マンハッタン西97丁目 第5章 「7年ぶりの再会」 (その7)
この夜九時を回って草山と別れた修一は、翌朝エールトンへ出社するや否や、彼からの電話を受けた。昨夜の今朝、別れてからまだ十数時間しか経たないというのに、いったい何だろう? 修一は少し怪訝に思いながら受話器の奥から流れてくる草山の張りの無い声を聞いた。
「大野くん、実はキミにお願いがあるんだ。昨日会ったとき言えばよかったのだけど、どうもなかなか切り出し難くてね。それで今こうして電話でお願いすることになってしまって」
「草山さん、このぼくにお願いって、いったいなんでしょうか、僕にできることなら何でもしますが」 「うん、すまないけどキミ、八百ドルほど貸してもらえないだろうか、実は今度上の娘がミッションスクールへ入ることになったんだけど、入学に際して千五百ドルほど必要なんだ。でもどうしても半分ぐらいしか都合がつかなくて困っているんだ。それでキミにお願いしてみようと」
草山の声は気後れからか少しオドオドした弱々しいものであった。
修一は思いがけないこの突然の依頼に、いったいどう応じたらいいものか一瞬迷った。
でも次の瞬間にはもう答えを出していた。昔お世話になった草山さんのためだ。貸してあげよう。いま銀行口座には日本を出るとき用意してきた千ドルを合わすと合計二千六百ドルぐらいあるし、差しあたって使う予定も無かった。
それに貸した以上は返してくれるはずだし、それも日本へ帰る八ヶ月後まででいいではないか。そう考えると修一はすぐ草山に返事した。 「なんだそんなことだったんですか。いいでうよ、昔お世話になった恩返しに、お貸ししましょう。明日までにその八百ドル用意しておきます」
「そうか、ありがとう大野くん。助かるよ。二~三ヶ月中に必ず返済するからね。明日の午後そちらへ寄らせてもらうけどいいかい?」
草山は修一の承諾に元気付けられたのか、さっきとは打って変わった明るい声で応えた。電話を切った後で修一は考えた。はじめに会ったときからの草山のどことない自信なさげな態度は、この金銭的な悩みからであったのだろうか。昔はエリートだった草山さんが一度の躓きが元とはいえ、ずいぶん苦労しているんだなあ、世の中はなかなか厳しいものなんだ。
修一は珍しく胸中に人性の哀感のようなものを感じていた。
エセルは修一が草山と会った日に無事退院してきた。
その夜十時を少し回ってからアパートに着いた修一は、早速お祝いの言葉でもと思ったが、彼女はすでに寝室にこもって休んでいた。今日退院してきたばかりでは無理もないだろう。
そう思って、会うのは明日にでもしようと、そのまま自分の部屋に入った。気になったバーマにも今夜は会わずにおこう、と思った。
エセルが入院している間のバーマとのこと、それに七年ぶりに突然再会した草山さんのこと。この二つの出来事は、はっきり言って修一の神経を少なからず疲れさせていた。寝る前にシャワーを、とも思ったが、それも次第に億劫に思え、上着とズボンを脱ぐや否や、そそくさとベッドへもぐりこんでしまった。
翌朝、修一の出勤時にもエセルは起きてはおらず、結局彼女と顔を合わせたのは一仕事を終えて帰ってきたその日の夜だった。
「やあエセル、一週間ぶりだね。意外と早い退院だったけど、もう身体の方はいいのかい?」「あらさミー、久しぶりね。昨夜のうちに会っておきたかったのだけど、わたし病院ですっかり早寝の習慣がついていまって、ごめんなさいね。あなたは元気?」一週間ぶりに帰ってきた我が家のキチンにどっかりと腰を下ろしてコーヒーをすすっていたエセルは修一を見てにっこり微笑んだ。
「うん、ぼくは相変わらず元気だよ。それにしてもエセル、入院前に比べて少し痩せたようだね」 「あらそうかしら、そう言われてみればそうかもしれないわ。歩いていて体が少し軽くなったような気がするし、オーバーウエイトのわたしにとっては良いことだわ」エセルはそう言いながら視線を下半身の方へやり、自分の身体をしげしげと見つめていた。
「それにしてもサミー、病院って退屈なところね。わたしのような重病人でない者にとっては余計よ。一週間がまるで一ヶ月にも感じたわ」
「そうだろうね。エセルのように長年一人で気ままに暮らしている人にとっては拘束されるのは苦手なんだろう。でも良かったじゃないか,早く戻ってこられて」
「そうね。これからはせいぜい節制して二度と入院なんかしないようにしなくちゃ」 「そうだね。気をつければ大丈夫だよ。ところでエセル、バーマはまだ帰ってないのかい?」
「今日はまだみたいよ。珍しいわねえこんな時間まで。そうそう昨日は彼女が病院まで迎えに着てくれたのよ。すっかりお世話になってしまって」
時計はもう九時を回っているというのにバーマはどうしたんだろう?これまで修一が帰ったとき彼女がいないことは稀にしかなかった。まして今日のように九時を過ぎても戻らないことは過去一度も無かった。なにぶん事件の多いニューヨークのこと、何もなければよいのだが、と修一は少し不安な気持ちになってきた。
彼女のことを気にしながらシャワーを浴びてベッドの上に寝転がり、帰りに買ってきたデイリーニュースを広げているところに、入口の方でバタンとドアの閉まる音がした。バーマが帰ってきたのだ。
修一は読みさしの新聞を手にしたまま部屋を出た。「やあバーマ、今日はえらく遅かったじゃないか。何かあったんじゃないかと心配してたんだよ」脱いだコートを手に抱えたまま、彼女はなぜか上気しており、滅多に見せないような喜々とした表情で応えた。
「その何かがあったのよ。サミー喜んで! わたしが応募した反戦キャンペーンのポスターが見事三位に入賞したのよ。賞金が五百ドルも貰えるのよ、五百ドルも。今日学校で知らされたんだけど、驚いたたわ。まさか三位に入賞するなんて。それでクラスの仲間が帰りにお祝いのバーティをしてくれたの。サミーも知っているでしょう。八十四丁目のバー『ライブラリー』でね。学校が終わった四時過ぎからついさっきまでよ」
バーマは興奮して一気にまくしたてた。
「そりゃあすごいなあ。でもそれ本当なのかい? 応募するとは聴いていたけど、キミには失礼だけどニューヨーク州全体が対象じゃあ、入選は無理じゃないかと思っていたんだよ。それがまさか三位入賞だなんて、ぼくもまったく予想してなかったよ」
「わたしだってそうよ。応募作品は全部で四百点近くあったんですって。その中で三位だなんて信じられないわ」 「バーマ、まさか夢じゃないんだろうね、その話」 「ええ、わたしも何度もそう思って、もうこれまでに十回ぐらいほっぺたをつねってみたわ。おかげでここが赤く腫れ上がっているでしょう。見て!」
バーマは茶目っ気たっぷりに指で右のほほを差してウインクした。 「ほんとうだ! ほっぺたが真っ赤になってすごく腫れているよ。タオルで冷やすか、薬をつけるかしなければ大変だ」 修一もわざと深刻な表情を作ってジョークを返した。
「もうサミーったら意地悪なんだから。腫れてるわけが無いでしょう」
二人はゲラゲラと笑いながらリビングのソファに腰を下ろした。
「賞金五百ドルか、サミー、わたしそれ貰ったら何に何に使おうかしら? パッとみんなでパーティでもやりましょうか?」 「うん、それもいいけどゆっくり考えたら?} 修一は珍しく殊勝なことを言った。
「そうね、そうするわ。でもわたし興奮していてなんだか今夜眠れそうにないわサミー」 「キミのその気持ち、ぼくにもよく分かるよ。本当におめでとう。心から祝福するよ。でも今夜眠れそうにないなんて聞くと、ぼくもキミに付き合いたくなるじゃないか。
そうしたいのは山々だけど、どうも今夜は無理なようだな。なにしろエセルが帰ってきているのだし、病気上がりの彼女を前にして二人でバーティをしてはしゃぐわけにもいかないしね」 「それもそうね。でも残念だわ。ねえサミー、今度二人で外へ出て二人でパッとやりましょうよ」 「うんそうしよう。キミがその手でガッチリと賞金を手にしたらね」
そこまで話して、二人はソファを立ち上がった。修一はバーマの顔を両手で挟んで軽くキスした。
二人とも後ろ髪を惹かれる思い出はあったが、仕方なくそれぞれの部屋へと戻っていった。
マンハッタンにはこの夜、その冬三度目の雪が積もった。
第5章 おわり
第5章 おわり
(つづく)次回 9月6日(土)
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