2025年12月20日土曜日

本を売って酒代をつくっていた頃が懐かしい    再掲載シリーズ No.18

 

 

若い頃 給料前の金がないときは古本を売ってしのいでいた

酒が飲みたくて飲み屋に行きたいのだが給料前で金がない。貯金もないので下ろせない。さてどうしよう。

なんとかして飲み代を作らなければ、質屋に行こうか、でもめぼしい質草がないので無理、他に方法はないか、そうだ本を売ろう、たまっている本を古本屋に持っていくのだ。

こんな結論に達して、私はよく古本屋へ通ったものです。まだ社会へ出て間もない20代前半のころの話です。

 

大阪駅地下にあった店は古本を高く買ってくれた

古本屋へよく通ったのは20代前半ですから昭和40年頃のことです。その頃は大阪中之島の都市ホテルでホテルマンとして働いていました。

西淀川区の叔母宅へ下宿しており、通勤にはトロリーバスを使って梅田まで出て、阪神デパートの前でちんちん電車に10分ほど乗って職場まで行っていました。

古本屋はその通勤途上の大阪駅の地下街にあったのです。

大阪駅の地下街といえば今はきれいなショッピングアーケードが広がっていますが、当時はそれほど整備されてはおらず、狭いエリアに種々雑多な商店街がひしめいており、単に地下にあるだけの平凡な商店街でした。

その店は古物商で、扱っているのは本だけでなく、カメラや貴金属もあったようです。

この店を選んだのは通勤途上で便利がいいだけでなく、こちらの期待以上に高く買ってくれたからです。

どれくらい高く買ってくれたかというと、例えば新刊書の売れ筋の本だと定価の70%ぐらいも出してくれるのです。つまり1000円で買ったものは700円、1500円だと1050円にもなるのです。

この金額、今の古本価格に比べると雲泥の差があります。今では、例えばブックオフとかの古本屋だと、新刊書でも買取価格は定価の1割り程度でしかありませんから、まさに比較になりません。

なぜそれほど高かったのかといえば、当時は新刊書の古本があまり出回っておらず希少価値があったからに違いありません。つまり、今と違って市場価値が高かったのです。

 

一番高く売れたのは平凡社の百科事典

時期はうんと後になりますが、30代の中頃に一度だけ随分高価で古本を売ったことがあります。

その時は大阪駅地下の店ではなく、桜橋の駅前第三ビル1階にあった古書店です。

そのときは少しまとまったお金が必要でしたので、考えた末、苦労して月賦で買った平凡社の世界大百科事典を売ることにしたのです。

どこに売ったらよいかよくわからず、そうしたことに詳しい友人が教えてくれたのが大阪駅に近い桜橋にある古書店です。

その百科事典は日本で最も大きいと言われる全部で35刊にもなる豪華装丁のもので、購入価格は確か14万円ぐらいだったのではないでしょうか。

それほどの金額の高価な書物ですから、買取価格もある程度は期待しており、少なくても定価の2割以上はかたいだろう、と思っていました。

さて、いくらで買ってくれたかといえば、なんと期待額を大きく上回る5万5千円もだしてくれると言うではありませんか。

即座にOKの返事を出して売却したのは言うまでもありません。後にも先にも、これだけの金額で古本を売却した事は他にありません。

 

昔は本を売って生活費の足しにした作家が少なくなかった

今ではよく名の知れた文豪と呼ばれるような有名作家でも、まだ売れていない貧乏な時代がありお金に苦労したこともあるようです。

そうした作家のエッセイなどを読むと、お金がないとき金策に苦労した話がよく出てきます。

今のように消費者金融が発達していない時代ですから、金策のための選択肢は多くありません。

最も多いのは知り合いに借金を申し込むこと。次が質屋に行くこと。そして3番目は本棚においてある自分の蔵書を売ることです。

なんと行っても作家ですから本はたくさん持っています。その中から金になりそうなめぼしい物を選んで古本屋へ持っていくのです。

いや自ら行かなくても、事前にははがき1枚出しておけば、相手方が出張して取りに来てくれるところもあったようです。

いわゆるお得意さんになっているようなお店なのですが、文豪と呼ばれる作家でもそんな懇意な取引先ができるほど頻繁に本を売っていたのです。


2025年12月17日水曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈4〉直線コースは長かった(9)

  

  adobe stock


まさか!とは思ったが、やはりゴール前で白の馬は激しく差し込んできた黒の馬に抜かれていたのだ。アナウンスを聞いて、そのまま三歩ほど歩いたところで、体の力が見る見る抜けてくるのがはっきりわかった。そして立っているのもいやだという気になり、近くのベンチにへなへなと座り込んだ。


 そんなばかな。さっきの人だって、白が鼻差で残っていた、と言ってたではないか。

 久夫にはまだ結果が信じられなかった。そして「先ほどの放送は間違いでした」と、まさかあるはずもない場内放送が聞こえてくるのでは、などとばかげたことを力なく考えていた。


その場にどれくらい座っていただろうか。次に耳にしたのは、「第六レースの結果をお知らせします」というアナウンスであった。


レースとレースの間は三十分だから、第四レースが終わってからその場所に一時間以上もポカンと座りつくしていたのだ。その一時間余、第四レースでもう少しのところで取れた大金を逃した悔しさと、六万円もの馬券を一度に買わせた男のことが交互に頭にもたげて来ていた。


 それにしてもあの男、いったい誰だったのだろう?六万円の馬券を買わせたのは好意からなのだろうか?確かにあの男が言ったように、五枠の黄色の馬は途中でズルズル後退して着外に敗れた。そしてトータルな結果にしても、一着のピンクの馬は別格としても、最後に黒の馬に抜かれた白と橙の馬を含めて、予想した馬のすべてが四着以内に入っており、実にいいとこをついてたではないか。


でも、もし黒に抜かれずに、あのまま〈7―8〉と入っていて大金をつかんでいたとすれば、いったいどうやってあの男を見つけ、どのようにお礼を言ったらよいのだろう? 


少しだけ冷静さを取り戻して、久夫がそんなことを考えていたときだった。それまでのものと違って、今度は男の人によるアナウンスが聞こえてきた。


「場内の皆様にお知らせします。たちの悪いコーチ屋グループが場内に入り込んでいます。馬券売り場近くで知らない人に話し掛けられたときはじゅうぶんご注意ください」


一回目のときにはそれを聞き流した。でも二回目に同じアナウンスが流れてきたとき、〈コーチ屋〉と言う言葉が耳について離れなかった。


コーチ屋って、いったい何だろう?コーチと言えば人を指導すること。コーチ屋、つまり人を指導する商売か。そんなふうに考えていて、ハッと気がついた。馬券売り場窓口の近くでなれなれしく近づいてきたあの大柄なパンチパーマの男の姿が脳裏に浮かんできたのだ。


あれだ。あの男がコーチ屋だ。そうだ、自分はそれに引っ掛かったのだ。「やあ久しぶりですねえ」と近づいてきたときのあの懐かしそうな声。親しみに満ちたこぼれんばかりのあの笑顔。そうだ。あれは全部やつの芝居だったのだ。そうだ。きっとそれに違いない。どうりでいくら考えても思い出せなかったわけだ。


最初からあんな男知らなかったのに、人に他のことを考えさせて、その隙に自分のペースに乗せてしまう。しかも小道具に前のレースで取ったという部厚い札束?をちらつかせながら。


でも、レースの予想はいいとこついてたではないか。黄色の馬は足を故障していて駄目だと言った。そのとおり、あの馬は第四コーナー手前で大きく後退して着外になっている。馬については彼らもそれなりに研究しているのであろうか?


それにしても不思議なのは、買った馬券を全部渡してサッと去っていった。騙したとしても彼には何の報酬もないではないか。


そう考えていると、久夫は何がなんだかよくわからなくなってきた。

腹立たしさと悔しさはまだ残っていたが、さきほどに比べるといくらかは冷静さを取り戻してきていた。


 そうだ。さっきアナウンスした男の人のところへ行って聞いてみよう。もし自分がそうだったのなら被害届を出した方がいいんだし。


ふとそう思うと、一時間以上も座っていたベンチをやっと立ち上がり、建物の奥の方へと歩いていった。時計はすでに午後二時をまわっており、次は第7レースが行われようとしていた時だった。


一階の通路の中ほどまで進んだところで、手にスピーカーを持って観客の整理に当たっていたガードマンにたずねてみた。


「あのう、この競馬場の事務室はどこでしょうか?」

「事務室って、何しにいかれるのですか?競馬開催中はなかなか入れてくれませんよ」久夫よりうんと若いガードマンが事務的な口調で言った。


「じつは僕、先ほど放送で聞いたコーチ屋っていうのに引っかかったようなんです。それでそのことを・・・」


「そうなんですか。それだったら警備室へ行ってください。この突当たりを左に曲がったところです」そのガードマンは事情を聞いてもまったく同情するそぶりは見せず、淡々とした口調で言って、手でその方向を示した。


教えられたとおり、一階の隅のほうにある警備室に行くと、入り口を入ってすぐの休憩室らしい場所で、五〜六人の若い警備員が所在無さげに椅子に座って休んでいた。


たぶん休憩時間なのだろう。皆ぐったりとした疲れた表情をしていた。そのうちの一人に向かって、「あのう、コーチ屋のことで」と久夫が切り出したとたん、一番奥に座っていた男が「あなたも引っ掛かったんですか?これで今日五人目」と、とんきょうな声を上げた。


その後、その男はジロリと久夫を見て、「こちらへどうぞ」と、突き当りのドアを開けて別の部屋を案内した。


つづく


次回12月25日(木)


AIの回答にきれいごとが多いのはなぜか


例えば現在の異常な米高の要因などでJAトップの責任をAIに尋ねてみると、その回答は国民の側に立たず、むしろJA側に加担しているような、きれいごとで済まそうとする回答が多いことに疑問を感じますが、皆さんはどうお感じでしょうか。この問題をAI自身に尋ねてみました。

 

AI による概要

AIの回答がきれいに聞こえる主な理由は、

AIがどのように設計され、訓練されているかという根本的な側面に起因しています。これらは技術的、倫理的、そして実用的な制約の結果です。

1. 安全性と倫理の設計(バイアスと有害性の回避)

最も重要な理由は、AIシステムが「安全で、役に立ち、偏見のない」出力を生成するように設計されている点にあります。

有害性・差別的な内容のフィルタリング: AIは、訓練データから学習した潜在的なバイアス(偏見)を避け、差別的、攻撃的、あるいは有害な内容を生成しないように厳格な安全フィルター(セーフティガード)が設定されています [1]。そのため、人間の会話によく含まれるような棘のある言葉や露骨な意見は意図的に排除されます。

倫理的ガイドライン: 開発企業(Google、OpenAIなど)は、AIが社会的に受け入れられ、信頼されるような応答をするための厳しい倫理ガイドラインを設けています。これにより、物議を醸すような話題では中立的で、しばしば理想論的な回答をする傾向が強まります [1]。

2. 訓練データの性質と目的

AIは膨大な量のテキストデータ(インターネット上の書籍、記事、ウェブサイトなど)で訓練されます。

規範的な言語表現の学習: インターネット上の公式な情報源や教育的なコンテンツは、丁寧で規範的な言葉遣いが多いため、AIは自然と「きちんとした」表現を学習します。

平均的・包括的な視点の採用: AIは特定の個人の極端な意見ではなく、データ全体の「平均」的な見解をまとめようとします。結果として、最大多数の人が受け入れやすい、角の取れた回答になります [1]。

3. 機能的な制約と目的

AIの目的は、ユーザーの質問に対して正確かつ有用な情報を提供することにあります。

解決志向とポジティブなトーン: ユーザーが問題を解決しようとしている場合、AIは前向きで協力的なトーンを維持するよう努めます。否定的な言葉や絶望的な意見は、ユーザー体験を損なうと見なされることが多いです。

まとめ

AIの回答が「きれいごと」に聞こえるのは、悪意や無知からではなく、安全性、中立性、そして有用性を最優先するように意図的に設計・制限されているためです。現実世界の複雑さや矛盾を完全に反映するよりも、無難で前向きな姿勢を保つことが、現在のAI技術における標準的なアプローチとなってい


2025年12月15日月曜日

T.Ohhira エンタメワールド ・も くろく


  • ブログ「生涯現役!!日記」に目下連載中の「T.Ohhira エンタメワールド」ですが、このシリーズは全部では8作品掲載予定です。

  • いま掲載中の作品は第4作「直線コースは長かった」ですが、今回のもくろくは掲載終了の第3作までとさせていただきます。

  • 残り5作につきましては、掲載終了後順次付け加えていく予定です。


  マンハッタン西97丁目   (No.1~51)

  うわさ 台風 そして青空  (No. 1~13)

  ナイトボーイの愉楽   (No. 1~13)


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