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その日は早めにルーティンワークをすませて、伊藤の話をゆっくりと腰を据えて聞いてみようと、七時過ぎになると何もせず来客用のソファにドカッと腰を下ろし、明日以降の浅井に対する攻略方法について考えていた。
明日は噂を流したという二人のうち、かたわれの木島の方で、その次の明後日が、あの憎き浅井との対決の日なのだ。
「見ておれ、浅井の奴。今回のH塾講師に関する忌まわしい噂を流した罰を与えるのは勿論のこと、あの大事故にもつながりかねない恐ろしいガス噴出事件についても一気に吐かしてやるからな」
時計の針は八時を十分まわったのを確認して、文夫はソファから立ち上がり電話機のある事務机のほうへ向かってゆっくり歩いて行った。
「八時過ぎには帰っていますから」伊藤は昼間の電話でそう言っていた。
ああ言った以上、彼とて電話を待っているに違いない。
そう思いながら文夫は十桁のナンバーを念入りに押していった。
あんのじょう、一回だけ呼出音が鳴って、その後すぐ伊藤が出てきた。
「はい伊藤です。砂田塾長ですね。お待ちしていました」
開口一番そう応えた伊藤だったが、要件の重大性にうすうす気づいているのか、その声は少し上ずっていた。
「君以外に、今日は経理の新田くんにも電話したことだし、ぼくが君に何について聞きたいのかは、もう気づいていると思うのだが」
文夫がそう切り出して、それから延々一時間余りも伊藤の話を聞いていた。
伊藤は今回の噂は浅井と木島の二人から聞いたと言った。でも最初に聞いた木島の話はなんとなく具体性を欠いていて、その段階ではまだあまり信じてなかったらしい。
経理の新田にそのことを話したのは、木島から聞いた後、さらに浅井がその場面を微に入り細に入り詳しく説明する話しを聞いてからだった。
「浅井さんがあれほど詳しく説明するものですから、この話は本当なのかもしれない。そう思って浅井さんから聞いたとおりを新田さんに話したんです」
上ずった声の調子は一向に治まらず、伊藤はやや興奮気味に話していた。
「ふーん、それでその微に入り細に入った様子というのだけど、具体的にはいったいどんな様子なのか、よかったら話して欲しいんだ。男同士だし、きわどい話だって別に気兼ねすること無いんだし」
文夫はタバコに火をつけながら、彼からもっとも聞きたいと思っていた部分についてゆっくり伝えた。
「はい、それは浜岡さんと南さんがやってた場面についてです」
「だからその場面について詳しく教えて欲しいんだよ」
「承知しました。では浅井さんに聞いたとおりにお話します。あれはキャンプ二日目の夜の十時ごろだったそうです。浅井さんと木島さんはキャンプファイヤーの火の消火を確認に行った帰りに食堂の前を通ったんです。するとそんな時間なのに食堂の窓から薄明かりが漏れているものですから、誰がいるのかと思って二人で中へ入って入ったそうなんです。
中央の入口から入ってみると、中は薄暗く広いテーブル席の電気は一つもつけられてはおらず、奥の厨房の電気が一つだけついていて、入ったときは暗くてよく見えず人の気配も感じられなかったそうです。
それで浅井さんは、おかしいな、と思ってスイッチを入れて室内の電気を全部つけたんです。
すると厨房の前の隅の方にある長椅子から、パッと上半身裸の男が立ち上がったそうなんです。
それが浜岡さんだったんです。浅井さんは突然のことで初めは何がなんだかよく分からなかったのですが、それが浜岡さんだとわかって、『何してるの?今ごろこんなところで』と聞きながら浜岡さんのほうへ五~六歩近づいて行ったそうです。
すると浜岡さんの下半身も見えてきて、半ズボンはつけてはいるものの、前のチャックが開いていて、そこから大きな黒くて長いものがボロンとはみ出していたんです。そして長椅子の隅には胸がはだけ、ずいぶん乱れた着衣姿の南さんがうずくまるようにして座っていたそうなんです。
浅井さんはびっくりして、それより先へは歩を進めず、再び『なにやってんですか?こんなところで』とだけ言って、すぐきびすを返してドアのところへいた木島さんと一緒に慌てて食堂を出ていったんです。
浅井さんに聞いたのはざっとこんなことです。それから木島さんですが、彼のほうはドアのところへ立ったままで、初めに浜岡さんが立ち上がったところは見たけれど、後はテーブルに隠れていて何も見えなかったそうです。
でも浅井さんから『あの二人がやっていた』と聞き、状況からして、それもありえると思って、ぼくに話したようです。
とは言え彼は、そうだと断定はしていないようでした。浅井さんの話のように具体的なところもありませんでしたし」
伊藤はそこまで一気に喋った。
文夫は相槌を打つだけで黙って話を聞いていて、彼が話に一呼吸入れたところでようやく最初に言ったその場面の〈 微に入り細に入った 状況 〉という意味が分かってきた。
つまり、浅井と木島が食堂に入ったとき、中は薄暗く、浅井が室内の電気を一斉につけたとき、上半身裸の浜岡がパッと立ち上がった。そして近づいてよく見ると、浜岡のズボンのチャックは開いており、中から彼の男のシンボルがボロンとはみ出していて、長椅子の隅には着衣の乱れ南三枝がうずくまるように座っていた。つまり浅井の微に入り細に入った説明とはこういうことなのである。
「よくわかったよ伊藤くん。でも本当に『二人がやっていた』とはっきり言ったんだね」
「ええ言いました。最初ははっきりとした表現は使ってなかったのですけど、ぼくが『ほんとうですかそれ?』と、少し疑った調子で聞いた後に、そんな具体的な様子を説明し始めたのです。
立ち上がった浜岡さんのことも、最初は上半身裸だったとは言ってなかったのに、後で付け足したりしていました」
「木島くんも浜岡くんが上半身裸だったと言っていたかい?」
「いいえ、はっきりとは言っていませんでした。何しろ彼は二人の方へ近づいて行かなかったらしく,よく見えなかったけど、ひょっとしてそうだったかもしれない。そんな表現を使って話していました」
「そうか分かった。ということは現場をよく見て、あの二人がやっていたと断定して言ったのは浅井くんだけなんだね」
「ええ、まあそういうことです。でも塾長、申しわけありませんでした。真偽のほどはともかく、あんな噂話に加担して、それを新田さんに伝えたりして」
「まあそれはいいよ。君も若い男性なんだし、そうした話題をおもしろがることも分かるよ。
それに流した張本人は浅井くんだからなあ」
「浅井くんだからなあ、って塾長、浅井さん他にも何か?」
「伊藤にそう聞かれ、文夫はさっきにセリフはまずかった、と思った。
半年前のガス事故の嫌疑だとか、最近に彼の一連の陰険な行動とかについて、知る由もないこの伊藤に対して、浅井だからなあ、という表現はまずかったのだ。
「いや、そういう意味じゃないんだ。浅井くんはスーパーバイザーで、ぼくの地区の担当者だから、あの二人のことも比較的よく知っているし、つまり何と言うか、知ってるだけについ面白半分で・・・。 さっき君に言ったのはそういう意味なんだよ。
噂の対象になった当人たちも、事実無根だと言っているし、それに彼らの上司であるぼくにしても、非常に腹立たしく思っていることもあって、噂を流した張本人が彼だと言うものだから、つい腹たちまぎれにあんなふうに言ってしまったんだよ。
いやあ伊藤くん、どうもありがとう。今夜の君の話は事実を知る上で非常に役立ちますよ」
終わりのほうでいささか苦しい弁明を強いられたが、伊藤に礼を言って受話器を置いたとき、時計はすでに九時をまわっていた。伊藤とはかれこれ一時間近くも話していたのだ。
それから五分後には文夫はもう事務所を出ており、街灯がない暗い通りをバス停に向かって歩いていた。
つづく
次回7月3日(木)