〈前回まで〉H市のフランチャイズ学習塾塾長の砂田文夫は、その年の4月末、生徒数500名達成記念祝賀パーティを開催したが、そのわずか2日後、何者かによって市内にある塾事務所にガス爆発を仕掛けられた。長時間にわたって大量のガスが噴出されたが、砂田の機転の利いた処置により幸い爆発は避けられた。だが安心してばかりいられなかった。事務所に忍び込んでガスを噴出させた犯人を捜さないといけないからだ。それについてあれこれ考えていると、ふと2年前に退社した事務員の古賀弘美が頭に浮かんだ。仕事のミスで少し強く叱ったのだが、その後すぐ彼女は辞職した。ひょっとしてあの時のことを恨みに思って、今回の犯行に及んだのかもしれない。そう考えて一時は彼女のことが頭から離れなかった。だがしばらく考えた結果、けっきょく「あの気の小さい女性にこれほど大胆な行動はとれないだろう」と、彼女については疑いの対象からはずすことにした。
8
出勤してきた沢井多恵とともにそれから更に十分ぐらい外にいて、「あれだけ窓を開けているんだからもういいだろう」と、二人は階段を上がって四階の事務所へ戻っていった。
ガスはよほど大量に放出されたのだろうか。。恐る恐る踏み込んだ事務所には、まだかなり臭気が残っていて、「しばらく火はつけられないね」と、文夫は自分にも言い聞かせるつもりで沢井多恵に向かって言った。
それからも文夫はずっと忍び込んだ人間についてあれこれ推測していて、三十分くらいたち、室内のガス臭がやっと消えかかった頃、ようやく冷静さを取り戻して横で事務をとっていた多恵がボソリと言った。
「塾長、土曜日の祝賀パーティで本部の浅井さん、何かひどく怒って帰ったみたいですが、あれからどうしたのでしょうね。すぐ大阪へ帰ったのでしょうか?」
「ああ浅井君か。そうだったね」
多恵にそう応えたあと、文夫はハッと気がついた。
本部の浅井。そうだ、彼かもしれないのだ。これまでどうして気がつかなかったのだろう。
彼は土曜日にこちらへ来ていたのだ。しかもパーティ会場で講師たちとかなり激しい口論をして、あげくの果て、途中で席を蹴って帰ってしまったではないか。あのとき、違う輪の女性講師たちと話していて、口論の場には近づかなかったものの、浅井が講師たちに向かって大変な剣幕でまくし立てていたことは遠目にもよく分かった。
なにか、本部の社長に話して、「この地区の担当から外してもらう」とも言っていたそうだ。
あのときの腹いせに彼がここへ忍び込んでガス栓を開いたのではないだろうか?
でも鍵は? 本部に一つ合鍵があるはずだ。それを持ち出すことは彼にとってそれほど困難なことではないだろう。そうだ、古賀弘美なんかじゃない。
やったとしたらあの浅井だ。そうに違いない。
つい今しがたまでは、古賀弘美についてばかり考えており、浅井については少しも思い浮かばなかったのが文夫には不思議に思えた。
恨みを買うことは、過去の出来事に原因がある。 浅井のことに気が回らなかったのは、そんなふうに考えて、古い出来事ばかりに囚われていたからであろうか。それに浅井は本部社員とはいえ、現在は一緒にこの真剣塾で働いていることもあって、存在が身近すぎるため、今回の犯人の対象として気づかなかったのだろうか。要するに外部の者の仕業という考えが強すぎたため、内部の者である浅井を見落としていたのだ。
しかし浅井の仕業だとすると、いつ事務所へ忍び込んだのだろう。バーティ会場から怒って帰った土曜日の夜だろうか? それともあの夜はこちらへ泊って、翌日の日曜日だろうか。
ガスが放出された時刻は分からないだろうか。いやそれは分かるだろう。ガス会社に放出量を基にして調べてもらえばいいんだし。
でもどうしようか。大事故に到らなかったとはいえ、決してこのまま見過ごしていいことではない。警察へ届けようか。そうすると被疑者として、はっきり浅井の名前を出すことになる。でも証拠は? 彼は土曜日の夜からこちらへ来ていた。そしてパーティでこちらの講師たちと激しい口論をして怒って帰っていった。そんな状況証拠がはたしてどれほど役にたつだろうか。
そうだ指紋だ。ガス栓のコックに彼の指紋が残っていないだろうか。急いでいただろうから動転していて、よく犯罪者が行うような、後で指紋を拭い取る行為などする余裕はなかったのではないだろうか。だとすると、指紋は残っているはずだ。もしそうだとすると、絶対の決め手になる。
文夫は一切の仕事に手をつけず、それから一時間近くもあれこれ思いを巡らせていた。
そして十一時前になって、やっと電話の受話器に手を伸ばして、ピッピッと本部の短縮ダイヤルを3度押した。
出たきた事務員に社長の小谷への取次ぎを頼むと、あいにく彼は別の電話で話し中ということで、折り返しコールバックしてくれるように頼んで電話を切った。
それからタバコに火をつけて、少しいらつきながら待っていた。
五分ぐらいして小谷から電話がかかってきた。
「砂田さん、お電話いただいたそうで。土曜日はどうも申し訳ありませんでした。せっかくの祝賀パーティに行けなくて。生徒数500名達成おめでとうございます。いやたいしたものですねえ、わずか二年少しで。今朝浅井くんから聞いたのですが、そちらの講師も全員出席して、大変盛況だったとかで、次の目標は一千名ですね、砂田さん。そのときの祝賀パーティには是非行かせていただきますから」
小谷は普段と何ひとつ変わらない調子のよい口調でそう切り出した。最初は小谷も土曜のパーティには出席する予定だった。ところが金曜日の午後になって、のっぴきならない用事ができたので、明日のパーティには浅井一人だけしか出席できない、と連絡があったのだ。そのためか、電話の声は多少遠慮がちで、いつもと違って必要以上に文夫を立てようとしている様子が伺えた。
そんな小谷の調子に気勢をそがれまいと、文夫は受話器を握った手にグッと力を入れ、
「いや社長、そのことはさておいて、実は今朝大変なことがあったんです」と、普段よりうんとオクターブを上げて言った。
「大変なことが今朝って、いったい何があったのですか? 砂田さん、それひょっとして生徒に関わることですか?」
何かか起ったと言えば、すぐ生徒に結びつけて考えるのも、傘下チェーン塾の総生徒数が一万二千名という組織のトップとしては、仕方ない習性なのだろうか、小谷は怪訝そうな声でそう聞いた。
「いや、朝のことですし、生徒に関することではありません。実は今朝事務所に出勤してみたところ、室内のガス栓が開けられており、凄い勢いでガスが噴出していまして・・・」
文夫は事務所に入ったときの状況をできる限り綿密に小谷に話した。
「ガスが噴出してたって、それで爆発とか火災は起こらなかったのですか、砂田さん」
文夫から思いがけないことを聞かされ、さすがの小谷も普段の調子よさは引っ込め、驚きだけでなく同時に畏怖も感じたような口振りで訊ねた。
「ええ、それについては不幸中の幸でして。いやー、我ながらあのガスの海の中で、よくもあれほど冷静な行動ができたものだと思います。ひとつ間違えたら大爆発を起こしかねないあの状況の中で」。
つづく
次回 6月12日(木)