もしや?と思ってポケットを探ってみると
ない! 昨日もらったばかりのボーナスの袋が・・・
目が覚めた時、女は亮介の脇腹あたりに顔を寄せて眠っていた。
かわいい女だな。この人。 そう思いながら枕もとにあった腕時計を取って時間を見た。 針は七時十五分をさしていた。
亮介の体の動きで女も目を覚ました。
「よく眠れましたか?」 「ええとても」
寝起きの顔を見られたくないのか、シーツに顔をうずめながら女は答えた。
「この部屋、窓が無いようですね。もう七時過ぎだというのに、どこからも光が入ってないようですよ」 亮介は顔を持ち上げて辺りを見まわした後、そう言った。
「あら、もう七時過ぎているんですか。あなた今日お仕事なんでしょう。何時から?」
「九時です。でもここからだと二~三十分で着きますから」
そう答えながら、今日はタクシーで行ってもいいと考えていた。
それより、さっきからまた中心部に力がみなぎってきて、できることならもう一度女に挑みたいと思っていた。 でも出社の時間のことを考えると、それは無理だと、仕方なく諦めることにした。そのかわり、また女の肩に手をまわし、強く抱きしめると、昨夜以上の深くて長いキスをした。
「ぼく朝風呂って好きなんです。ちょっと入ってきてもいいですか?」
体を離して起き上がりながら女に聞いた。
「ええ、でも時間の方は大丈夫なの?」
「はい。七時半ですから、あと四~五十分くらいは大丈夫です。冷蔵庫のジュースか何か飲みながらでも待っててください」
「ええいいわ」と小さくうなずいた女の甘い声を耳にして、立ち上がってバスルームのほうへ歩いて行った。
栓をいっぱいにひねった蛇口からジャージャーと流れる暑い湯の音を聞きながら、昨夜とは違ったずいぶん落ち着いた気分でバスタブに身を沈めていた。
山岸恵美か、いい名前だなあ。自分より二歳上の二十六歳か。でもそれくらいの差だと、相手として別段おかしくはないだろう。今日はこれで別れるとして、今度はいつ会ってくれるのかなあ。そうだ。次は昼間に会おう。そして京都か奈良かどこか静かな所へ行ってみよう。編物が好きな彼女のこと、きっとそんな所が好きなはずだ。
頭をバスタブのふちに持たせかけて、湯気でかすんだ天上をポカンと見上げながら、そんな空想をめぐらせていた。
ドアの向こう側から、カチャカチャという音が微かに聞こえた。
あの人着替えでもしているのかなあ。それともお化粧だろうか。夜と違って明るい日の下で見る彼女の姿は一体どうなんだろう。きっとすてきだろうな。
昨夜よりやや念入りに体を洗って、もう一度さっと湯につかった後、バスタオルを腰に巻いて浴室を出た。
「ああさっぱりした。朝風呂ってほんとに気持ちがいいですよ」
亮介はそう言いながらソファーの方を振り向いた。でも女はそこにはいなかった。
寝室の隅に小さな鏡台があったな。多分そこでお化粧でもしてるんだろう。そう思って、このままちょっと覗いてみようかと思ったが、とりあえずパンツをはきシャツだけを着ると、そちらの方へ行ってみた。浴室へ行くとき開けた障子は閉まっており、中からはなんの音も聞こえてこない。
「ここへいるんですか? ちょっと開けますよ」そう声をかけながら肩幅くらい障子を開けると、首まで顔を入れて中を覗いて見た。乱れた夜具横の鏡台の前にも女の姿は無かった。ここにもいない。とすると残るのはトイレか。そうだ。トイレにいるんだ。さっき声をかけた時、返事が無かったのはそのせいだ。あの中からだと、男だって少し返事がしにくいんだし、まして若い女性だと余計だろう。そう思ってネクタイを結びながらソファーに腰を下ろすと、なにげなく辺りを見まわした。
昨夜ここへ来たときからずっとテーブルの上に置いてあった少し大きめの女のバッグも無かった。 あのバッグ、どこかへ置きかえたのだろうか。
また立ち上がって、またさっきの和室を覗いて見た。隅々まで目を配ったが、それらしき物はどこにも無い。
もしかして先に帰ったのでは?
頭の隅を少しだけ不安な気持ちがよぎった。
またソファーに座って、トイレの方を見ながら耳をこらした。
なんの音も聞こえてこない。浴室を出てからもう五分はたっている。亮介はまた立ち上がった。
もし中へいたら失礼だな。そう思いながらも、意を決して、トイレの前に立つと、コンコンと二度ノックした。
返事は無い。今度は前より強く三度叩いてみた。 やはり何の反応も無く、聞こえて来たのは、反対側のバスルームの方からの、ポチャンと湯船に落ちる水滴の音だけだった。
さっきより膨れ上がったいっそう不安な気持ちで、ノブを回してドアを引いた。灯りはついておらず中は暗かった。
もう他にいる場所はない。女は先に帰ったのだ。部屋のどこにも女の姿と持ち物が無いと分かったとき、はっきりそう思った。
おかしいなあ。それならそうと、どうしてひとこと言ってくれなかったのかなあ。入浴中でもよかったのに。
バスルームで考えていた次の約束が取りつけられなかった落胆からか、ため息をつきながらそうつぶやいた。
なんだかよく分からない気持ちのまま、ふと時計に目をやると始業まであと四十分しかなかった。少し混乱した気持ちを持て余しながら、急いで身支度にかかった。
入り口近くの壁に掛けたハンガーに手を伸ばしたとき、背広のポケットから白い紙がのぞいているのに気がついた。亮介には、そこへそんな紙切れを入れた記憶は無かった。
おかしいな。何だろう? そう思って、さっとそれを抜いて、二つ折りの紙切れを開いてみた。そこには細いきれいな文字が並んでいた。
「いろいろ事情がありまして、本当にごめんなさいね。お元気で」
読んだ後、脳裡にはさっきとは別の大きな不安がサッとよぎった。
亮介は急いで右手を背広の内ポケットの一方に突っ込んで、続いてもう一方にも突っ込んだ。
無い! 確かにそこへ入れてあったはずの昨日貰ったボーナスの袋が無い!
まさか! まさかあの人が持ち逃げするなんて。そんな!
亮介には、まだ女が盗んだとは思えなかった。
スーツのポケットではなく、どこか違うところへ入れたのでは? 動転した頭の隅でそう考えると、今度はズボンの四つのポケットに順々に手を入れてみた。両側のポケットの一方に入れてあったハンカチと小銭入れ以外には何も無い。続いて、またスーツをつかみ、両サイドのポケットに荒々しく手を入れた。一方にはキーホルダーと定期入れ、そして最後に手を入れたもう一方の方で、薄い紙の束が指先に触れた。紙幣のようだ。そう思って、それを掴んで手を抜いてみると、思ったとおり薄い千円札の束だった。そこへ入れてはずのない千円札が三枚あった。
それはせめてもの女の思いやりであったのだろうか。
亮介はみるみる気持ちが暗くなっていくのを感じ、体中の力が抜けてきて立っていられなくなり、やがてフロア―にべたっと尻をつけた。
そして出社時間が迫っていることなど、まるっきり忘れてしまったかのように、長い間その場へポカンと座り尽くしていた。
(中略)
それから一週間ほどたって、亮介があの夜以来、再び十三の街へやって来たのは、職場の先輩内田の言葉を信じたからだ。
亮介が「最初は女が勤めているといったデパートに行ってみます」と言ったとき、
「ばか。そんな女が自分の勤め先を正直に言うはずがないじゃないか」と一喝して「探すなら夜の十三だ」と言い張ったのだ。
それもそうだと思い、ちょうど一週間たった水曜日の夜から、またここへやって来たのだ。
そして今夜がその三日目。 簡単には見つかるはずがないと来る前から予想していたとおり、ただ足を引きずって夜の街を歩いていた。
とにかく明日はあのデパートに行ってみよう。
ちょうど「山岸恵美」と最初に出会った地点を駅に向かって歩きながら、亮介は力なく考えていた。
小説「編む女」より、クライシス場面抜粋
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