2025年9月18日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈3〉ナイトボーイの愉楽(10)

    

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 10


 サイドテーブルの煙草を取ろうと道夫がぐっと体を伸ばしたとき、ベッドのきしむ音で目を覚ましたのか、十一番さんが「うーん」という小さな声を出しながら、道夫の方へくるっと寝返ってきた。

 

「起きてたの。ねえ今何時ごろ?」

 「ええっと、九時二十五分です」 「あら、もう九時過ぎてるの。よく寝たわ。ああ気持ちよかった。あなたいつ起きたの?」 「ほんのすこし前です。ちょうど今、寝覚めの煙草をすおうとしたところです」 


「九時半か、そろそろ起きなくちゃ。ねえ朝ごはん食べるでしょう」

「はいできたら、少しおなかがへったみたいだし」 道夫はやや遠慮がちに答えた。


 「よしと、じゃあ起きて支度するわ」 彼女はそう言いながら、ゆっくりと体を回転させ、うつ伏せになり枕の上にあごを乗せた。

 

 「でもそんなに急がなくてもいいですよ。僕、今日は学校休みました、夜の仕事までたっぷり時間ありますから」 


「あらそうなの。じゃあ私もっと寝ようかしら」

 

 「えっ、まだ寝るんですか?」 「じょうだんよ。睡眠はもうじゅうぶん足りたわ。でも何かまだベッドを抜け出したくない気持ち」


 そう言った彼女は道夫の方をふり向き、なんとなく意味ありげな流し目をおくっていた。すっかり化粧を落としたすべすべしたほっぺたが微かに光っており、目尻のしわもいつもより鮮明に見えて、この顔もまたいいもんだ。と、うっとりして眺めていた。 


それよりさっき彼女が言った「まだベッドから抜け出したくない気持ち」というセリフが妙に気になって、また下半身にただならぬけはいを感じていた。 これをどう処理しようかと考えながら、また横向きになって彼女の顔をじっと見た。 それにつられて十一番さんも視線を合わせてきた。


 道夫はそっと肩に手をかけると彼女をぐっと手元に引き寄せ、顔を重ねてキスしようとしたちょうどその時だった。 辺りの静寂を一気に破るように、入り口のドアがドン、ドンと激しくノックされたのは。 その音に驚いて、道夫は引き寄せた彼女の体から手を離した。 


「誰か来たようですよ」 それには答えず、十一番さんは人差指を縦にして口にあて、「シー」と、息で言った。


 またさっきより激しくドアがノックされた。

 十一番さんはそれでも立とうとせず、前より少し表情を曇らせ、掛け布団を大きく持ち上げ、道夫をその中にもぐらせると自分も体を縮めて中に入ってきた。


 「ねえ返事をしちゃだめよ。ぜったいに」 急にそう言われて、何がなんだかよくわからなかったが、少し怖いような気もしてきて、言われるまま黙って息を殺していた。


 それから激しいノックは数回続いて、なん回目かのその後には、男のだみ声が響いた。


 「おい、いるんだろう。開けろよ。開けないとドアを破って入るぞ」 


その声を聞いて、道夫はさっきよりもっと恐ろしくなってきた。 十一番さんはそれでも黙って声を殺しており、ただ一言も発しなかった。


 十分くらいだったであろうか。 やっと激しいノックの音も、男のだみ声も聞こえなくなった。 でも十一番さんは 「まだよ」と囁くように言いながら、掛け布団はまだはがそうとしなかった。


 二人がはいた熱い息が中にこもり、暑苦しくなって息がつまりそうな気がした。  

 「もういいわ」 彼女がやっとそう言って、掛け布団をはがしたのはそれからさらに十五分ほどもたってからだった。


 ようやく息苦しさから開放された道夫に十一番さんが「まだ声は出さないように」と、そっと耳打ちした。 


それからもう五分ぐらいたって、やっと彼女はベッドを抜け出し、忍び足でドアの方へ歩いていった。 ドアスコープを覗いて、辺りを入念に観察した後、やっと声を出して言った。


 「もうだいじょうぶ。どうやら行ったみたいだわ」 

でも、この出来事に対して彼女が言ったことはたったそれだけで、昼前に道夫と別れるまで、何故だか、その後一言も触れなかった。


 道夫としては、突然のその異様な出来事に対して、たずねてみたい気持ちはじゅうぶんあったが、でもあえて質問はしなかった。


 ふとんの中にもぐらされた時、道夫は考えていた。  

 ひょっとして外の人、彼女の情夫かも。もしそうだとすれば、この場面を目撃されるとただではすまないだろう。殺されるか、いや殺されはしまい。たぶんうんと殴られるだろう。


 それともお金をゆすられるだろうか? そんなふうに考えていて、二度目のだみ声が響いたときには体が小刻みに震えるのがわかった。


 でも十一番さんはドアを開けなかった。そして何事もなかったのだ。

 そのことについて彼女が何も言おうとしないのは、何か深い訳があるのだろう。こちらからあえて聞くこともないだろう。そう思って、昼前になって作ってくれた熱い味噌汁のついた食事の時にも何も聞かなかった。


でも彼女はずっときまり悪そうな顔をしていて、口数もうんと少なかった。


 そんなことがあって、彼女のマンションを昼過ぎに去り、次の日から四~五日ぐらいはエレベーターの中でも彼女と話す機会はなかった。でもしばらくの間は、彼女のマンションでドアが激しくノックされた時のことが思い出され、あのときドアを激しくノックした男の人、いったい彼女の何なんだろう。という思いが頭を離れず、しつこくつきまとっていたが、日がたつにつれてそうした思いも薄らいでいき、その後はまた彼女に会っていろいろ話したいな、という思いだけが募ってきた。


つづく


次回 9月25日


2025年9月13日土曜日

この作品を読まずして山本周五郎は語れない

 


 

書評 「青べか物語」 山本周五郎 新潮文庫


山本周五郎は日本の小説家の中では最も作品を多く出している多作作家の一人です。

それをよく示すのは、新潮社だけでも文庫を主として作品数が約200点に及ぶというから驚きです。

これだけ多ければ読者の作品選びも大変で、いったい何から読めばいいか迷ってしまいます。

そこでおすすめするのですが、最初はぜひこの作品から始めてください。

この作品を読めば山本周五郎が小説家としていかに素晴らしいかが良くわかります。

素晴らしいとは、読者を楽しませるおもしろくて、味わい深い作品が書ける人のことです。

 

 

作品レビュー   auブックパス

2020/4/16

これはなかなか味わい深い物語である。 しかし、著者の他の作品と同様な「小説」を期待すると肩すかしを食らうかもしれない。 大正末期~昭和初期が時代背景と思われるが浦安近辺の漁師町に数年滞在した「私」の日記のような物語で、当初その「私」は当然、山本周五郎その人であろうと読み進めるのだが、そうではないらしい事が少しずつわかってくる。 この変の微妙な読者の心理変化が独特な感覚を味あわせてくれる。 昭和初期なんて、もちろん私自身は知らない。 しかし、その頃の郷愁やノスタルジーはなんとなくわかる。 今、三丁目のなんとかとか昭和三十年代がもてはやされているけど、いつの時代でも昔を懐かしむ事は繰り返されていたんじゃないだろうか。 この「青べか物語」も、「私」が感じた当時の町の住人たちの生活ぶりを書き綴ることによって、読者それぞれが持つ郷愁を味あわせてくれるという独自の小説に仕立てられている。 ちょっと難しいのですが、私のような年寄りには凄く楽しめる本でした。


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出版社内容情報

騙し、騙されるのに、なぜか幸せだったりする。根戸川の下流にある浦粕という漁師町を訪れた私は、沖の百万坪と呼ばれる風景が気に入り、このうらぶれた町に住み着く。言葉巧みにボロ舟「青べか」を買わされ、やがて“蒸気河岸の先生”と呼ばれ、親しまれる。貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々。その豊かな日々を、巧妙な筆致で描く自伝的小説の傑作。

内容説明

根戸川の下流にある浦粕という漁師町を訪れた私は、沖の百万坪と呼ばれる風景が気に入り、このうらぶれた町に住み着く。言葉巧みにボロ舟「青べか」を買わされ、やがて“蒸気河岸の先生”と呼ばれ、親しまれる。貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々。その豊かな日々を、巧妙な筆致で描く自伝的小説の傑作。

 

著者等紹介

山本周五郎[ヤマモトシュウゴロウ]
1903‐1967。山梨県生れ。横浜市の西前小学校卒業後、東京木挽町の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。1926(大正15)年4月『須磨寺附近』が「文藝春秋」に掲載され、文壇出世作となった。『日本婦道記』が’43(昭和18)年上期の直木賞に推されたが、受賞を固辞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

出典:紀伊国屋ウェブ


2025年9月11日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈3〉ナイトボーイの愉楽(9)

    

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 それからすすめられるままにビールを何杯も何杯も飲んだ。

 アルコールには決して弱い方ではない。ビールに限らず、ウィスキーだろうが日本酒だろうが、歳のわりには普段からいろいろ飲んでいる方だった。むろん限度はあるが、これまで同僚などと飲んでいて、途中で酔いつぶれるなどということは一度もなかった。


 しかしこの夜だけは様子が違った。

 テーブルの上にビールの空き瓶が五~六本並んでいるのを微かに意識していて、それから十一番さんが「かわいいわ」と言いながら、ほっぺたにチュッとキスしたのを覚えていて、記憶にあるのはそこまでで、それからどれくらいたってからであろうか、気がついた時には柔らかいベッドの中にいた。 目を開けてからしばらくは記憶がすっかり途切れていた。


 いったいここはどこだろう。 頭を持ち上げてあたりを見渡そうとしたとき、すぐ横で「クスッ」という笑い声とともに、聞き覚えのある女の人の声が聞こえてきた。


 「目、さめたの?よく眠ったわねえ。あれからもう三時間もたつのよ」 声とともに首筋辺りに温かい息がかかり、ようやく道夫は気がついた。 寝返って声のほうをふり向くと、こちら向きになった十一番さんの顔がすぐ前にあり、危うく頭がぶつかりそうになった。


 「あれー、どうしたんだろう僕。いったい今何時なんですか?」

 「十時前かしら、あなた六時過ぎからずっと寝ていたのよ。どうご気分は?」

 十一番さんのその声で、さっきより少し意識がはっきりしてきた。


 すぐ目の前に黒いスリップの紐がかかっただけの裸の肩があった。それを目にしたとき、さらに目は冴えてきて、体の中心部にはみるみる力がみなぎってきた。

 そして、そのまま彼女の上に覆いかぶさりたい衝動をかろうじて抑えながら言った。


 「六時からって、よく覚えていないんですけど、僕その時間に酔いつぶれたのですか?」

 「そうよ。二人でビールを六本も飲んじゃって、あなたったら、「ぼく酒は強いからだいじょうぶ」と言いながら、ごろっと横になったと思ったら、そのまま大きないびきをかいて寝てしまったのよ。ここまで連れてきてズボンを脱がすの大変だったんだから」

 彼女はちゃめっぽくクスッと笑いながら言った。


 「ズボンを脱がせた」と聞いて、道夫はハッとした。そしてすぐ手を下にやってみた。

 伝わってきたのはすべすべとしたパンツの手触りと体温だけで、硬いジーンズの感触はどこにもなかった。それを確認したとき頭はさらに冴えてきた。

 

 今ぼくはベッドの中にいる。しかもすぐ横にはスリップ一枚の十一番さんが横たわっている。こうなることへの期待はあるにはあった。でもろくに手順も踏まず、気がついたらこうなっていた訳で、プロセスの重要な部分が欠落していて、それ故に今の状況が信じられなかった。


 「ねえ、もう頭すっきりした?」 耳元でまたいちだんとハスキーで甘ったるい声が響いた。


 「はい。もうすっかり」 こうした状況が信じられないと思いながらも、彼女の甘い声と鼻をつく微かな体臭に、道夫はさらに激しい欲望を覚えていた。


 「それでぼく、あなたに何かしましたか?」 そんな記憶はまるでなかったのだが、念のためそう聞いてみた。


 「何かしたって? そんなことできる訳ないでしょう。あんなにぐでんぐでんになっていたんだもの。それはこれからだわ」

 「それはこれから」 その言葉に道夫の体にピリッと戦慄が走った。


 考えていたのはそこまでで、十一番さんの 「ねえ早くう」と言う声を聞くや否や、道夫はさっと体を回転させると、彼女の上へ激しくかぶさっていき、もうがむしゃらにその唇へ吸いついていった。


 豊満な彼女の体にかぶさって、一回目はあっという間に果ててしまった。

 われながら、すこしはやすぎるなと思い、なにか十一番さんに悪いような気がして、彼女の顔をのぞき込むと、やや遠慮がちに聞いてみた。


 「はやかったですか?」 「そうね、若いからしかたがないわ。でも勢いがあってよかったわ」

 彼女はまたクスッと笑いながら答えた。


 それから煙草を一本すって、二人でたわいない世間話をして、三十分ぐらいたってからであろうか、横合いから顔を道夫の耳元まで寄せて、十一番さんが囁いた。

 「ねえ、もう一回できる?」 二十歳の男の耳に、その言葉はずいぶん刺激的な響きをもって入ってきた。道夫はみるみる回復してきて、ぐるっと体を回転させると、今度はゆっくり余裕をもって彼女を抱き寄せた。


 それから一時間余、ベッドの上でかなり激しく乱れていく十一番さんをまのあたりにしながら思った。 男と女のこういうことは、やはりある程度の時間をかけることが必要なんだな、と。 


 その夜道夫は、少しだけだがこのことに関して進歩があったように思った。


  次の朝、九時を過ぎて目を覚ました。 昨夜はあの後、一時間以上もとりとめもない話をして、彼女の肩を抱いたまま知らないうちに寝てしまった。


 そして目覚めたのが今なのだ。横手では、スヤスヤと心地よさそうな寝息をたてて十一番さんはまだ眠っていた。 


外は曇っているのかカーテンからもれる光はそれ程まぶしくはなかった。 いつもなら英語学校へ行く時間だ。でも昨日ここへやって来る前から、 ひょっとして明日は休むことになるかも。 そう思っていたこともあってか、休んだことに対してなんら呵責めいたものは感じなかった。 それより起きてからその後どうしようかと考えていた。


つづく


次回9月18日(木)


2025年9月9日火曜日

読売新聞 「人生案内」・時代を反映した相談の内容

 



読売新聞の「人生案内」が大好きです。

世に悩みごとの種はつきまじ、ではありませんが。AI時代に突入したとはいえ、人の悩みがなくなるわけではありません。

悩み事には恋愛、借金、人間関係など時代を問わない定番がありますが、見逃せないのは今の時代を象徴するような悩みのテーマです。。

以下は「人生案内」で最近取り上げられた2つのテーマのご紹介です。

 

(その1) メディア不信 情報偏る息子

2025/09/05 05:00

 50代の会社員女性。20代の大学生の息子が、最近は政治に興味を持っています。ただ、情報源がインターネットのみに限られているため、彼の政治に関する発言はひどく偏っていて危険だと思うことも多いです。 新聞やテレビについては「オールドメディアの情報を信じることは一切できない」と主張し、全く見ることはありません。そのため、一般常識的な部分が欠如していると思うところもあります。

 「ネット上の情報だけだと偏るよ」と私が声をかけても、「ネットから多角的に情報を集めているから偏らない」と聞く耳を持ちません。とにかく既存のメディアを毛嫌いしており、新聞の教育への活用にも、「情報操作だ」と批判的です。 メディア不信の強い息子にこの先、どのように接していけばよいですか。(神奈川・Z子)

(その2) 民間に就職 やりがい感じず

2025/09/06 05:00

 20代の会社員女性。今春から民間の企業で働き始めました。仕事にプレッシャーを感じる日々ですが、同期、先輩、上司と人間関係に恵まれ、何とか働いています。 ただ、私は市役所でのアルバイトなどを通して地域住民を支える仕事に魅力を感じ、学生時代は公務員志望でした。地元の市役所への就職は果たせず、父の知人の推薦で現在の職場に採用してもらいました。

 現在の仕事内容に不満はなく、目の前の仕事に全力で取り組むしかないと思っていますが、やりがいを感じられず、自分がなぜここで働いているのかとむなしい気持ちになります。公務員への未練からいまだに抜け出せず、友人が公務員の内定を得たため、ますます劣等感やモヤモヤ感を拭えません。 公務員に再挑戦して転職できてもうまくいくか分かりませんが、現職に一生をささげる自分も想像できません。今後どうしたらよいですか。(神奈川・A子)

出典:読売新聞オンライン


2025年9月7日日曜日

ある外国人バイヤーのつぶやき・「富士山をはっきり見たことが一度もない」《再掲載シリーズ No.12》

 


初出:2011年5月31日火曜

更新:2025年9月7日日曜日



ホテルマン時代に商用でよく日本にやってくるあるアメリカ人バイヤーが、冗談とも本気ともつかない口調で私に話したことがある。

「これまで10回ぐらい東京、大阪間を新幹線で往復したけど、まだ1度も富士山をはっきり見たことがない。富士山って本当に日本にあるの?」

私は思いがけないこの質問に対して答えに窮したが、かろうじてこうこたえた。

「静岡県ってところにちゃんとありますよ、この次は見れるんじゃないですか」

後でそのことについて考えてみたのだが、彼がああ言うのももっともだと思えた。

一般に言われているところによれば、富士山が頂上まではっきり見えるのは10日に1度ぐらいだそうである。

ということは1年に40日弱でひと月の日数より少し多いだけなのだ。

だとすれば残りのあと300日以上は富士山ははっきり見えないということになる。

したがってアメリカ人バイヤー氏が言うこともさして不思議なことではないのである。

往復で10回ぐらい行き来したとはいえ確率からすればそれはじゅうぶん有り得ることだからである。

また、商用で新幹線をしょっちゅう利用している知り合いのT氏もこう言っていた。

「僕も1年に何度も乗ってるが、その外人さんと同じでこれまでほとんどはっきり見えたことがない。

かろうじて見えるのも10回に一回ぐらいの割じゃないかな、まあ冬場の晴れた日ははっきり見えるけどね」

また別の知人もこう言っていた。

「私は日頃の行いが悪いのか、この区間を新幹線に乗って富士山を見たことがほとんどない。いつも雲の中にかくれてばかりいるんだ」

考えてみればJR東海道線を行き来する旅行者にとって富士山を見ることは大きな楽しみのひとつなのである。

したがって何度も続けて見ることが出来ないということは大きな失望なのではないだろうか。

特にこれが期待の大きい外国人であればなおさらのことであろう。

ではこうしたアイデアはどうだろう。

JRは静岡県を新幹線が通過するとき電光パネルでそれを知らせるサービスをしているが、それに加えて富士山が見えない日は大きなスクリーンに富士山の美しい画像を映して見せてはいかがだろうか。

そうすれば、旅人にとっては一縷の慰めになるのではなかろうか。

特にはるばる日本を訪れた外国人団体客などに対してはそれくらいのサービスをしてもいいのではなかろうか。

日本の観光PRのためにも・・・。


2025年9月4日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈3〉ナイトボーイの愉楽(8)

 

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               8

 

その日 英語学校の授業では珍しく居眠りをしなかった。

 いつもなら眠たくて仕方ないその時間帯にも、頭ははっきり冴えていた。でも講義は少しも頭に入っておらず、さっきから考えているのは四時に会う十一番さんのことばかりだった。


 四時まであと三時間少々だな。三時にここを出て、中崎町までだと歩いても三十分位だろう。でもそうすると三時半には着いてしまう。どうしようか? 三十分くらい梅田の喫茶店で時間をつぶそうか。それとも近くまで行ってぶらぶらしていようか。


 普段だとなんということなしに過ごしてしまうたった三十分の時間だが、このときの道夫にはなぜだか長い時間に思えた。


 彼女のマンション、一体どんなのだろうな。そこへ行って二人で差し向かい、いったいなにを話したらいいんだろう。僕より十歳以上も年上のあの十一番さんと。


 桜橋の学校のあるビルを三時少しまわってから出て、梅田まで歩いてきたところで、ふと道夫は思った。


 ひょっとして今晩は彼女のマンションに泊まることになるかもしれない。彼女の方が「そうしろ」と言うか、僕の方から「そうさせてください」と言うか、夕方四時に行くんだから、そうなることは考えられる。もしそうなったらどうしよう。別の部屋で寝るのだろうか。それとも同じ部屋に。


 駅前の長い歩道橋をわたり、阪急デパートのほうへ下りてきて、そんなことを想いうかべながら、息苦しくなるほど胸をふくらませて歩いていた。


 約束の四時にはまだ四十五分もあったが、そのまま十一番さんのマンションに向かうことにした。なるべく四時近くに着くようにゆっくり歩いていけばいいと思っていた。


だから五~六ヶ所あった横断歩道の前まで来ても、信号が青にかわってもすぐには進まず、しばらく待って青から黄色にかわる直前に歩き始めたりして、これで十分くらいは余分にかかかるだろうなどとたわいなく考えていた。


 大通りを一キロほど北へ向かって直進して、また大きな交叉点を渡ったところで電柱にはった中崎街一丁目と記された青い表示板が目に入った。


 「どうやら着いたようだな」 そうつぶやきながら立ち止まってぐるっとあたりを見渡した。 それからポケットに手を突っ込み、彼女がくれたメモを取り出した。


 〈交差点をわたって最初の筋を西へ三十メートル、タバコ屋前の四階建ての白い建物、そこの三階の三〇二号室〉


 道夫はメモを見て、それをまたポケットに押し込むと、再び歩き始めた。

 角を曲がって少し歩いたところで前方二十メートル位のところにあるタバコ屋の看板が目についた。 


ああ、あそこだな。タバコ屋の前の少し古びた四階建ての四角い建物に目をやって、時計を見ると三時五十分をさしていた。


 四時十分前か。ちょうどいい時間だ。そうは思ったものの、その建物の階段の前まで来たときには、言い知れぬ期待感からか、なぜか急に胸苦しくなり、さっきより余計に息がつまるのを感じた。 


それでも階段を上がり、二階の踊り場で一息入れて、呼吸を整えてから目ざす三階へと上がっていった。 


三階へ上がると、そこには通路を隔てて緑色のドアが二つづつ向かいあって並んでおり、三〇二号室は階段から離れた奥の方にあるひとつであった。        

 三〇二号室の前まで来てドアをノックする前に大きく深呼吸した。


 夕げにはまだ少し時間があるせいか、あたりは深閑と静まり返っており、コンコンと軽くたたいただけなのに、鉄製のドアの音は驚くほど大きくあたりに響いた。


 周りを気にしながら、二度目のノックをしようとしたとき、いつもエレベーターの中で聞くハスキーな声とは違って、一オクターブ高い「ハイ」という声がドアの向こう側から聞こえ、その後カチッという錠前のはずれる音がしてドアが開いた。

 

まぎれもないあの十一番さんが目の前に立っていた。


「あらいらっしゃい。時間どおりだったのね」 またいつものようにハスキーな声に戻って彼女が言った。 


「こんにちは。お言葉に甘えて早速お邪魔しました」  


 初めて目にした普段着姿の十一番さんを前にして、この姿もまた魅力的だ。 と思いながら道夫はピョコンと頭を下げた。


「まあ、お言葉に甘えてだなんて、若いわりには殊勝なことをいうのね。あなたも。


さあお上がりにになって、狭いところだけど」 そう言って横向きになった黄色いカーディガン姿のふっくらとした胸の隆起がちょうど道夫の目の前にあり、ようやく整いかけた息づかいが再び激しさを増してきた。


  「ねえ、ここすぐに分かった?」 道夫を奥の小部屋に案内して、キッチンに立った十一番さんが言った。 


「はい。桜橋からずっと歩いてきたんですけど、誰にも聞かずすぐわかりました」

 

「あら、やっぱり歩いてきたの。だいぶかかったでしょう。でも若い人は元気でいいわねえ」 そう言った彼女の声は明るく澄んでおり、いかにも道夫を歓迎しているかのようだった。


 「ねえビール飲むでしょう?」 冷蔵庫のドアがパタンとしまった後で彼女が聞いた。


 「はい。いただきます」 


 「お酒つよいの?」 


 「いえ、そんなには」

 

「お歳、二十歳だったわねえ、だったらもう堂々と飲めるんだ」


 お盆にビール二本とオードブルのようなものを盛ったお皿を載せて、十一番さんはまた道夫の前に戻ってきた。


 「ねえ今日はゆっくりできるんでしょう?」 


ビールとお皿をテーブルの上に置きながら、彼女はそれまでにない甘ったるい声で言いながら、正面から道夫の顔をじっと見た。


 「は、はい。それはまあ。今夜は僕も仕事休みですから」


 ここへ来る途中で考えたことがほぼ現実になりかけている。

 頭の中でチラッとそう思ったが、「今日はゆっくりできるんでしょう」 と、十一番さんが言ったその言葉の意味はまだはっきりと理解していなかった。


つづく


次回 9月11日