2018年3月25日日曜日

文章は起承転結で書けと教えられたが


人はどんな文章なら読もうと思うのか


ブログをやっていることもあって、どちらかと言えば文章はよく書く方です。

当然のことですが、文を書くにあたっては絶えず相手を意識しています。つまり読み手にとって興味がわく魅力ある文章づくりを心掛けているのです。

ではそのために何をするかと言えば、まず最初に気を配るのはタイトルです。

人々が広告のキャッチフレーズに惹きつけられるように、文章で人の気を惹くのはタイトルです。

人に例えて言えば、パッと見でわかる外見の良さに当たります。これに魅力があれば、中身を読んでみよう、という気が起こるのです。

タイトルの次に大事なのは書き出しです。現代人はせっかちですから何事にも白黒をつけるのが早く、書き出しの良し悪しで読み続けるかどうかを決めるのです。

ということは、出だしに興味がわかなければ次のページを繰るのを止めてしまうのです。


あなたは起承転結を意識して文章を書きますか?


上述のように私が文章を書くに当たってに気を付けているのは第一がタイトルで第二が文の書き出しです。

これで分かると思いますが、文章の基本と言われている起承転結は特に意識していません。

とは言え、第一のタイトルはともかく、第二の文の書き出しについては、当然最初にテーマの要点になることを持ってきますから、これが起承転結の起の部分に当たるかもしれません。

次に続くのは要点の解説になります。さらに関連事項(エビソードなど)と続き、最後がまとめとしての結論となります。

これでお分かりように、特に意識しなくても最終的には自然に起承転結に似た形になることが多いのです。

文章を書くにあたって、前もって起承転結を意識すれば身構えてしまい、そのせいで硬くなるため、文章がぎこちなくなる恐れがあります。


結論を先に書くという文章指導もある


最近の文章作法のテキストには結論を最初に書くことを奨めているものが少なくありません。

つまり結論を先に書いて、その後に起承転と続く形です。結論+起承転の形と言えばよいのでしょうか。

特にビジネスレポートなどではこの形が効果的と言われています。

この形なら多忙なビジネスマンにも内容が素早く、かつ容易に掴めるからです。

とは言え、こうしたテキストで奨めている方法は、上述したように、私がブログなどで日常的に行っている文章の書き方と比べて、さして変わるところはありません。

要するに、良い文章とは読み手を惹きつけ要点を素早く理解させる力を持っていることが大切なのです。

そうした文章を書くためには、上述のように、まずタイトルで惹きつけ、出だしの魅力ある文章で相手を読む気にさせることです。


起承転結より新鮮な語彙と文章の盛り上がりを意識することが大事


文章を読んでいてハッとさせられるのは、新鮮な言葉に出会ったときです。逆に使い古された語彙ばかりの文章には新鮮味がなく惹きつけられません。

おいしい料理と良い素材の関係のように、文章と語彙の関係は重要です。

文章が知性に訴えている以上、それを満足させるのは語彙の力です。

読み手に新しい語彙を知らしめることも文章の大切な役目ではないでしょうか。

語彙とともに重要なのが文章の山場づくりです。つまり盛り上がりのある文章づくりを意識するのです。

小説にはノンクライマックス小説と呼ばれるものがあります。ノンクライマックスとは盛り上がり(山場)のないことを意味します。

私小説系の純文学に多いと言われていますが、こうした小説が面白くない、と思われているのはそのせいかもしれません。

小説だけでなく、どんな文章にも盛り上がりが必要なことを忘れてはいけません。

レポートなどでの盛り上がりづくりには、例えば、エビソードなどを入れるのも効果的です。


魅力的な文章を書こうという強い気持ちが良い文章をつくる


繰り返しますが文章を書く際にあえて起承転結を意識する必要はありません。

読み手を惹きつけるのは、第一がタイトル、第二が書き出し、その次に重要なのが新鮮な言葉づかいと山場づくりです。

この3点を絶えず意識した上で、「良い文章を書こう」という気持ちが強ければ、読者に響く文章が書けること請け合いです。

2018年3月21日水曜日

だから嫌われる ・ めんどくさやつ と思われていませんか?



どんなタイプが めんどくさいやつ なのか?


めんどくさい、を言い換えれば、煩わしい、とか、うっとうしい、ということであり、人を不快にさせる感情です。

これは明らかにマイナス要素のあるネガティブな言葉です。

ということは、こうした感情を相手に抱かせると間違いなく嫌われることになります。

とはいえ、上のタイトルのように「どんなタイプがめんどくさい奴なのか」と問われても、その具体例がパッと浮かんできません。

これがもし、めんどくさいこと、のように、物事に関してなら簡単に具体例を上げる事ができるのですが、めんどくさいやつ、というように、こと人に関しての場合は、その例をパッと思い浮かべることができことません。

具体的にはどんなタイプの人がめんどくさい奴に該当するのでしょうか。


こんなにたくさんいる・めんどくさいやつ


上述のように、めんどくさい奴とはどんなタイプのことを言うのか?と問われても、そのイメージをパッと思い浮かるのが難しく、すぐに例を上げることは困難です。

でも、いやな奴と言い換えると分かりやすくなり、そのイメージが湧いてきます。

めんどくさい奴はイヤな奴と同義語です。そうと分かれば具体例を上げるのも難しくありません。

以下、代表的なめんどくさい奴、9つのタイプを挙げていくことにします。


めんどくさい奴・9つのタイプ


自慢ばかりする
「人の不幸は蜜の味」という言葉があるように、人は失敗談や自虐話のような不幸な話には一方ならぬ興味を寄せます。

その半面、自慢話や成功話は聴きたがりません。したがって、聴きたくもない自慢話ばかりする人はめんどうな奴と思われて敬遠されます。


人に説教する
親が子を説教したために、子に殺されるという殺人事件が最近よく起っています。

無職で家でぶらぶらしている子が説教されたのを根に持ち、親を殺すという事件が、つい昨年も大きく報道されていました。

親子の間でもこんな事件が起こるほど、人は説教されることを嫌うのです。

これでも分かるように、説教癖のある人がめんどくさい奴であることは明らかです。


ネガティブな話が多い
うつ病が蔓延している今の世の中ですが、ウツとまではいかなくても、半ウツとでもいうのでしょうか、口を開けばネガティブなことばかり言いたがる人が巷にはよくいます。

こんな人の話を聞いていると心が暗くなるだけです。こんな連中は間違いなく、めんどくさい奴です。


ケチ
ここでいうケチは出すべきお金に対して出し惜しみをするような金払いの悪い人を指します。

割り勘が進んでいる昨今とは言え、なんとデートの場でも割り勘を求める男性がいると言います。

これは割り勘の悪用でしかなく、ケチの最たる姿です。

こんなケチな男が女性にモテないのは当然ですが、同性間でも、めんどくさい奴として敬遠されます。


人間観察をする
観察とは物事をよく見つめてその本質を見極めることを言います。これができると、観察眼が鋭い、とか、確かな目を持っている、などと、人からリスペクトされます。

でもそれはあくまで物事が対象の場合で、人に対する観察はそうではありません。なぜなら大抵の人は、他人に観察されることを嫌うからです。

したがって人間観察壁のある人は敬遠されるのです。


人の話を聞かない
テレビの対談番組などを観ていると時々見苦しいと思うことがあります。それは相手がまだ話している最中に話し始める人がいるのを見るときです。

つまり相手の話を遮って話し始めるのです。

こんな人は、人の話に耳を傾けることより、自分が話したい一心ですから人の話を遮ってまで喋り始めるのです。

これこそ超めんどくさい奴と言っていいでしょう。


無神経
いっときKYというアルファベット2文字が流行りました。

KYとは「空気読めない人」の頭文字をアルファベットで表したものです。

KYは人から疎んじられます。なぜなら無神経な人と同意語だからです。

無神経な人は人の神経を逆なでするような行動をとります。

人の気持ちがわからず、周りの空気も読めないからです。

これでは人が嫌がるのは当然です。


自己中心
自己中心の人は利己主義で他人に対する思いやりのない人です。

世の中が自分中心出回っているものと思い込み、常に自分が人よりの前にいなければ気がすまないのです。

要するにでしゃばりなのです。でしゃばりが人に嫌われるのは世の常です。


心身ともにダサい
ダサいを言い換えれば、野暮ったい、とか、田舎くさい、になります。この

対局にあるのは、洗練された、とか、垢抜けた、ではないでしょうか。

ダサいといっても、長い間、田舎暮らしの人なら仕方がないかもしれません。問題は都会に住んでいてダサい人です。

それもダサいのは外見だけはなく、ものの考え方もダサいのです。

そんな人と付き合うのはめんどくさいことです。


めんどくさい奴とはできるだけ距離をおいて付き合おう


これまで述べてきたように、めんどくいさい奴は、どちらかと言えばイヤな奴です。したがって、できればこういう相手とは付き合いたくありません。

とはいえ、こういう輩が、会社の上司であったり、取引先の相手であったなら、付き合いを拒否することは簡単にはできません。

でも嫌な人と無理してと付き合っていればストレスの原因になりかねません。

ではどうしたらいいのでしょうか。それは付き合うにしても距離を置くことです。

つまり、最初は1週間に一度は会っていたとしても、その後はいろいろな口実をつくって、次の月は2週間に一度、さらに次の月は一ヶ月に一度というふうに、徐々に会う回数を減らしていくのです。


2018年3月18日日曜日

機械翻訳の精度はほんとうに高まったのか? 



3つの自動翻訳サービスを試してみた


機械翻訳とも呼ばれる自動翻訳ですが、わずか数年前までは、翻訳とは名ばかりで、その精度はきわめて低く、訳文は読むに耐えないような支離滅裂なひどい文章でした。

しかしグーグル翻訳を初めとして、このところ機械翻訳の進歩は目覚ましく、その精度は格段に上がってきたと言われています。

それを実証するために、ここではgoogleexciteweblio など、代表的な3つの自動翻訳を試して、その精度を比較してみました。果たしてどの程度進歩したのでしょうか?





(英文)
  One of the clearest signs that our relationship to the global
 environment is in severe crisis is the floodtide of garbage spilling
 out of our cities and factories. What some have called the“throwaway
 society”has been based on the assumptions that endless resources will
 allow us to produce an endless supply of goods and that bottomless
 receptacles (i.e., landfills and ocean dumping sites) will allow us to
 dispose of an endless stream of waste. But now we are beginning to
 drown in that stream. Having relied for too long on the old strategy
 of“out of sight, out of mind,”we are now running out of ways to
 dispose of our waste in a manner that keeps it out of sight and mind.
     In an earlier era, when the human population and the quantities
 of waste generated were much smaller and when highly toxic forms of
 waste were uncommon, it was possible to believe that the world's
 absorption of our waste meant that we need not think about it again.
 Now, however, all that has changed. Suddenly, we are disconcerted
 even offendedwhen the huge quantities of waste we thought we had
 thrown away suddenly demand our attention as landfills overflow,
 incinerators foul the air, and neighboring communities and states
 attempt to dump their overflow problems on us.


(全訳例 )

  人間の地球環境に対する関係が深刻な危機にあることが最もはっきりと表れて いるのは、都市や工場からあふれ出るゴミの大洪水である。「使い捨て社会」とも呼ばれてきたものは、資源は無限にあるから商品を無限に供給することが出来、 陸上や海上のゴミ処理場といった底無しの容器によって、無限に出てくるゴミを処理することが出来る、という前提のもとに成り立ってきた。しかし今、その流れの中でおぼれ始めているのだ。あまりに長い間、「去るものは日々に疎し」方式に頼りすぎて来たことで、今や、視野にも記憶にも残らないやり方でゴミを処理する方法がなくなりつつあるのである。
  昔は、人間の数も生じるゴミの量もずっと少なく、毒性の高いゴミも珍しいものだったので、世界がゴミを吸収してくれることによって、1度捨てたゴミのことは2度と考える必要がない、と考えることが可能であった。しかし今となっては、事態は全く変わってしまった。突然、ゴミ処理場があふれ、焼却場によって空気が汚れ、近隣地域や州があふれるゴミの問題を押しつけようとしてくるにつれて、もう捨ててしまったと思っていたゴミにいきなり注意を向けねばならなく なって狼狽し、不快にさえ感じてきているのである。


    (英文と訳文の出典)nisshyの英語問題集
         
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

(google翻訳)


世界との関係が明確な兆候の1
環境は深刻な危機にあり、ゴミの流出の洪水
私たちの都市や工場から。何人かは「使い捨て
無限の資源が生まれるという仮定に基づいています。
我々は無限の物資を生産することができ、
レセプタクル(埋立地や海洋投棄場)は、
無駄な廃棄物を処分する。しかし今、私たちは
その流れの中で溺れる。古い戦略に長すぎることに頼った
「目に見えない、気が抜けている」というメッセージが表示されるようになりました
目に見えないように廃棄物を処分してください。
初期の時代には、人口と量
生成される廃棄物の量は非常に少なく、
廃棄物は珍しいものでしたが、世界の
私たちの廃棄物の吸収は、それについて再び考える必要はないということを意味しました。
今、しかし、すべてが変更されています。突然、私たちは、
たとえ怒っていても、大量の廃棄物
突然投げ捨てられて、埋立地が溢れ出ると、
焼却炉は空気を汚染し、近隣のコミュニティと州
オーバーフローの問題を私たちにダンプしようとします。


(excite翻訳)


最もクリアな合図 that グローバルへの私達の関係 のうちの1
 環境は厳しい危機にある ごみをこぼすことの上げ潮である
 私達の都市、およびfactories. いくつかがthe "投棄物 と呼んだもの の外で
 社会"は、無限の資源が決意するという仮定に基づいた
 私達に、商品および底なしのそれの無限の供給品を生産することを許しなさい
 コンセント(すなわち、埋立て地および海洋ダンピングサイト)は、私達が、することであることを可能にする
 waste.の無限のストリームを処理しなさい。今や、私達はしはじめる
 非常に長い間古い戦略に頼っている のために そのstream.において溺れなさい
 「見られなくなると忘れ去られる」で、私達は、するために、現在方法を使い果たしている
 私達の浪費を、それを視界と精神から締め出す方法で処理しなさい。
     より早い時代 時 人の人口と量 に
 ずっと小ささが、発生した浪費であったこと、および時 それの非常に有毒な形
 浪費が珍しかった それを世界のものと信じることが可能であった
 私達の浪費の吸収は、再び私達がそれについて考える必要がないのを意味していた。
 しかし 突然changed.を持っているすべて 私達が狼狽するので
 私達が、私達が考えた浪費の莫大な量を持っていた傷つけられさえした時
 廃棄される 突然の要求 埋立て地があふれることとしての私達の注意 、
 焼却装置は、空気、および近隣のコミュニティと州を汚す
 私達のそれらのオーバフロー問題を放り出すことを試みなさい。


(weblio翻訳)

    地球環境との我々の関係がひどい危機にあるという最もはっきりした徴候の1つは、我々の都市と工場から投げ出されているゴミのfloodtideです。
    何人かは、何をthe"throwaway society"hasと言いました循環資源によって我々が商品の終りのない供給を生じることができるという、そして、際限のない容器(すなわち、サイトを落している埋め立て地と海)によって我々が無駄の終りのない流れの決着をつけることができるという仮定に関して基づきます。
    しかし、現在、我々はその流れでおぼれ始めています。
    あまりにも長い間視力の古い戦略of"outに頼って、心から、それを見えなくしておく方法で無駄を処分する方法と心が、我々は現在尽きています。
    初期の時代には、発生する荒野の人間の人口と量が非常により少なかったとき、そして、無駄の非常に中毒形がまれだったとき、我々の無駄の世界の吸収が我々が二度とそれについて考える必要がないことを意味したと思っていることができました。
    しかし、今や、そのようなものすべては変わりました。
    突然、埋め立て地があふれて突然捨てたと思った無駄の膨大な量が我々の注意を必要とするとき、我々はdisconcerted-均一なoffended-です、焼却炉は空気を汚します、そして、近隣のコミュニティと州は我々の上に彼らの超過人員問題を落そうとします。


2018年3月13日火曜日

東北弁のインパクトが受賞の決め手になったのか? ・ 書評 芥川賞受賞作  「おらおらでひとりいぐも」 


審査員は味のある東北弁に高い文学性を見出した

いつものことですが文芸春秋3月号には選考委員による芥川賞の選考結果が載っています。

それを読んでみますと、今回の受賞受賞作「おらおらでひとりいくが」は選考委員のほとんどの人が受賞を推しています。

理由はこの作品が持つ高い文学性です。主人公の桃子さんが語る味のある東北弁に純粋な文学性を見出しているのです。

芥川賞は純文学作品を対象にしていますから、これを重視することは理解できます。

でも文学性は小説の面白さとは関係ありません。

はっきり言って、この小説はストーリー性の乏しい面白みの少ない作品です。

したがって面白さを期待した読者は裏切られた思いであるに違いありません。

面白いどころか、極めつけの読みづらさに最後まで悩まされたのではないでしょうか。

珍しい東北弁による面白そうな小説、というイメージだけが先行して、それに多くの人が騙されたのです。

(注)芥川賞審査員(選考委員)は小川洋子、吉田修一、山田詠美、宮本輝、高樹のぶ子、奥泉光、島田雅彦、堀江敏幸、川上弘美の各氏


こんなに読みづらい小説が他にあったか?


しかしこの本を終りまで読み終えた人は立派です。

おそらく多くの人が途中で何度も読むのをやめて投げ出したくくなったはずです。それにもめげず、最後まで読み通した人は称賛に値します。

この難解で読みづらい小説を読み遂げることは、さぞ辛いことだったでしょう。

よく耐えました。多分、芥川賞受賞作品だからというのが励ましになったのではないでしょうか。

こんなふうに言いたくなるほど、この小説を最後まで読み遂げた人を褒めてあげたくなるのです。それほどこの小説は読みづらい作品なのです。

なにが読みづらいかと言えば、第一は今時めったに耳にすることのない東北弁です。方言とは聞きづらく理解しがたいものですが、ここで使われている東北弁ほどわかりづらい言葉はありません。

これはまるで外国語と同じで、まったくチンプンカンプンです。

外国語なら辞書を引けばわかるのですが、東北弁の辞書などネットにも載っていません。これではまったくお手上げです。

第二は74歳の主人公桃子さんの妄想を綴った支離滅裂な文章です。

東北弁だけでも分かりづらいのに、それに輪をかけるよう、文法や語順を無視した半ボケ老女のめちゃくちゃな言葉づかいにはまったく閉口してしまいます。

こんな無茶苦茶な文章を読み続けるのは、苦痛の他の何物でもありません。でも芥川賞受賞作品だから、を唯一の励みに読み続けたのです。


この本が50万冊のベストセラーになるとは驚き!


本が売れない時代に、この本は瞬く間に50万冊も売れてしまいました。これは驚きの他の何物でもありません。よくもまあ、これほど多く売れたものです。

いったいなぜなのでしょう?どう考えてもこれほど売れるほど良い作品だとは思えません。それ以前になぜこの作品が芥川賞なのかが分りません。

こんな疑問を持っている人ははたして私だけでしょうか。

もちろんこの本以外にも、過去の芥川賞では良く売れたものはあります。最近では又吉直樹の「火花」の250万冊という、空前絶後というほどの売れ行きもあります。

しかしあれは例外です。内容が優れていたというより、漫才師が書いた珍しい小説ということで、又吉が所属する吉本興業と本の発売元である文藝春秋が組んだ売り方の戦略が功を奏したからです。断言しますが本の価値で売れたのではありません。

本の価値で売れたと言えば、最近では「コンビニ人間」ぐらいです。この本も50万ぐらい売れましたが、こちらは売れる価値のある優れた作品です。


純文学の雑誌は1万冊も売れないのに


この作品が最初に掲載されたのは文藝という月刊誌です。これは河出書房が発行している純文学専門の雑誌です。

同列の雑誌としては、文学界、新潮、群像、すばる、などが挙げられます。

発行元は文学界が文芸春秋、新潮が新潮社、群像は講談社、すばるが集英社となっています。

芥川賞は概ねこれらの雑誌に掲載された作品が対象になります。

受賞が最も多いのが文学界ですが、他はほぼ均等と言っていいでしょう。

ではこうした雑誌の売れ行きはどうかと言いますと、お世辞にもよく売れているとは言えません。

発行部数を見ればよく分かりますが、いちばん多い文学界でもせいぜい1万部程度です。

いま純文学はファン層が薄く人気がないのです。

でもこうした現実の中で、今回の芥川賞受賞作「おらおらでひとりいぐか」が50万部も売れたのは不思議なことです。

なぜならこの作品は純然たる純文学だからです。しかも老女が一人語りする地味な私小説です。

純文学の私小説は面白くない、というのが一般論です。この小説がまさにそれに当たり、ストーリー性が乏しく盛り上がりのない極めて地味な作品です。

ただ主人公の味のある東北弁による語り口に文学性を感じないでもありません。

でもそれだけで50万冊も売れる理由になるのでしょうか。

でも実際に50万冊売れたのです。これはひとえに東北弁の強烈なインパクトがもたらした奇跡としか言いようがありません。




2018年3月9日金曜日

So What? と言わせてはいけない



So What?の意味


・それがどうした? 
・そんなことどうでもいい

So Whatのクールな響きが好き


英語のフレーズで好きなものは何か?、と問われたら、すぐ思いつくものだと第一に挙げるのは Take it easyで、二番目に挙げるのが、今回のテーマである So What?です。

なぜかといえば、このフレーズが持っている独特のクールな響きが何より好きなのです。

何がクールなのかと言えば、相手に迎合せず、逆に突き放すような非情とも言える冷たさが小気味よく感じるのです。

今の世の中、訳もわからず相手に同調するシーンにとてもよく出くわします。

その最たるものはテレビです。

例えば料理番組では、ゲスト出演者は出された料理は何に対しても、おいしい、おいしい と迎合するばかりで、味に対する自分の意見を述べたりして批評することが極めて少なく、出演者同士が身内で同調したり、褒めあったりしてばかりいるのです。

こういうのをポジティブ馬鹿の集まりとでもいうのでしょうか。

テレビに限らず、こうした人たちが蔓延している今の世の中では、相手の発言に対して同調せずに、So What?(それがどうした?)とクールにあしらう態度の方が好感が持てるのではないでしょうか。

例えば、相手が嬉しそうに「ピョンチャンオリンピックで日本が取ったメダルの数凄いね」と言ったとします。

それに対して、So What?(それがどうした?)と反応するのです。

「そうだねえ、13個は立派だねえ」と返さないのが良いところなのです。

「それがどうした?」と言って、クールにあしらうのは、20年も前の長野オリンピックよりたった三つ増えただけじゃないか、

おまけに韓国には大きく負けているし、こんなことでなぜ大喜びしなければいけないの?と、暗に言っているのです。


世の中のポジティブ馬鹿はSo What?と突き放す方がいい


上でも書きましたが今の世の中やたらに他人に迎合したがる人種が多すぎます。

何でもかんでも訳もわからず相手に同調して、そうだね、そうだね、とばかり言っている連中です。

多分テレビの影響なのでしょう。バラエティ番組を見ていると、司会者の発言に対してゲスト出演者は、どんなことでも「すごいですねえ」「うまいですねえ」などと嬉しそうな素振りで迎合ばかりしています。

人としての成長に必要な批判精神などひとかけらも見られません。

こういうふうに、何ごとに対しても、YES,YESと言って喜んでばかりいる人種をポジティブ馬鹿と言われていますが、こういった人たちに対しては冷たくあしらう方が薬になります。

つまり、この連中に対しては、丁寧な言葉を返すのではなく、「それがどうした?」と突き放すのです。

すると相手は何故だろう。と考えますから、少しは進歩するのではないでしょうか。


So Whatは相手を否定するのではなく、相手に考えるきっかけを与える言葉


So Whatは聞きようによっては冷たい言葉です。それだけでなく相手に生意気で横柄な印象を与えかねません。

したがってそれをじゅうぶん承知の上での発言でなければいけません。

とは言え、言う側の狙いは相手を突き放すことにだけあるのではなく、本心はもっと深いところにあります。

相手の言ったことに対して、「そうだね」と認めたい気持ちは山々でも、それだけではお互いの進歩がありません。

したがって同調できないことに対しては、So What(それがどうした)と突き放すことも必要、と考えた上でのことなのです。

それによって相手は、どうして?と考え、自らの至らぬ点に気付くことができるのです。