2025年5月29日木曜日

T.ohhira エンタメワールド〈2〉うわさ 台風 そして青空(7)

  


〈前回まで〉砂田文夫が塾長を務めるH市のFC学習塾事務所でガス爆発未遂事件が起きたのは、生徒数500名達成した祝賀会を開催した四月末の土曜日からわずか二日後のことであった。

月曜の朝いつもの時間に事務所へ出勤した砂田がドアを開けると同時に、ブワッとした濃厚なガス臭がすごい勢いで顔に吹きつけきた。

思わず身体が後ろへのけぞるほど強烈なものだったが、すぐにガス漏れだと気づいた砂田はハンカチを口に当てて部屋の隅にあるガス栓に向けて突っ込んだ。

シューシューと不気味な音を立てて噴き出しているガス管の栓を閉め、素早く窓際に移り4つある窓をすべて開け放った。入ってから出るまで30秒もたたないほどスピーディな行動であった。

部屋を飛び出して一階までかけ降りた後、砂田は動転した気を落ち着かせながら考えた。土曜の夕方から月曜の今朝まで、ここへは誰も入っていないはずだ。なのにガス栓が開け放たれていた。日曜日は塾関係者は誰も入っていないはずなのになぜだろう。関係のない部外者が侵入したのだろうか。泥棒だろうか。でも室内は荒らされたような痕跡はなかった。とすればこの塾の様子を知っている者の誰かだろうか。でも、いったい誰が、何の目的で、何か「恨み」を持つ者の仕業だろうか?

ガスが爆発して大事故に至ったかもしれないのに、そんな恐怖を忘れたかのように、砂田はしきりに犯人について考えていた。


 7

 ふと「恨み」というワードが脳裏をかすめた文夫だが、瞼にふいに一人の女性の姿が浮かんできた。それは半年前までの沢井多恵の前任の女性事務員、古賀弘美の姿だった。


 古賀弘美、まさか彼女の仕業では?

 辞めてからの消息は知らないが、あのとき彼女は凄く怒っていた。まさかその腹いせに?。


 古賀弘美、三十二歳、独身。

 文夫のところへは事務員として二年前に入ってきた。

 仕事を任せる上で特に大きな欠点はなかったが、その歳で独身のせいか、ややひがみっぽいところがあり、ちょっと叱っただけでも、それが長く尾を引き、文夫としては、どちらかと言えば使いにくい面のある事務員だった。


 あれは去年の春先のことで、桜がチラホラ咲き始めた頃だった。

 講師の給与計算に当たっていた彼女が、その月の二人の講師の給料について、金額を間違えて計算し、銀行で振込を済ませたあと、当の講師の一人から間違いを指摘されたのであった。


 計算し直してみると、一人は二万二千円、もう一人の方は実に四万円も少ない金額を算出していたのだ。普段の彼女の性格を知っているので、文夫としても、些細なことでは怒ったりしないのだが、このときだけは黙ってはいられなかった。


 「古賀くん、駄目じゃないか。講師料の計算には念には念を入れて、といつも言ってるだろう。

 にもかかわらず同じ月に二人分も間違うとは、いったいどうしたというんだ。金額を多く計算違いしたのならまだしも、かなり少なく計算したりして、こういうことは講師の士気に凄く影響するんだ。君だってイヤだろう、そんなことされたら。二人にはぼくがよく謝っておいたからいいものの、以後気をつけてくださいよ。別に君の計算能力に問題がないのなら」


 そう言ったあと、弘美の表情が一気に曇ったのを見て、今の怒り方、すこしまずかったかな?と文夫は思った。特に最後の君の計算能力うんぬんというのがまずかった。商業簿記、ソロバン、ともに二級の免状を持っている彼女がそんなはずはなかったからだ。


 その次の日だった。古賀弘美が厳しい表情で「わたし辞めさせていただきます」と、辞表をもってきたのは。


 「塾長はあんなふうにわたしを責められましたが、言いにくいんですけど、わたしあの計算に当たった日、生理でひどく頭が痛く気持ちも乱れていて、それに後で塾長が点検してくださったとばかり思っていて、そのまま振り込んだのです。わたしやっぱり計算能力がないんです」


 叱るとしばらく尾を引いて、その後数日間は機嫌が悪くなる彼女の性癖はよく知っていたが、まさか辞めると言うなどとは文夫にも予想がつかなかった。彼女にそう決意させるほど、あのときの叱り方はきつかったのだろうか。


いや、そんなことはない。上司であるのなら、あの際あれぐらいの叱り方をするのは当然だ。もっともミスを起こした日が、彼女の生理日で体調が悪かった事を知っていれば、叱り方も少しは違っていたかもしれないのだが。


「辞めるって君、それ昨日ぼくが叱ったことが原因かい? あれくらいのことで何も辞表まで出すことはないだろう。以後気をつければいいんだし」

 文夫はそう言ってはみたものの、彼女については以前から使いづらいと感じていたこともあって、内心はそれならそれでいいとも思っていた。 

 

 「いえ、辞めさせていただきます。今日いっぱいで」

 弘美は無表情で、きっぱりそう言い切った。


 「そうか、それほど決心が固いのじゃしょうがない。君の好きなようにするがいい」

 文夫にしてはいやにあっさり、かつ冷淡に言い放っていた。


 そんな経緯で古賀弘美は辞めていき、その一週間後に職安の紹介で沢井多恵が入ってきたのだ。


 彼女、ああいう形で辞めたせいで、ぼくに対して恨みをもったのだろうか。それで事務所に忍び込んで? でも、もしそうだとしてもドアの鍵はどうしたのだろう? 

 そうだ。いつだったか彼女は事務所の鍵を無くしたことがあった。あれが出てきて、そのまま黙って自分で持っていたのだろうか。それとも紛失したということ自体がウソだったのではないだろうか。いや、そんなことはないだろう。その先あんなことで辞めることになるなどとは、想像することはできなかったはずなのだから。


しかし一歩間違えたら大爆発を起こさないとも限らないようなガスを噴出させるという大それたことが、あの古賀弘美にできるだろうか。いかに恨みがましい性格とはいえ、いや、できはしまい。


 そんなふうに考えていて、最初こそとっさに頭に浮かんできて、もしや彼女では?と思いはしたのだが、次第にその考えは薄れていった。


 とすると他に誰が?



つづく


次回6月5日(木)