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朝から飲んだビールのせいか、この日の森下さんは饒舌だった。そんな彼につられてか、さっきは恥ずかしくて言えなかった数日まえの夜間巡回の時のことを道夫はついにしゃべってしまった。
「それでお前、終わるまで聞いていたのか?」
「いいえ、しばらくは立ち止まって聞いていたんですが、声がだんだん大きくなるもんで、なんだかこちらの方が恥ずかしくなって、途中で聞くのをやめて下におりました」
「駄目だなあお前も、俺だったらそういう時はドアにぴったり耳をつけるとか、フロアにはいつくばってドアの下の隙間に耳を寄せるかして、もう徹底的に聞いてやるんだけどなあ、ああもったいない」
「へえ、ずいぶん大胆なことをするんですねえ、でも森下さん、そんなことして、もし気配で相手に気づかれたらどうするんですか?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。どうせ相手は裸で絡み合ってるんだろう。仮に気がついたとしてもすぐに出てこられる訳がないんだから、もっとも別の部屋の客がふいにドアを開けたりしたら面食らうけどな、気を使うのはむしろそちらの方だよ」
リーダーとはいえ、まだ二十四歳。普段はよく小言を言われたりするけど、こんな話を聞かされ、彼とて興味の対象はあまり変わらないんだと、道夫は妙な安心感を覚えていた。
「ところで森下さん、近ごろマッサージ師の十一番さん見ませんねえ。どうしたんでしょう?」 道夫はこの一週間ずっと気になっていたことを聞いてみた。
上六で会ったあと、三日間ぐらいはときどきロビーなどで目にしていたが、その後ピタッと姿を見せなくなった。気になって仕方なく、これまで何度も電話してみた。でもいつも返事はなかった。
もう一度あのマンションへ行ってみようか。そういうふうにも何度も思った。でもそう思うたびに、あの激しいノックの音と男の人のだみ声が脳裏をかすめ、それが道夫をためらわせていたのだ。
「十一番さんか、あの彼女ならもう登録されていないよ。フロントが係の上村さんが言ってたけど、なにかもう大阪にはいないらしいよ」
それを聞いて道夫は驚いた。それまでは気になったとはいえ、せいぜい休暇でもとって旅行へでも行ってるのだろうなどと安易な想像をめぐらせていただけに、辞めて家を引っ越したというのは寝耳に水である。 でもそんな驚きをストレートに表して森下さんに二人の関係を気づかれるのはいやだった。
「へえ、辞めたんですか、でもなぜ急に?」 「うん、これも上村さんが、マッサージ師の親方から聞いたそうなんだけど、あの女、前からたちの悪いヒモにつきまとわれていたらしく、それから逃れるための急な引越しだったらしいよ」
〈たちの悪いヒモ〉と聞いて、道夫はいっそうビックリした。
あの朝の激しいノックとだみ声はやはりその男のものだったのだ。
「でもお前、えらく気にしているようだけど、ひょっとしてあの女となにかあったじゃあないだろうな」 森下はニヤニヤしながら勘ぐるような目つきで道夫を見た。
「と、とんでもない。あんな歳上の人とそんなことあるわけがないじゃないですか。ただエレベーターの中でよく話したことがあるもんで、それで」
「そうだろうな。お前じゃなあ」 森下は、今度は見くだすようなセリフを道夫に投げた。
「それにしてもあの女色っぽかったなあ。実はこの俺もチャンスがあれば一度と思っていたんだ。やめちゃって残念!」
桜橋で西の方に向かう路面電車に乗った森下とわかれた。
一人になった道夫は梅田のほうへ向かって歩きながら、しきりと十一番さんのことを思い出していた。
たちの悪いヒモから逃れてもう大阪にはいない。 僕にはひとことも言わなかったけど、やっぱりそういうことだったのか。
エレベーターで話しかけるときの、ことさら色っぽい表情とハスキーで甘いあの声、そしてベッドで言ったあの言葉。
「ねえ、もう一回できる?」
道夫の耳に、この上なく心地よく響いたあの十一番さんのセリフが、ふいに雑踏の中から聞こえてくるようであった。
( おわり)
次回からは「直線コースは長かった」をお届けします。ご期待ください。
第1回 10月23日(木)