2025年9月4日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈3〉ナイトボーイの愉楽(8)

 

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その日 英語学校の授業では珍しく居眠りをしなかった。

 いつもなら眠たくて仕方ないその時間帯にも、頭ははっきり冴えていた。でも講義は少しも頭に入っておらず、さっきから考えているのは四時に会う十一番さんのことばかりだった。


 四時まであと三時間少々だな。三時にここを出て、中崎町までだと歩いても三十分位だろう。でもそうすると三時半には着いてしまう。どうしようか? 三十分くらい梅田の喫茶店で時間をつぶそうか。それとも近くまで行ってぶらぶらしていようか。


 普段だとなんということなしに過ごしてしまうたった三十分の時間だが、このときの道夫にはなぜだか長い時間に思えた。


 彼女のマンション、一体どんなのだろうな。そこへ行って二人で差し向かい、いったいなにを話したらいいんだろう。僕より十歳以上も年上のあの十一番さんと。


 桜橋の学校のあるビルを三時少しまわってから出て、梅田まで歩いてきたところで、ふと道夫は思った。


 ひょっとして今晩は彼女のマンションに泊まることになるかもしれない。彼女の方が「そうしろ」と言うか、僕の方から「そうさせてください」と言うか、夕方四時に行くんだから、そうなることは考えられる。もしそうなったらどうしよう。別の部屋で寝るのだろうか。それとも同じ部屋に。


 駅前の長い歩道橋をわたり、阪急デパートのほうへ下りてきて、そんなことを想いうかべながら、息苦しくなるほど胸をふくらませて歩いていた。


 約束の四時にはまだ四十五分もあったが、そのまま十一番さんのマンションに向かうことにした。なるべく四時近くに着くようにゆっくり歩いていけばいいと思っていた。


だから五~六ヶ所あった横断歩道の前まで来ても、信号が青にかわってもすぐには進まず、しばらく待って青から黄色にかわる直前に歩き始めたりして、これで十分くらいは余分にかかかるだろうなどとたわいなく考えていた。


 大通りを一キロほど北へ向かって直進して、また大きな交叉点を渡ったところで電柱にはった中崎街一丁目と記された青い表示板が目に入った。


 「どうやら着いたようだな」 そうつぶやきながら立ち止まってぐるっとあたりを見渡した。 それからポケットに手を突っ込み、彼女がくれたメモを取り出した。


 〈交差点をわたって最初の筋を西へ三十メートル、タバコ屋前の四階建ての白い建物、そこの三階の三〇二号室〉


 道夫はメモを見て、それをまたポケットに押し込むと、再び歩き始めた。

 角を曲がって少し歩いたところで前方二十メートル位のところにあるタバコ屋の看板が目についた。 


ああ、あそこだな。タバコ屋の前の少し古びた四階建ての四角い建物に目をやって、時計を見ると三時五十分をさしていた。


 四時十分前か。ちょうどいい時間だ。そうは思ったものの、その建物の階段の前まで来たときには、言い知れぬ期待感からか、なぜか急に胸苦しくなり、さっきより余計に息がつまるのを感じた。 


それでも階段を上がり、二階の踊り場で一息入れて、呼吸を整えてから目ざす三階へと上がっていった。 


三階へ上がると、そこには通路を隔てて緑色のドアが二つづつ向かいあって並んでおり、三〇二号室は階段から離れた奥の方にあるひとつであった。        

 三〇二号室の前まで来てドアをノックする前に大きく深呼吸した。


 夕げにはまだ少し時間があるせいか、あたりは深閑と静まり返っており、コンコンと軽くたたいただけなのに、鉄製のドアの音は驚くほど大きくあたりに響いた。


 周りを気にしながら、二度目のノックをしようとしたとき、いつもエレベーターの中で聞くハスキーな声とは違って、一オクターブ高い「ハイ」という声がドアの向こう側から聞こえ、その後カチッという錠前のはずれる音がしてドアが開いた。

 

まぎれもないあの十一番さんが目の前に立っていた。


「あらいらっしゃい。時間どおりだったのね」 またいつものようにハスキーな声に戻って彼女が言った。 


「こんにちは。お言葉に甘えて早速お邪魔しました」  


 初めて目にした普段着姿の十一番さんを前にして、この姿もまた魅力的だ。 と思いながら道夫はピョコンと頭を下げた。


「まあ、お言葉に甘えてだなんて、若いわりには殊勝なことをいうのね。あなたも。


さあお上がりにになって、狭いところだけど」 そう言って横向きになった黄色いカーディガン姿のふっくらとした胸の隆起がちょうど道夫の目の前にあり、ようやく整いかけた息づかいが再び激しさを増してきた。


  「ねえ、ここすぐに分かった?」 道夫を奥の小部屋に案内して、キッチンに立った十一番さんが言った。 


「はい。桜橋からずっと歩いてきたんですけど、誰にも聞かずすぐわかりました」

 

「あら、やっぱり歩いてきたの。だいぶかかったでしょう。でも若い人は元気でいいわねえ」 そう言った彼女の声は明るく澄んでおり、いかにも道夫を歓迎しているかのようだった。


 「ねえビール飲むでしょう?」 冷蔵庫のドアがパタンとしまった後で彼女が聞いた。


 「はい。いただきます」 


 「お酒つよいの?」 


 「いえ、そんなには」

 

「お歳、二十歳だったわねえ、だったらもう堂々と飲めるんだ」


 お盆にビール二本とオードブルのようなものを盛ったお皿を載せて、十一番さんはまた道夫の前に戻ってきた。


 「ねえ今日はゆっくりできるんでしょう?」 


ビールとお皿をテーブルの上に置きながら、彼女はそれまでにない甘ったるい声で言いながら、正面から道夫の顔をじっと見た。


 「は、はい。それはまあ。今夜は僕も仕事休みですから」


 ここへ来る途中で考えたことがほぼ現実になりかけている。

 頭の中でチラッとそう思ったが、「今日はゆっくりできるんでしょう」 と、十一番さんが言ったその言葉の意味はまだはっきりと理解していなかった。


つづく


次回 9月11日