2025年10月29日水曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈4〉直線コースは長かった(2)

 

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久夫があけたドアの鈴の音でふり向いたママさんは、「あら、いらっしゃい、お久しぶり」とややかん高い声で言った。

       

三ヶ月ほど前に一度来ただけなのに、ママさんは久夫のことを覚えていた。もっとも、あの時は三時間以上ねばっていて、払った勘定も一万六千円と、イチゲンの客にしては印象を残した方だった。


「ボトルあったかしら?」カウンターのもう一方の隅のほうで洗いものをしていた〈みッちゃん〉というこの店のもう一人の女が久夫の前にやってきて、にこやかな表情で聞いた。


「たぶん、もう期限切れかな? 桑野だけど」

「ああ、思い出したわ、あのとき確か〈かいこ〉と覚えておいて、とか言ってたでしょう」みッちゃんはそう言いながら、くるりと背を向けて、ボトルの棚をあちこちまさぐっていた。


「あったわ、これね」 目の前に置かれたウイスキーのボトルは、半分のそのまた半分くらいところで線がゆらゆら揺れていた。


おやっ、もうこれだけしか残っていないのか。久夫はボトルの底の方を見ながらそう思ったが、それを口に出すのは辛気臭い気がして黙っていた。みっちゃんは山ほどの氷を入れたアイスペールをカウンターに置きながら「オンザロックだったわねえ」と、これもまたよく覚えていた。


「そうだけど、よく覚えていてくれたなあ」久夫は少し気をよくして答えてから「ところで元気だった?」と、たずねた。


「ええおかげさまで体だけはね。でも、これでいろいろ悩みがあって」みっちゃんはグラス氷を入れながら、チラッと久夫のほうを見てから言った。


「悩みって、それ恋の悩み?」少しアルコールが入っていたら多分そんなふうに相づちを打っていただろう。でも来たばかりで、久夫の口はまだ重たくて、そんなセリフは出てこずに「ふーん、悩みがあるねえ」と、おうむ返しに答えただけだった。


それから三十分くらいたっても他の客は入ってこなかった。カウンターの隅からときおり聞こえてくるママさんと中年男性客の笑い声を耳にしながら、久夫とみっちゃんはなぜだかことわざについての話をしていた。


二人はある芸能人のスキャンダルを話題に上げた後、「人の噂も七十五日なんて言うけど、みんな忘れるのは早くなって、今はそんなに長くないんじゃないの。私だったらこう言うわ、人の噂は三週間」と、みっちゃん。「うーん、うまいことをいう」と感心しながら、「ねえ、こんなのどうかな?」と、こんどは久夫。「一円を笑う者は一円に泣く、っていうのがあるけど、僕ならこう言うよ。一円を笑う者は五円も笑うって」それを聞いたみっちゃんはゲラゲラと声を立てて笑い出した。


「それけっさく、とってもいいわ」みっちゃんにおだてられたせいか、調子に乗ってもうひとつ言った。「今度は、五十歩百歩というのをもじって、五十歩百歩は大違い。これはどう?」


みッちゃんは今度は笑わず「五十歩百歩って、差がないことを言うんでしょう。そうか、五十歩と百歩じゃ、ずいぶん差があるわねえ」と、妙に感心したような表情をして、目を大きく見開いて久夫の顔をのぞき込むように見ていた。


そんなたわいない話をしていてさらに三十分ほどたった。

ドアの音がチリンと鳴って、「ママこんばんは。また来たわよ」と、久夫の背後で少しオクターブの高い女の声がした。


「あら涼子ちゃん、今夜そちらのお店おひまなの?」

ママさんが女の方を振り向いてから言った。


「そうなの。うちは、女の子が多いでしょう。それに客足も遅いし、店のこ同士で油うっててもしょうがないと思って、ちょっとママさんの顔見に来たわけ」「あらあら、そんなこと言って涼子ちゃん、本当はまたうちのお客さんを引っ張りに来たんじゃないの」


「あらそんなこと、でも少しはあるかな。だってママ、私のお店すぐ上の五階でしょうだからここの客はうちの客、うちの客はここの客。いいでしょう、それで」久夫の席からひとつだけ離れた椅子を後ろに引きながら、涼子というその女は甘えるような口調でママさんに言った。


久夫がそちらの方へ目を向けたとき、女もそれに気がついたのか、すぐ振り向いて、ニコッと微笑みながらピョコンと頭を下げた。


「この人ねえ、すぐ上の階にあるラウンジマイルドの涼子さん。どう?ちょっとした美人でしょう、桑野さん」と、みっちゃんが横合いから言った。見たところ二十代後半に見えるみッちゃんとは五歳以上離れているようで、そのせいか女同士のライバル意識もあまりわかないのか、彼女はさばさばとした調子で久夫に女を紹介した。

その言葉につられてさりげなく涼子という女を見てみた。


そう言われてみれば確かに美人である。でも、こうした夜の店で働くにしては、その表情があまりにも無垢であり、全体的な雰囲気にしても健康的すぎていて、少し色気に欠けるのでは。チラッと見ただけだ、久夫にはそう思えた。



それからしばらくの間、涼子さんはみっちゃんやママさんを相手にしこたましゃべっていた。昼間通っている学校(専門学校で簿記とパソコンを習っているそうだ)のこと、終夜営業のディスコのことなどをとりとめもなく話していた。


「涼子ちゃん、まだお店に帰らなくていいの?」カウンターの隅からママさんが聞いた。「あっそうか、ここ私の店じゃなかったんだ。何時かしら? あら、まだ九時まえじゃない。ねえママ、もう少しいいでしょう」


 涼子さんはそう言いながら、ひょいと腰を浮かすと、何を思ったのか、体を移動させて久夫の隣の席に腰かけてきた。そして今度は久夫の方を向いて話し始めた。


「この前ねえ、ちょっとおもしろいことあったの」

「おもしろいことって?」久夫はいささか戸惑いを感じたものの、涼子さんのほうをふり向いて、とりあえずそうたずねた。


 長い髪の多い最近の若い女性にしては珍しく、彼女の髪は短くカットされており、その髪型にベージュ色のピチッとしたセーターがよくマッチしていた。化粧も薄めで、つやつやとした肌と健康的な表情からは、どう見ても夜の水商売に従事する女の雰囲気はうかがえなかった。


ただ耳につけていた丸い大きなピンクのイヤリングだけが、唯一、彼女をほんの少しだけ色っぽく見せていた。


つづく


次回 11月6日(木)