パリのことなどまだいろいろお話したいことがありますし」
この前のバーでは出るのをすんなりと応じた彼が、その日は渋ってすぐ立とうとはしなかった。
「でも僕少し酔ったみたいだし、外へ出て早く冷たい外気に当たりたいんです」「おや、ご気分でも悪いんですか? いや、そんなふうでもありませんね。顔色も良くて。でもそうですね。出ましょうか。出て外の新鮮な空気を吸いましょう。そうだ。この近くに公園があるでしょう。酔いを覚ますためにそこへ行ってしばらく散歩でもしましょう」
彼のその言葉に、僕は時計に目をやり、まだ九時半だ。と時間を確認し、そうだな、酔ったままバスに乗るより、少し歩いて頭をすっきりさせてから帰ったほうがいいかと、「公園ですか。でもそんなとこ、この近くにありましたか? いいですよ。とにかくここを出てそこへ行ってみましょう」と、伝票をつかんでややふらつく足で席を立った。
この前の、ホテルのバーのお返しのつもりでその日は僕が勘定を払いそこを出たとき、外には秋半ばの心地よい風が吹いていた。
居酒屋から路地を駅前のバス停とは反対方向に二ブロックほど歩くと、彼の言ったとおり左手にうっそう木の生い茂った公園があった。たぶん児童公園なのだろう。端のほうには砂場があり、その前の二組のブランコが風で微かに揺れているのが街灯の薄明かりの中に見えていた。
「座りましょうか」
そのブランコとは反対側の正面のベンチをさして彼が言い、「そうですね」と僕が応じて、二人は人気のない深閑とした公園の片隅に腰を下ろした。それからしばしの間、彼と僕とは心地よい秋風に吹かれながら黙っていた。
「でもおかしいですね。こんな時間に男同士でこんなところにいるなんて」ふとそう思って僕が口を開いて横をふり向いた時、最初そのベンチの端と端に間隔をおいて座ったはずなのに、いつの間にか彼がすぐ横に寄ってきており、「そうでしょうか」と返事をしたとき、その息づかいが僕の頬をなでるような気がした。
でもこの人どうしたんだろう。こんなに近くによって来たりして? 僕がそんなふうに少し妙に思っていた時、「手を握ってもいいですか?」と、思いもよらないセリフが彼の口から飛び出した。
「手握るって、いったいそれなんですか?」
僕がそう答え終わるか終わらないうちに、ひざの上の、僕の右手に生あたたかい彼の手が伸びてきて、甲の上にそっと重ねられた。驚いた僕は、その瞬間手を引っ込めようと思ったが、すぐにはできず、
「ちょ、ちょっと待ってください。なんですかこれ?」と、かなり上ずった声で言いながら、ひと呼吸おいてから、彼の手の下からサッと右手を引き抜いた。
「ねえいいでしょう。少しだけ」
そんな僕の行動に少しも動じることなく、横合いから彼が今度は囁くように言った。
やばい! この人ホモっ気があるんだ。彼の紳士振りからして、ついさっきまでは露ほどもそんなことは考えていなかった僕だけど、二度目のそのセリフではっきりそう思った。でもそれを直接指摘するようなセリフは吐かず、「いったいどうしたんですか。酔っているんでしょう。それとも僕をからかっているんですか?」
そう言って僕はベンチから立ち上がった。つられて彼も立ち上がり、今度は僕の目の前に立ちはだかり、「ねえキミ、ちょっとでいいから手を握らせてください。それが駄目なら肩を抱かせてくれてもいいですから」とさっきよりエスカレートしたセリフを吐いた。
こりゃ駄目だ。ここは早く退散するしかない。
そう思って「帰りましょう」と一言発すると、踵を返して公園の入り口に向かって歩き始めた。
「待ってくださいよ。ねえいいでしょう。ちょっとだけですから」
彼はなおもさっきと同じようなセリフを執拗に吐きながら僕を追ってきていた。きゃしゃな体つきで、しかもあの年齢では力ずくでどうこうされる心配はなかったけれど、なんだか次第に気味悪くなってきて、早く大通りへ出なければと、僕は逃げるように小走りで歩いていった。
さっきの居酒屋の前まで来て、やっと辺りに人影が多くなり、立ち止まってさっきの方角を振り返ってみた。公園から一直線のその道に彼の姿は見えなかった。
彼、追って来てないな。途中で道を折れて違う所を通って帰ったんだろうか? 公園にいた時間はいくらもなく、まだそれほど夜風に吹かれてはいなかったが、思いもよらない彼の振る舞いにすっかり驚かされたせいか、さっきまでのほろ酔いかげんも一気に吹き飛んでしまっており、まるで悪い夢から覚めたような妙な気持ちでバス停に向かって今度はゆっくりと歩いていた。
小説「紳士と編集長」より、危機の部分抜粋
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