マンハッタン西97丁目 第6章 「ヨンカーズ競馬場」 (その4)
その日、修一は五つのレースに賭けて、結果はトータルで十八ドルの負けだった。山崎は、と言うと、この日もまた運の強いところを見せて、最終レースを残したところで百二十ドルほど負けていたのに、その最終レースで一点買いの中穴馬券をみごと的中させ、結果は百十ドルのプラスになっていた。
配当金の三百ドルを手にしながら「大野さん、十八ドルぐらい負けのうちじゃありませんよ。二人併せれば九十ドルのプラスになりますから良かったじゃないですか。さあ早くマンハッタンに戻って、この九十ドルで寿司バーへでも行きましょう」山崎は明るい大きな声でそう言うと、ポンと修一の肩をたたき、先にたってスタスタと出口の方へ歩いていた。
修一はそれから二週間ぐらいの間、ずっと草山のことが気にかかった。貸した八百ドルのことも気にならないと言えばウソになるが、それより彼の現在の不遇の身が案じられた。それにしても草山さん、まだ競馬から足が洗えなかったのだろうか。
過去にそれが元で大きな失敗を犯したというのに。世にバクチで身を滅ぼす人は多いけど、なんとかあの草山さんにはそうなってほしくなかった。娘の教育資金と言ってたあの八百ドルは、ひょっとして競馬につぎ込んだのではないだろうか?
ここへきて修一はそんな不謹慎な想像さえするようになっていた。
五月に入りようやくあたりには暖かい春の色が満ちてきた。ニューヨークは緯度で日本の青森と同位置にあり、東京だと春らんまんの四月でも、時折コートを着たいほどの寒い日もあり、この五月に入ってやっと人々は寒さから解放され、安心して外へ出て行けるのである。
修一のニューヨークでの滞在もこの月ですでに八ヶ月目に入っていた。さすがにここまでくると一時感じていた強烈なホームシックからも完全に解き放たれて、最近ではすっかりこちらでの生活が板についてきていた。
言いかえれば、ここニューヨークの水が修一の口にピッタリ合ってきたのだ。エールトンの職場の同僚とも、近頃では以前にも増して打ち解けてきたし、山崎を中心とした日本人仲間との交流もますます広がっていた。ただ草山について言えば、その後もまったく音沙汰がなく、何の様子も分からないままであった。
でもこの頃では以前ほど気にしなくなっていた。貸した八百ドルは修一にとって大きいことは大きいが、もし帰ってこなければ、それはそれで昔世話になった人への恩返しと思って諦めよう、とずいぶん執着のない考え方に変わってきていた。それより気になったのはバーマの帰国が迫ってきたことだ。半年の奨学金はこの月で切れ、六月早々に彼女はカナダへ帰っていくのだ。
思えば冬の初めに知り合って、別れの迫った暖かな春を迎えたこの五月までの半年間はあっという間に過ぎていた。修一のニューヨークでの生活にこの上ない彩りを添えてくれた女性ミス・バーマ・フォスターはあと半月後にはもう居なくなるのだ。そう思うと修一は悲しくて仕方がなかった。
その日早番の仕事を終えた修一はそんな悲しい思いを胸に秘めながら、このところちょこちょこ通っている八十一丁目のバー、ライブラリーへ足を向けた。いつだったか山崎に教えられたこの店が修一はなんとなく好きだった。
ライブラリーと言う知的な名前もそうだが、しっくりと落ち着いた内部のインテリアの雰囲気がことのほか気に入っていた。アッパーウエストという土地柄、お世辞にも客層がいいとはいえないが、修一のような東洋人にも気軽に話しかけてくる気のいい連中が客の中に多くいた。
ゲラゲラと笑った。それには応えず黙ってカウンターに座った修一に、ジミーはいつものようにスコッチウォーターをすばやく作って持ってきた。
「なあサミー、女に振られたって図星だろう。俺だって伊達に二十年もここでバーテンをやっているわけじゃないんだぜ。客の顔色を見りゃーその胸のうちだってピタリと分かるってもんだ」ジミーはそう言いながら背をかがめて修一の顔を覗き込んでニヤッと笑った。
「別に振られたわけじゃないけど、ちょっとね」
「ほらみろ、やっぱり女の問題じゃねえか。振られたんじゃなけりゃー、いったいその女がどうしたって言うんだ?」 「うんジミー、覚えているかなあ、いつだったかここへ一度つれてきたことのあるバーマと言うカナダ人の女の人」
「ああ覚えているとも、あのデッケー乳の女だろ、ふーん、あれが今お前が胸を痛めている女なのか。それでいったいその女がどうしたって言うんだ?」
「あの女の人、あと半月たった六月の初めにカナダへ帰って行くんだ」
「帰っていくたっておまえ、あの女こちへ住んでいたんじゃないのか?」
「あれっ、言ってなかったかなあ、彼女は絵の勉強で半年間だけこちらへ来ていてね、その半年が今月で過ぎるのだよ」 「なんだそんなことか、じゃー話は簡単だ。口説いてもっと長いこと居らせリャいいじゃないか、もしその女がおまえに気があればきっとそうするぜ」 「それがそうも行かないんだよ。彼女は国から奨学金を貰っている学生でね。その奨学金が今月で切れるもんだから、なにぶん生活の方がね」
「生活の方って、そんなもんユーが面倒見りゃいいじゃねえか、おまえその女に惚れてるんだろう?」 「そうしたくくてもなジミー、君も知っているだろう。ぼくだって日本からの研修生だということを。そこまでする甲斐性もないんだよ」
「じゃあしょうがねえ、さっさと帰して、また新しいのを見つけるんだな。女なんて腐るほどいるぜ」ジミーはずいぶんぶっきらぼうな口調でそこまで喋ると、客に呼ばれてカウンターの端のほうへ歩いて行った。
ーバーマの面倒を見るか。 修一はさっきジミーが言ったことを考えてみた。
質素な生活が身について彼女のこと、やろうと思えば月千二百ドルの修一の収入で二人の生活が成り立たないこともない。でもあのプライドの高いバーマのこと、仮にそう修一が申し出たところで決して受付はしないだろう。
それに第一修一に対してそこまでの愛情があるかどうか疑問だ。二人の親密な関係がもっと長ければ別かもしれないが、出会ってまだ半年やそこらではじゅうぶん理解しあっているとは決して言えない。やはりこうしたことをバーマに伝える勇気が修一には出そうになかった。
席を見渡すとバーテンのジミーはカウンターの端で常連客のネルソンとなにやら楽しそうに話していた。ネルソンも黒人ではあるがジミーほど黒くはなく、頭髪にも黒人特有の縮れは見られなかった。
二人は話の途中で時々チラッと修一の方へ視線を送っていて、その度に大声で笑っていた。あの二人め、このぼくのことをネタにしているな。ジミーの奴、どうせ話を面白おかしく脚色しているに違いない。
「サミーの奴、あのでっけーオッパイをしたカナダの女に逃げられたんだってよ」とかなんとか。 また一段と大きな二人の笑い声の後で、ネルソンが修一の方を見て、突然大声を出してなにやら日本語らしき言葉を発した。
「ヘイサミー、オ○○カしたい!」むかし軍隊で日本の佐世保に居たことがあるというネルソンは、修一の顔を見るといつも面白がってこの卑猥な響きをもつ日本語らしき言葉を口にするのだ。それも肝心なところの「コ」が「カ」に変わっているものだから、聞くたびに修一は苦笑させられた。
そんなことがあった後、ジミーがネルソンのおごりだと言ってスコッチのグラスを持ってきた。修一は右手でそのグラスを高々と持ち上げて、この憎めない男ネルソンに感謝の意を表した。
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