確実に小説家になるにはこの道しかない ! ・シリーズ Part 1~Part 5
(Part 3)
わたしのエンタメ小説新人賞応募履歴
私の新人賞応募について述べますと、それは前の章に書いた三つの賞へすべて応募したことです。
いずれも初めての応募でしたが、幸いにも運も味方してくれ三つとも1回の応募で予選通過を果たしました。
三つとも応募数は1,000点を超えており、中でもオール読物新人賞は2,000件近くにも及んでいました。
でも綿密な応募戦略が功を奏したのか、三作品とも初めての応募で予選突破という僥倖に恵まれたのです。自分で言うのもなんですが
メジャーな新人賞三つに、初めての応募ですべて予選を通過したのは、ちょっとした偉業ではないかと、ひそかに自負しています。
満を持して準備万端で臨んだ小説新人賞応募
20代後半ごろより小説執筆を試みていましたが、なんど挑戦してもうまくいかず、挫折のl連続で、いっこうに小説が完成することはありませんでした。
この原因はあきらかに小説執筆の知識、経験の不足である、と判断し、しばらくブランクを置くことにしたのです。
それから20年以上の年月が経って、遅ればせながら、50代に入った早々に再び小説への挑戦を開始しました。
20代後半に失敗したのを反省し、今回は準備万端で臨みました。
準備は小説の執筆に対してだけでなく、それをどこへ、いつ、どのように応募するかについて具体的な戦略を練ったのです。
最初(一回目)のターゲットは創刊されたばかりの小説すばる新人賞
綿密に練った計画で、1回目の応募は小説すばる新人賞をターゲットにし、小説のテーマはニューヨークでの生活にしました。
20代の終りに、エキスチェンジトレイに―(交換研修生)として働いた、NYのスタットラーヒルトンホテルでの出来事と、1年間過ごしたNYの生活などを綴ったものです。
原稿用紙(400字)220枚の中編小説ですが、これを応募作品としたのです。
で、結果はどうだったかと言いますと、応募作品1000点以上の中で、見事予選通過を果たしたのです。
ちなみに、この当時の新人入賞者の中には、後に作家になって大成した篠田節子氏や花村萬月氏(注)も含まれていました。
(注)篠田節子氏と花村萬月氏
篠田節子
1955(昭和30)年、東京生まれ。東京学芸大学卒。東京都八王子市役所勤務を経て1990(平成2)年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。1997年『女たちのジハード』で直木賞、『ゴサインタン』で山本周五郎賞を、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞を受賞。2011年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、2015年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞、2019年『鏡の背面』で吉川英治文学賞を受賞し、2020年紫綬褒章を受章した。他の著書に、『夏の災厄』『弥勒』『ブラックボックス』『長女たち』『肖像彫刻家』『田舎のポルシェ』『失われた岬』『セカンドチャンス』など多数。
花村萬月
1955(昭和30)年、東京生れ。1989(平成元)年、『ゴッド・ブレイス物語』で小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。1998年、『皆月』で吉川英治文学新人賞を、『ゲルマニウムの夜』で芥川賞をそれぞれ受賞。人間の生の本質に迫る問題作を、発表し続けている。『眠り猫』『なで肩の狐』『鬱』『二進法の犬』『百万遍 青の時代』『私の庭 浅草篇』『たびを』『愛情』『錏娥哢た』『少年曲馬団』『ワルツ』など著書多数。
(1回目応募作品)
*小説すばる新人賞(集英社)・1000点以上の応募作品の中から10%の一次予選通過。
応募作品タイトル「ニューヨーク西93丁目の青春」400字原稿用紙
220枚
新人賞予選通過作品の発表号(作品冒頭2000字)
ニューヨーク西93丁目の青春 およそこの乗り物には似つかわしくないガタゴトという騒々しい音をたてながらドアの閉まるエレベーターを背後にして、修一はおもむろにズボンのポケットに手を突っ込み
ひやっとした感触を指先に感じながらジャラジャラと鳴るキーホルダーを取り出した。 エレベーターからほんの5~6歩も歩けばそこに入り口のドアがある。 「エセルはまだ起きているだろうか」そう考えながら色あせたドアの上の鍵穴に太い方のキーを突っ込んでせっかちに回し、続いて下の穴へもう一本の細い方を差し込んだ。 下宿人としてこの家に初めて来たとき、通りに面した一階の正面玄関にも大きくて丈夫な鍵があるのに、どうしてこの6階の入り口のドアにもさらに二つのキーがついているのだろうかと、その念のいった用心深さをいささか怪訝に思ったものだが、後になって家主のエセルにその理由を聞かされ、なるほどと思った。 ここウエストサイド97丁目はマンハッタンでも比較的アップタウンにあたるウエストサイドの一画に位置している。 この地域も今から約半世紀ほど前の1930年くらいまでは、マンハッタンの住宅地の中でも比較的高級地に属していて、住む人々も、上流階級とまではいかないが、その少し下に位置するぐらいの、まずまずのレベルの人が多かった。 しかし年が経って建物が老朽化するに従い、どこからともなく押しかけてくるペルトリコ人が大挙して移り住むようになり、それにつれて前からの古い住人はまるで追われるかのように、次第にイーストサイドの方へ引っ越していった。 そして50年たった今では、もはや上品で優雅であった昔の面影はほとんどなく、その佇まいは煤けたレンガ造りの建物が並ぶ灰色の街というイメージで、スラムとまではいかないが、喧騒と汚濁に満ちた、やたらと犯罪の多い下層階級の街と化してしまったのだ。 住人の多くをスペイン語を話すペルトリコ人が占めているということで、今ではこの地域にはスパニッシュハーレムという新しい名前さえついている。 今年71歳になり、頭髪もほとんど白くなったエセルは、口の端にいっぱい唾をためながら、いかにも昔を懐かしむというふうに、こう話してくれた。 ここまで聞けばどうしてドアに鍵が多いのか修一にも分かった。つまりこの辺りは、犯罪多発地域で、泥棒とか強盗は日常茶飯事であり、ダブルロックはそれから身を守るための住人の自衛手段なのだ。 そう言えば、つい3日前にも、ここから数ブロック先の一○三丁目のアパートで、白人の老女が三人組の黒人に襲われて、ナイフで腕を突き刺されたうえ金品を盗まれたのだ、と昨日の朝、いきつけのチャーリーのカフェで聞いたばかりだ。 そんなことを思い出しながら、ドアを開け薄暗い通路を進み、正面右手の自分の部屋へと向かった。すぐ右手のエセルの部屋のドアからは明かりはもれていない。 どうやら今夜はもう眠ったらしい。 今はマンハッタンのミッドナイト。昼間の喧騒が嘘みたいに、辺りは静寂に包まれている。部屋の隅にあるスチームストーブのシュルシュルという音だけが、やけに耳についた。 それにしても今夜のエセルは静かだ。 このアパートへ来てしばらくの間は彼女が喘息持ちだとは知らなかった。ましてや深夜に激しく咳き込んで下宿人を悩ますなどとは思ってもみなかった。 もしそうだと知っていたのなら、月250ドルの下宿代をもっと値切っていたはずだし、さもなくば、部屋の防音をもっとよくチェックしたはずだ。
エセルの寝室は壁ひとつ隔てたすぐ隣にある。壁はそこそこの厚みがあり、声や物音が筒抜けになるという訳でもないが、リビングルームに面して隣り合わせて並ぶドアの隙間から迂回してくるものが意外と大きい。
それでも越してきて4~5日ぐらいは何事もなかった。辺りのただならぬ気配に目を覚まさせられたのは、一週間経つか経たない日の深夜であった。
目を覚ます前、夢の中で人が咳き込んでいるのを長い間聞いていた。そしてそれ
がドアの方へ 移動して一段と大きくなったところで目を開けて起き上がった。 リビングルームの方からエセルが激しき咳き込んでいるのが聞こえた。
断続的な咳の間には、苦しそうな呻き声も入っていた。 これはほっとけない。 そう思った修一はベッドを抜け出してリビングの方へ歩いていった。 中に入るとソファに座って激しく咳き込んでいたエセルが振り向いてチラッと見たが、またすぐうつむいてゴホンゴホンと咳き込んだ。
「どうしたのエセル、だいじょうぶかい?」そう聞きながら、とりあえずこうした場合は背中でもさすってあげるしか方法はないと思った。女性とはいえ、だらりと肉がたるみ、ぶよぶよとした老女の背中をさするのは決して心地よいものではなかった。
ニューヨークへ着いて早々、しかもこんな深夜に、いったいなんたることだ。眠くてたまらない眼をこすりながら修一は胸の中でそうつぶやいた。
|
(このシリーズ 今後の掲載予定日)
(Part4) 11月 5日
(Part5) 11月15日
0 件のコメント:
コメントを投稿