2018年4月16日月曜日

日本人は細かすぎるのか?


ネパール人は「ニホンジンコマカスギ!」と言っているが

上の「」内のカタカナを書き直すと「日本人細かすぎ」になります。これは漫画家・西原理恵子のエッセイ集「泥名言」に載っているエッセイのタイトルです。

タイトルを見ただけでは何のことかよく分らないのですが、内容を読み思わず笑ってしまいました。

でもおもしろいだけでは終わらず、同時に「そうかもしれない」と、共感する気持ちも生まれました。

内容は次のようなものです。著者がネパールへの旅行中、町の魚屋へ寄ったのですが、店先にはハエがたかった半分腐ったような魚が山ほど積まれており、店員はそれを荒っぽく雑におろしたものを客に売ろうとしていました。

それを見た著者が半ば驚いて「すげえおろし方だね、それにハエもたかっているし」と言ったところ、そばにいたネパール人ガイドがすぐさま「ニホンジンコマカスギー」と言ったそうです。

これを聴いた著者は、ハッと目が覚めたような気がして、その通りかもしれない、と思ったと言うのです。


日本人はいろんな面で細かすぎるのではないか


いかがでしょうか、この話は?

ネパールの魚屋でガイドに「ニホンジンコマカスギ」と言われた著者は、雑な魚のさばき方や、ハエのたかった不衛生さを指摘しただけですが、それに対して「ニホンジンコマカスギ」とネパール人に返されました。

著者はこれを単にその場の魚の問題だけでなく、日本人のものの考え方すべてを否定されたように感じたのです。

つまり、日本人はあらゆる面で細かすぎるのではないだろうか、と思ったのです。

ネパール人としては、魚のさばき方が雑だろうが、ハエが少々たかっていようが、それがどうしたというのだ、となるのです。

それゆえに、そんな小さなことにこだわる日本人は気持ちが小さすぎる。と言っているのです。

これに対して著者は、こう主張する彼ら方が正しいのではないだろうか?と感じて、深く考えさせられたのです。

著者だけではありません。読者のわたしも同様に考えさせられてしまいました。


日本人が几帳面なのは、気が小さいからなのか?


日本人がよく約束を守り、時間に極めて正確なことは世界中の人々によく知らています。それ故に日本人は信用できる、とも思われているのです。

しかしです。上に書いたように、そうした日本人の几帳面さもネパール人に言わせれば、「日本人細かすぎ」ということになるのです。

「細かすぎ」は考えようによっては「気が小さい」ともとれます。

もしそうなら、日本人が約束をよく守ったり、時間に正確なのは気が小さいからなのではないか、というふうにも考えられます。

つまり、道徳的な問題以前に、相手の気持ちを忖度した上で、約束を守ったり、時間通りに行動するだけなのではないか、とも考えられ、これ、すなわち気が小さいから、となるのです。

世界を見渡せば約束や時間に拘らない国民は少なくない


約束を守り時間に正確な日本人が「細かすぎる」なら、細かすぎない人とはどんな人を言うのでしょうか。

それは日本人とは反対の約束を守らない時間に大らかな人を指すのでしょうか。ではどの国の人がそれに当たるのでしょうか。

これに関して世界を見渡してみますと、どの国を見ても日本人のように時間に几帳面な人種はあまりいないようです。

時間にルーズな(大らかな)国民としてよく挙げられるのはインド人やブラジル人があります。

特にインド人は極めて時間に無頓着で、約束に遅れてくるのは日常茶飯事ですし、それだけでなくドタキャンすら珍しくありません。でも彼らはそれが悪いこととは少しも考えていないのです。

ブラジル人もしかりで、5分や10分の遅れは、遅れのうちに入らない、という感覚です。

電車やバスも遅れるのが当たり前になっており、たまに時間通りに来ると、驚いてしまうぐらいです。

インドやブラジルはともかく、先進国では時間はよく守られるのでは、と多くの人は考えると思います。

でもイギリスに限ってはそうとも言えません。イギリス人の時間間隔は日本人と比べて大きく異なる点があります。

それは、会合などでは、日本人のように開始時間の少し前に集まるのでなく、時間きっちりに会場へ入ることを良しとしており、少し前に、という発想はないのです。

つまり開始時間が10時とすると、その少し前でなく、10時きっちりに会場へ着くことをモット―としているのです。

とはいえ、これはビジネス上のことで、すべてについてがそうというわけではありません。

たとえば公共の乗り物であるバスや電車などの時間の遅れは珍しくありません。

でもそれに対して人々はすこぶる鷹揚で、いちいち苦情を言うようなこともありません。


「ニホンジンコマカスギ」は価値観の違いを考えるヒントになる


上で書いたように物事に対する良し悪しの判断は、人々の価値観によって異なってくるのです。

ネパール人の魚屋が「ニホンジンコマカスギ」と言ったのも、この価値観の違いによるものです。

ネパール人が正しいか正しくないかは別として、国際間での物事の良し悪しについての判定は価値観の尺度でなされることを、私たちはしっかり覚えておかなければなりません。


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