マンハッタン西97丁目 第5章 「7年ぶりの再会」 (その5)
二日目のベッドの中でのバーマは昨夜とすっかり様子が違っていた。最初のときのようながむしゃらさはすっかり影をひそめて、なんと言おうか、すごく落ち着いている様子で、修一の一つ一つの動きに対してゆっくりかつしっとりとした反応を示していた。
そして動きが一段落するたびに修一にいろいろな質問を浴びせてきた。「ねえサミー、日本の女性はこんなときどうなの?」とか、「経験したのは私で何人目なの?」だとか、「私と比べて他の人はどうだった?」とかのまず一般的な内容のものが多かった。しかしその中でさすががバーマと思わせる質問が一つあった。
「人間の三大欲望の中で食べることと寝ることではみんなまず平均的なのに、もうひとつのセックスに関しては決して平均的でない、と私思うわ。これっておかしいと思わない?サミー」 「うーん、そう言えばそうだね。きみはこの五年間で僅か数回だと言うのに、そうかと言えば一週間に何回もという人もいるしねえ。でもこの問題は鋭すぎてぼくの頭ではすぐ答えが出ないよ」
バーマに聞かれるまでもなく、修一も実際にそうだと思った。特に日本人においてはこの差は激しいのではないだろうか。
この問題は今後真剣に考えてみるに値することだ、とそのとき思った。
そんなとりとめもないことを話しているうちに、この夜の二人はは昨夜と比べてずいぶん早く眠りについた。
草山との約束の日、修一は四時三十分ごろ迄にはウォルドーフアストリア一階ロビーにやってきていた。人に会うとき、相手いかんにかかわらず、常に約束時間より早く来るのが修一の習性である。ときどきこのことについて我ながら疑問を持つことがある。
どうして自分はいつも早く来るのだろうか? 人を待たせることができないからなのだろうか?それはつまり小心だからなのだろうか。いや、そんなことはないだろう。人によっては遅れてくることで自分の優位を示そうとしたりするが、そんな人間を修一は「いやな奴」と思っている。そういうふうに自分は決してなりたくない。
約束の時間より早く来るのは、単にそれだけの理由からかもしれない。そんなたわいないことを考えながらロビー中央のゆったりとしたソファに腰を下ろした。
このウォルドーフアストリアはその歴史の上からも、また豪華さと格調の高さからもニューヨークが誇る世界屈指の高級ホテルである。著名人の宿泊が多く、日本から来る政治家にもこのホテルを宿とする人は多い。
そんなホテルであるだけに、単にロビーを利用するだけのために入るには少し勇気がいり、たいていの人は玄関先で気後れして入るのを躊躇うに違いない。でも修一はホテルマンであり、勝手が分かっているだけに普通の人のようなことはない。どんなホテルへでも正面から堂々と入って行ける。
高級そうな衣服を身につけロビーを行き来するハイソサイエティの人々を修一は飽きることもなく眺めながら、自分もいつの日にか、できたらこういう人々の仲間に入りたいものだ、と考えていた。
玄関の方を向いていた修一の横手から「大野くん」という声がした。草山は約束の五分前にやってきた。 「やあ草山さん、そちらから来られたのですか?正面玄関の方へばかり目をやっていたものですから気がつきませんで」 「うん、どうもこのホテルの正面玄関からは入り難くてね。横手の小さい入口から入ってきたんだよ」
草山は頭に手をやりながらやや照れくさそうに応えた。
草山とて元は東京のれっきとした都市ホテルのマネージャーである。 修一以上にこうしたところの勝手は分かっているはずなのに、と修一はそうした彼の消極的な態度を少し怪訝に思った。たぶんいま置かれている状況が草山を自信なくさせているに違いない。修一はなんとなくそう思った。
「大野くん、どうもここは居心地が悪い。良かったら外へ出ないか?」
「いいですよ草山さん。食事をするにもここは少し高すぎますしね。この近くで手ごろなレストランでもご存知ですか?」 「うん、二ブロックほど行ったところに味のいいインドレストランがある。そこへでも行くかい?」それを聞いて修一に異存なく即座にうなづいた。
真冬の日は短く、外へ出ると辺りにはもう夕闇が迫っていた。緯度が日本の青森と同じだというこのニューヨークの冬は恐ろしく寒い。道行く人はみな分厚いコートに身を包んでいる。
そのインドレストランは大通りを少し入った古びた八階建てのビルの二階にあった。煤けた灰色の狭い階段を上がりながら草山が言った。 「ここは以前二回来たことがあるんだ。お見かけどおり高級とはいえないけれど、値段のわりにはなかなかいい物を出すんだよ。きっとキミも気に入ると思うよ」
インド料理といえば、修一は過去一度だけ本場物に近いものを口にしたことがある。それは大阪であった万国博を見物に行ったときのことである。赤坂の修一の勤めているホテルに「シン」という名前のインド大使館に勤めている男性がよくやってきていたのだ。
小柄で痩せていて、ともすれば貧相に見えがちなその風采をかろうじて顔面を覆う濃いヒゲが救っていた。彼はなかなか流暢な日本語を話し、それにいつもニコニコしていて人なつっこいところがあったせいか、修一を含めてホテルの従業員とはすっかり顔なじみになっていた。修一はホテルに勤めていて、それまでに多くのインド人客に接してきたが、どうももうひつつ彼らが好きになれず、どちらかと言えば嫌いな人種に属していた。そうなった経緯には理由があった。
修一がまだルームボーイをしていたころ気がついたことなのだが、まず第一に彼らは非常に無作法なのである。ルームサービスで部屋に何かを運ばせるのはいいのだが、人の前で平気でオナラをするのである。最初のときはたまたま不注意かと、さして気に留めなかったが、二度、三度と同じことがあると、もうとても不注意などとは言っておられない。要はマナーが悪いのでる。
そして二番目は人使いがすごく荒いことである。
ルームサービスが多いのはホテルの売り上げが上がっていいのだが、注文の内容が良くなければそうとばかり言えない。例外はあったが、彼らが注文するものと言えば、いつも決まってポットに入ったホットウォーターであり、これを一日のうちに何度も注文するのでる。
お茶を良く飲む習慣からであろうが、幾らの売り上げにもならないホットウォーターを一日に何度も部屋へ運ばせるのにはまったく閉口した。三番目はけちなくせに横柄なのだ。修一には過去インド人客からチップを貰った記憶がない。そのくせ、自分たちより目下の者となると露骨に横柄な態度をとる。
だから修一らのホテルのボーイが相手となると、実に鼻持ちならない態度をとるのである。腹が立って「こんちくしょう!」と思ったことが何度あったことだろう。
でもシンはそんなインド人とは違っていた。大使館員としてこの日本で生活しているからということもあったのだろうが、実に愛想のいい好人物であった。
そのシンが万国博が始まる前のある日、修一に向かって、大阪の万国博に来たら是非インド館に寄るように勧めたのだ。自分はその期間ずっとそこへ居るのだ、と言う。修一が大阪の万国博へ行ったのは暑い盛りの七月の終わりの頃だった。
その日の見物をそろそろ終えようという頃になって、シンの言葉を思い出し、インド館に彼を訪ねてみた。万国博には各々の国が特別な催し物をやる日があって、それを「ナショナルデイ」と呼んでいた。
修一がシンを訪ねた日は、ちょうどインドのナショナルデイに日だったのである。シンはいつもと同じように人なつっこい笑顔で修一を迎え、「ユーはいい日にきた」と言った。この日ガナショナルデイのインド館では、夕方の六時から関係者を招いてパーティを開催することになっていたのだ。
シンは修一に、ぜひバーティに出席するように、と勧めた。その日は大阪で一泊する予定だった修一に依存はなく、喜んでそのバーティに出席した。
本場物に近いインド料理を口にしたのはそのときだったのである。どれもこれも香辛料がピリリと効いていて、いささか辛かったもののそのときの修一にとっては、すべての料理がすばらしく美味だったように覚えている。
(つづく)次回 8月31日(日)
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