マンハッタン西97丁目 第4章 「すばらしき1週間」 (その1)
明日がクリスマスイブという冷たい雨の降る夜、修一は机に向かってオーシマホテルの社内報に載せる原稿を書いていた。
レポート用紙にNO.6の番号を打って、これでようやく最後だと思っているところに入口のドアがコンコンと二度ノックされた。バーマかな?と思って、乱れた頭髪をなでていると、入ってきたのはエセルであった。パトカーに乗って病院にいった夜からはや五日も過ぎていた。
「あれから身体の具合はどうなの?」修一はペンを動かすのを止めて尋ねた。
病院から帰って二~三日間、エセルはベッドに居る時間が長く、このところ修一ともほとんど顔を合わせていなかった。
「あの日病院でもらった薬がよく効いてこの二~三日の間、ウソみたいに咳が少しも出ないのよ」久しぶりに余裕のある笑顔を見せて彼女は応えた。
そういえばここしばらく咳き込む音は聞いていない。
「それはよかったね。僕も眠かったけど、夜遅く病院について行った甲斐があったよ。この状態が長く続くといいね。ところでその腕に抱えているものは何なの?」
エセルはさっきからなにやら大事そうにして両手でビニールの包みを抱えていた。
「そうそう、サミーにこれを見せに来たのよ。明日はクリスマスイブでしょう。だからね」そう言いながらエセルはそのビニール包みを開いて見せた。
中には表面がザラザラした楕円形の肉の塊が入っていた。そのぶつぶつした表面からして、どうやら鳥の肉らしい。 「七面鳥よ!」エセルが言った。
「明日の夜、オーブンで焼いてみんなで一緒に食べましょう。サミーにはこの前大変お世話になったから、その分うんとご馳走するわ」久しぶりに苦しい咳の発作から開放されたのが嬉しくてたまらないらしく、彼女はかってないほどの上機嫌で、指で肉の表面をつつきながら上目遣いで修一に言った。
五二歳で主人を失い、以来二十年近く後家暮らしのエセルも、このところよる年波と病気のせいか、生来の勝気な性格も次第に影をひそめ、一時に比べてずいぶん気弱になったらしい。何年も一緒に居るわけではないが、なんとなく修一にはそう思えた。
それだけに、あの夜修一に病院に付き添ってもらったことがよほど嬉しかったのだろう。その気持ちがこうして部屋にまで七面鳥を運んできて見せるという、いつもとは違ったはしゃいだ行動に結びついたに違いない。そんなエセルを修一はほほえましく思った。
「明日は思いっきりお腹をすかせて帰るからね」修一がそういうと、彼女は満面に笑みを浮かべて「まかしておいて!」と弾んだように言ってキチンの方へ歩いて行った。
エセルを病院に運んだあの夜の出来事について、バーマは二日後になって修一に聞くまで何も知らなかった。バーマの部屋は居間とキチンに隔てられた入口の近くにあるため、修一の部屋のようにエセルの挙動がよく分かるというわけではなかった。
エセルの咳き込む音も、ドアを閉めていればほとんど聞こえることがない、と日ごろから話していた。出来事の顛末を話して聞かせたとき、彼女は「信じられない」と言った。修一とエセルが病院に行ったことが信じられないのではなく、ポリスまで来た深夜のその騒ぎに気付かなかった自分の無神経さが信じられないのだ、と言う意味で言ったのだ。そして、「なぜそのときわたしを起こしてくれなかったのだ」と、少し怒ったような調子で声高に修一に迫った。
「大の男が三人もいたし、それに僕と違って君は朝が早いので、わざわざ起こすこともないと思ったのだよ」修一がそう弁解すると、「そうなの、サミーって優しいのね」と普通の声に戻って、キラキラしたブルーの瞳で修一を見つめた。
そして「この次にそういうことがあったら、必ずわたしも起こしてね」と、今度は哀願するような口調で言った。
その頃の修一はバーマと正面きって話をすると、どうした訳だかいつも気後れのようなものを感じ、なんとなくソワソワして落ち着かない気持ちになることが多かった。それに、彼女に対して何か大きな借りでも負っているような妙な気持ちになることもあった。
そのせいで、時としては言いたいことも十分に言えなかったりして、二人で話していてもいつも知らないうちに主導権は彼女の方に移っていた。
そんなときの修一は何かにつけてイジイジしており、口数も少なく妙にはにかんでいることが多かった。
それもそうだろう。留守中の彼女の部屋へこっそり入って、ベッドの上の下着に触れたり、彼女の入浴姿を覗くために、バスルームの壁に穴を開けようとしたり、、そうした恥ずかしい最近の行動場面がいつも頭にもたげてきて、それが修一の身体をことさら硬くさせ、言葉をぎこちなくさせるのであった。
はっきり言って、その頃の修一は彼女に対して、まったく頭が上がらないという状態であったのだ。
エセルを病院に連れて行った夜も、最初は彼女を起こそうと思っていた。でも結局起こさずに済ましたのは何も親切心からばかりではなく、言わば、彼女に対する気後れから来る「遠慮」がたぶんに影響していたのである。
修一は人間関係において、どちらかと言うと主導権を握りたがる方で、どんな場面においても劣勢に回るのを良しとしない性格である。そういう意味では自己中心的な一面も持っていた。でも、ことバーマとの関係においてはなぜか相手に主導権を握られ、自分が劣勢に回っていても別段苦痛などは感じなかった。
そればかりでなく、こうした力関係を逆転させたいという気も更々なかった。
それが惚れた弱みというものなのだろうか? でも、そのときの修一このことに関する深い自覚もなく、はっきり言って状況がよくわかっていなかったのだ。
(つづく)次回 8月3日(日)
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