もうずっと前から私小説対象の最高の文学賞は芥川賞と決まっている。でも例外があった。それが今回のテーマである私小説作家・車谷長吉の作品である。
小説の名前は「赤目四十八瀧心中未遂」という。主人公が「私」の一人称小説だから、大方の人は私小説だと思うだろう。でもこの作品、たいていの私小説作家が受賞する芥川賞ではなく、主としてエンターテインメント作品が対象の直木賞を受賞しているのだ。
常識を破ることだから「なぜだろう?」と、首をひねる人は多いはずだ。
「赤目四十八瀧心中未遂」は私小説のようで私小説ではない?一般的に私小説は作者が経験したことを事実を本に書かれていることが多い。でもこの「赤目四十八瀧心中未遂」について、作者・車谷の妻である詩人高橋順子(注1)は著書「夫車・谷長吉」(注2)につぎのように書いている。
長吉が夏休みが取れたというので、私は「どこかへ連れて行ってください」と頼んだ。「どこへ」と聞かれたので「恐山」と答えた。
後に長吉の代表作となった『赤目四十八瀧心中未遂』にこんな場面がある
「生島さん。うちを連れて逃げて。」
「えッ」
アヤちゃんは下唇を噛んで、私をみていた。
「どこへ。」
「この世の外へ。」
二人はそれから赤目四十八瀧へ心中未遂行に出発するのだが、私が「恐山」恐山と言ったことがこの場面を呼んで来たようにも思える。アヤちゃんはと私に当然ながら共通項七区、アヤちゃんは想像の女で、女優の松坂慶子をイメージしたと長吉は言っていたが、関西で料理場の下働きをいていた八年の間に、あるいは逢ったことのある女性がモデルかもしれない。長吉の小説のヒロインの中でいちばんいい女がアヤちゃんであろう。この小説は私小説ではなく、九十パーセント作り物だと言っていたが、書き終えるまでにはあと四年かかることになる。
出典:「夫・車谷長吉」 文春文庫 65~66ページ
(注1)高橋順子
千葉県飯岡町(現旭市)生まれ[1]。千葉県立匝瑳高等学校卒業[1]。東京大学文学部フランス文学科卒業[1]。青土社などの出版社に勤務[2]。1998~2004年、法政大学日本文学科非常勤講師[2]。
1993年10月、作家車谷長吉と結婚[3]。2005年、車谷、新藤凉子と世界一周の船旅をする。2008年2~5月、車谷と四国八十八ヶ所を巡礼する。ウィキペディア
(注2)夫・車谷長吉
【講談社エッセイ賞(第34回)】この世のみちづれとなって−。11通の絵手紙をもらったのが最初だった。直木賞受賞、強迫神経症、お遍路、不意の死別。異色の私小説作家・車谷長吉...
車谷長吉が芥川賞ではなく直木賞になった3つの理由とは
赤目四十八滝心中未遂は最初文藝春秋の文学界に連載されました。おおかたの人が知っているように文学界に掲載されるは純文学分野の小説が主体です。純文学には私小説が多いので、この小説も一般的には私小説と考えられてきました。純文学系の私小説が対象になる賞は芥川賞です。でもこの作品はその芥川賞ではなく、大衆小説部門の直木賞を受賞しています。これについては大抵の人が「なぜだろう?」と思います。そうなったのには理由があるはずですが、それはどんなものなのでしょうか。考えられるのは次の3点です。
・芥川賞には枚数が多すぎる(文學界編集者談)
・小説としてのストーリーが比較的はっきりしていて、エンターテイメント性も強く大衆小説の要素が豊富
・講談社エッセイ賞を受賞した作品「夫・車谷長吉」で、著者高橋順子氏が語るように、この小説に書かれていることで、作者が実際に体験したことは少なく、全体の90%が創作である。
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「赤目四十八瀧心中未遂」とは
内容説明
「私」はアパートの一室でモツを串に刺し続けた。向いの部屋に住む女の背中一面には、迦陵頻伽の刺青があった。ある日、女は私の部屋の戸を開けた。「うちを連れて逃げてッ」―。圧倒的な小説作りの巧みさと見事な文章で、底辺に住む人々の情念を描き切る。直木賞受賞で文壇を騒然とさせた話題作。
著者等紹介
車谷長吉[クルマタニチョウキツ]
昭和20(1945)年7月、兵庫県飾磨市(現・姫路市)に生れる。昭和43年春、慶応義塾大学独文科卒。広告代理店などに勤務しながら小説を書く。その後、東京を離れ、関西で下足番、料理人となって働く。平成4年に出版された初めての作品集「鹽壺の匙」(新潮社)で芸術選奨文部大臣新人賞、三島由紀夫賞を受賞。平成10年、「赤目四十八滝心中未遂」で第119回直木賞を受賞。その他、小説集に「漂流物」「白痴群」(ともに新潮社)、「金輪際」(文芸春秋)、随筆集に「業柱抱き」(新潮社)がある
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感想・レビュー
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鉄之助
325
車谷ワールド初体験! 大満足だった。長吉を「ちょうきつ」と読む名前からして、独特の世界。働き奴(はたらきど)、迦陵頻伽(かりょうびんが)、蛇(くちなわ)、併し(しかし)、大物(だいもつ)、これまであまり目にしたことのない文字の読み方に、浸りながら読んだ。匂いと湿度感が癖になりそう。2022/01/29
おしゃべりメガネ
187
直木賞受賞作品で本作が初読みの車谷さん作品です。特に大きな盛り上がりはないと思いますが、さすがは直木賞作品とも言うべき'深み'を感じる描写でした。まともな仕事もない脱サラの「生島」は住んでるアパートで、ひたすらモツ肉の串を刺し続けてます。そんなアパートには色々とワケありな住人達がそれぞれ住んでおり、中でも不思議な雰囲気の美女「アヤ」に、どんどん惹かれていきます。そんな「生島」と「アヤ」の危ういやりとりが、とても芸術的に綴られ、魅了されます。決して明るい話とは言い難い作品ですが、さすが直木賞と納得できます。2019/02/02
hiro
155
車谷さんが亡くなったという新聞記事を読んで、2年以上積読本となっていた直木賞受賞作のこの本を読んでみた。昭和53年の尼ヶ崎(尼)を舞台にした私小説。性的な描写を含め、最近は使われない古風言葉、漢字、言い回しと関西弁、そしてアパートでモツを串に刺している、中流の生活を嫌う主人公や‘この町の底に棲息する’登場人物たちのすべてに今の時代とのギャップを感じ、昭和53年よりもさらに古い昭和の時代を感じた。そして私小説のためだろうか、今まで読んだ直木賞受賞作にはなかった読書感だったが、決して嫌な読書感ではなかった。2015/05/27
出典:紀伊國屋書店