一流作家の作品にも駄作はある
過去に優れた作品をいくつも出している一流作家なのに、この作品は何故こんなに下手(つまらない)なのだろうか?こんな疑問と不満を抱きながら小説なり、エッセイなりを読むことは誰にでもあるはずです。
本をよく読む人ほどこの経験は多いのではないでしょうか。なぜなら一流作家の作品といえどもつまらない作品が一定の比率で必ず存在するからです。
「一流作家なのになぜ?」と、読者としては俄には信じ難いのですが、これは厳然たる事実です
以来、一流作家の作品に、何故読者が失望するようなつまらない作品があるのだろうかか、としばらくの間はこうした疑問が胸の底に溜まっていたのですが
今回藤沢周平のエッセイ集「帰省」を読んでいて、その疑問を一気に晴らしてくれる次のような一文に出会いました。
藤沢周平が語る 駄作ができる理由とは
小説はとりあえず、読んでおもしろくなければいけないものだろうという気がします。面白さの中身は、小説の性格にしたがって多種多様であ一向に差し支えないわけで、読み終わったとき、たとえば深い哲学的な感銘が残ったという小説もけっこうでしょうし、血わき肉おどる、やや軽薄で騒々しい感興が残ったというものでもかまわないわけです。
問題なのは、読んでいる間少しも読者の気持ちをひきつけず、読み終わってもなんの感興も残さない小説があることです。と言っても他人のことなど言えた義理ではなく、深い反省を込めて自分の小説をふりかえるながらそう思うわけで、たとえばわたしが発表している小説の中からその主の小説を集めたら、たちどころに五巻仕立てほどの「藤沢周平駄作集」が出来上がることは間違いありません。
なぜそういう駄作が出来上がるか、なぜそういういい加減な小説が世のかに出ていくのか、ということになると、話は「駄作考」という具合になってきますが、経験から言いますと、たとえば短編の場合は気合で決まるようなところがあるもので、その気合に欠けたり、うっかり最初のボタンをかけ違えたりすると、最終的に読むに堪えない駄作が出来上がってしまうわけです。
しかし、これはおかしい、これはまずいと気づいたときは枚数が20枚ぐらいまできていて、締切は明日の夕方に迫っているいう場合が多く、ここにおいて一人の人間の内部で、芸術的良心と職業的良心が深刻な葛藤を演じるということになるのですが、たいていはたとえ恥をかこうとも雑誌に穴はあけられないという職業的良心が勝ちを占め、駄作は大手を振って世の中に出ていくわけです。もっともそういう小説でも原稿料はちゃんともらうわけですから、そうなると良心もあまりあてになりません。
出典:「帰省」未刊行エッセイ集 藤沢周平 文藝春秋
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