小説名《うわさ 台風 そして青空》
うゎー ガスだ! 部屋へ一歩入るや否や 強烈なガス臭が強い圧力で顔面を襲ってきた
我ながらよくもあれだけ冷静な処置ができたものだ。文夫が後々までそう思ったあの事故に遭遇したのは、祝賀会の二日後 月曜日の朝だった。
祝賀パーティの席で、本部の浅井と講師たちの間でちょっとしたトラブルがあったものの、文夫としては、その年最後の教室を、やっと開設まで辿りつかせることができて、また生徒数も第一段階の目標である500名を突破して、久しぶりに満足感に満ちたゆったりとした気分で日曜日を過ごし、さあ年度末にもうひとふんばりだ、と気合を込めて出勤したあの朝のことだった。
その頃の文夫はいつも九時少し前に事務所へ着いていた。事務員の沢井多恵は九時十分ぐらいにやってくるので、事務所へはいつも文夫が一番に入っていた。
その朝、入口の鍵を開けるときはまだ気づかなかった。顔に異様な圧力を感じると同時に猛烈なガスの臭いが鼻先に迫ってきたのは、ドアを開けて部屋に一歩踏み込もうとしたときだった。
いや、匂うなんてものではなかった。これまで嗅いだことのないような凄く濃厚なガス臭がブワッと顔に吹きつけてくるような、それほど強烈なものであり、文夫はとっさにポケットのハンカチを取り出して口を覆った。それからとった一連の行動を後で思い出したとき、我ながら心底ゾッとした
階段を駆け下りて外へ出て、やっと口からハンカチを外して大きく息を吸い込んだが、まだ何がなんだかさっぱり分からなかった。
ガス栓はいっぱい開かれていて、火のついていないストーブからシューシューと音を立ててガスが噴出していた。いったいこれはどうしたことなのだろうか。なぜこんなことが? そう考えるのが精一杯で、それ以上のことには考えが及ばなかった。
文夫にしても、事務員の沢井多恵にしても、火の元には普段からじゅうぶん気をつけている。
土曜日の退室時に栓を閉め忘れるようなことは断じてない。
まだ混乱した頭は納まっていなかったが、文夫は二日前の土曜日の退室時のことを思い出そうとした。
その日の夕方六時頃だったか、「塾長、そろそろ時間ですね」と沢井多恵が言い、「そうだな、そろそろ出かけようか、歩いていけば丁度いい時間だろう」と文夫が答え、「塾長、すみませんががストーブの栓お願いします」と、ストーブから比較的近いソファに座ってその夜の祝賀バーティの予定表に目を通している文夫に多恵が言ったのだ。
あのとき、「ああいいよ」と応えてすぐ腰を上げ、まずストーブのスイッチを閉にして、それから二~三歩歩いてガスの元栓を閉めたはずだ。いや、はずではない。二つとも確実に閉めたのだ。
そのときの指の感触だっていまだに思い出せる。それからドア近くにあるロッカーからう上着を取り出し、既に外で待っていた多恵とともにパーティ会場へと向かったのだ。
そして昨日は日曜日。誰も事務所へはやってこない。なのにどうしてガスの栓が開いていたのか。
泥棒だろうか? 盗みに入ったものの、お金もその他のめぼしい物が何もなかったので、腹いせにやったのだろうか? いや、そんなことはないだろう。さっきチラッと部屋を見たけど、別に物色された形跡はなかったようだし。とすればいったい誰が?
文夫は歩道のイチョウの木に背をもたせかけ、ときおり顔をあげて四階の事務所に目を向けながら、つい今しがたの動転した気持ちから少しだけ落ち着きを取り戻して、この思いがけない事故について、あれこれ考えていた。
「塾長、どうされたんですか。そんなところにボンヤリ立って」
斜め後ろのほうからふいに聞き覚えのある声がして、振り向くと沢井多恵が清々しさの中に少し怪訝そうな表情を浮かべて立っていた。
「ああ沢井くん。 よ、よくきてくれた」
「よく来てくれたなんて、おかしいですわ、塾長。今はいつもわたしが出勤してくる時間ですよ」
「そ、そうだったね。いや、さっきまで気が動転していたもので、つい。 沢井くん、実は大変なことがあったんだよ。ほら四階の事務所の窓を見てごらん。ドアを全部開け放っているだろう」
「えっ、ええ。でもどうしてなんですか?」
文夫に促されて四階を見上げたあと、多恵がさっきより更に怪訝そうな表情で尋ねた。
「ガスだよ。ガスが充満していたんだよ。部屋いっぱいに」
「ガスが? それガス漏れなんですか?」
「ガス漏れなんてものじゃない。栓が完全に開け放たれていて、ぼくが部屋に入ったときはシューシューと音を立ててすごい勢いで噴出してたんだよ」
「ど、どうしてそんなことが」
多恵の顔は怪訝な表情から驚きの表情に変わっており、それだけ言うと、睨むように文夫の顔を正面からじっと見ていた。
小説「うわさ、台風、そして青空」より、危機の部分抜粋
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