読書は趣味か勉強か
作家浅田次郎は「学校へ行かなくても本があれば勉強はできる」といっている
私にとってこのテーマが重要なのは、一生続けようと思っている読書に関することだからです。つまり読書を趣味とするか勉強とするかによって、その後の読書との関わりが大きく異なってくるのです。それは以下のような理由からです。
職場の面接で「趣味は読書です」と応えた応募者に最近どんな本を読んだか訊いてみたところ
40代前半ごろからフランチャイズの児童英語塾を経営していた関係で従業員採用の面接に立ち会うことがよくありました。
これは営業社員採用面接に立ち会った時の話です。応募者は確か30歳ぐらいの男性だったと思います。
履歴書に趣味読書とあったので、「最近どんな本を読みましたか」と訊いてみたのです。すると驚くかな、次にような返事が返ってきたのです。
「最近はあまり読んでいません。たしか半年ぐらい前に1冊読みましたがタイトルは忘れました」
いったいこれが趣味読書としている人の答えとしてふさわしいでしょうか。私はこのとき以来、読書を趣味とすることに対して疑念を抱くようになったのです。
読書を趣味とするか勉強とするかは重要な問題
趣味より勉強とする方が長続きする
私は読書を勉強ととらえることにしています。それは趣味とした場合は往々にして〈飽き〉や〈挫折〉によって、長続きできないことがあるからです。
それに比べ勉強とした場合は、いつまでも長続きできるのです。
世の中には読書を趣味という人はたくさんいます。でもそうした人たちの読書は果たして長続きしているでしょうか。
この問いに対して私は決してYesとは言えないのです。こうした考えは上でも書いたように、ある時経験した社員採用面接の場で芽生えたものです。
なぜ趣味としたら長続きしないのか
では読書を趣味としたら、なぜ長続きしないのでしょうか。これについて私の考えは以下のようになります。
まず趣味とはどんなものか考えてみると、それは、気が向いたときに気楽にやればよいものです。したがって継続的にやる義務感など働きませんから長い間ご無沙汰になることも珍しくないのです。
その結果趣味としたことさえ忘れてしまい、気がついたら何年もやっていなかった、と言うことも珍しくないのです。
したがって、対象が読書だとすれば、「趣味は読書」と言いながら、気がついたら1年に1冊しか読んでいなかった、ということもあり得るのです。
読書を勉強捉えたら長続きするのはなぜなのか
何事も習慣化するためには継続が必要です。継続してやっていると知らぬうちにそれを行うことが当然というように思えてくるからです。とはいえ、この習慣も簡単にできることではありません。
絶えずやり続けるためには対象に対する考え方が大事です。つまり、コンスタントに続けることに対して理由が必要になるのです。
ここで読書を趣味としてとらえると長続きしない理由を思い出してみましょう。
読書を趣味ととらえると、やることに対して義務感を感じませんから、気分次第でやったりやらなかったりするのです。
たとえ趣味の読書とはいえ、本を持って活字を追い続ける作業は時として苦痛を感じることもあります。それ故に気が向かない時は避けるようになるのです。そうしたことが多ければ、次第に読書から遠ざかっていくのです。
勉強ととらえると読書が習慣化する
ところが、読書を趣味とせず勉強としたらどうでしょう。
趣味と違って勉強tととらえると、人々はそれに対して義務感を感じます。つまり継続してやらなければいけないように感じるのです。
これは国民の3大義務のひとつに「教育の義務」があることが影響しているのではないでしょうか。
つまり日本国憲法で定められた、日本国民に課せられた《教育の義務、勤労の義務、 納税の義務」》の3つの義務の中のひとつだからです。
人々の頭にはこの教育の義務という先入観が残っていて、それが読書は義務という考えにつながり、読書を習慣化させるのではないでしょうか。
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