SAIING “NO‘ FOR ANSWER (“NO”という返事)
Leo Buscaglia (new horizon 2,L13)訳:大平庸夫
先日私は非常に丁寧な夕食会への招待状を受け取った。その時は精神的に高揚状態にあり体調も優れなかったので、その旨を招待主である彼女に説明して暗に招待には応じられないというようなニュアンスを含めて話した。でも彼女には理解してもらえず、どうしても来てほしいと、半ば強制的に言われた。
彼女の話では、その夕食会は決して派手なものではなく招待客も少数で、ごく質素なものであるということだった。
それでも私は、今のような精神状態では、他の招待客が ” おもしろくないやつ ”と思うのがおちだから、などと言って何とか彼女が理解してくれるように努めた。
しかし、どうしても彼女にはわかってもらえなかった。
はっきり ”no "と答えることは非常に難しいことである。でも、どのようにしたらこの "no”を優美に口から出すことがでくるのであろうか。
たいていの場合その試みは失敗に終わり、おもしろくもない活動に参加して、退屈させるだけの連中に大嫌いな応接を無理強いされているだけである。
そうするのもすべて無作法であるとか、恩知らずであるとか、独善的であるとかと思われたくないからなのである。
私たちは自分及びその時間を守ることに関して、何者に対しても”no"と言える権利はあるということを忘れてしまっているのではないだろうか。
そうは言っても、”no" と言うことが、最も思いやりがあり、かつ積極的な返事で或る場合は滅多にないのである。
だが強制されて ”yes "と言うのはまったく無意味である。積極的な意志なしで体だけが何事かへ参加したり、そうするべきだと思ったりすることには、その関係者全員に対しての侮辱になるのである。
そのような場合の”no”と言う返事こそ、人々に対して祝福になるのである。
最近私が或る女友達と話したときに聞いたのだが、彼女は娘が招待してくれた夕食会へ行くことになっているのだが、それななんだか怖いような気がする、というようなことを言っていた。彼女は彼女の娘がこの夕食会のことを面倒な雑用でもこなすというふうに考えていることに気づいていたのである。
でも彼女はそうしたものに対抗せず、気づいていることは隠して極力愛想よくし、はしゃいだ様子で振舞うのだそうだ。
そして、それがまるで言葉遊びで、答えが分かっているのに、わからない振りをすることのようであっても、家族が平穏に暮らしていくために、あえてそうするのだ。と言っていた。
”no”と言うのが難しい場合は確かにあるが、そういう時でも、"no" 以外に採りうる答えを相手に伝えることは、いっそう悪い結果になる可能性がある。
例えて言うならば、退屈で無駄な時間を過ごすより、起こりうる誤解というものに対する危険を負う方が賢明なのである。他人に対して何らかの借りがないのに、”yes” と言って参加するのならば、人々にとっては、あなたに居てもらわないほうが、むしろ快適なのかもしれない。
人々にとっては、私たちが参加しないからといって、特に困ることはなく、立派にやっていけるに違いないのである。代わりはいくらでもいるのだ。ということを覚えておくべきである。
こうしたことについて、子どもたちは日常の遊びを通じてうまく説明してくれています。
それらを学ぶことは、私たちにとって有益なことに違いありません。
メアリーはピーターのところへ喜び勇んでやってきて、彼に「遊ぼう」と言いました。でもピーターは彼女と喜びを共にする気はなく、"no”と言いました。
でもメアリーは大して気落ちすることなく、今度はジョーのところへ行って同じことを言いました。彼女は本能的に他の誰かが彼女の要求を満たしてくれることを知っていたからです。
彼女の生活は決してピーター中心に回っていたのではなく、楽しく一緒に遊んでくれる相手を探していただけなのです。彼女は偉いなと思います。
もし私たちが “no” と言ったことで、相手に罪の意識を感じるときは、直ちに私たちがどう感じながらそういっているのかを、相手に伝えるとよいでしょう。
丁寧な調子で、 ”忙しくて今は自由に動けないのです”などの理由を挙げながら説明すれば、もし相手が心ある人々であったならば、”再考してみよう”と必ず思うはずです。
多くの場合、そこで ”no” ということは情愛のある行いになることは明らかです。
実際、対人関係というものは、ある制限とか一定の構造の中でより良いものになっていくようです。
時たま言う ”no” という言葉が、その制限とは一体どういったものかを明らかにしてくれるのです。
時を得た”no”と返事は、相手に私たち及び、その都合というものを理解させてくれるのです。それは私たちが他人に期待している”何か”のようなことだと思います。
人生は私たちが ”したくもないこと” に多大な時間を費やすには短すぎます。
私たちは ”no” と答えることを決して恐れてはいけません。
最後になりましがた、そのことこそが私たちができることの中で、相手を尊重した最も情愛のある行いなのです。
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