鳴り物入りでスタートした法科大学院だが、その草創期の卒業生の新人弁護士が、実社会でなかなか仕事にありつけなくて困っていると最近のメディアがよく報じている。
だが、実際にそうなのだろうか。
法科大学院開学以来、ここ数年で一定数の弁護士が増えたとはいえ、国内の弁護士総数は2万9千人あまりで、まだそれほど大きく増えたという実感はない。
一方、弁護士大国と言われるアメリカはどうだろうかと言うと、なんと106万人という桁違いの数で、実に日本の約35倍もの数なのである。
人口が倍ということを割り引いても17~8倍である。
一体この差は何なんだろう。
それについて考える前に、ここで少し観点を変えて、日米の経済規模の差はどうなのかと、それを表す代表的な経済指標のうちGDPについて眺めてみた。
2007年度の統計によると、日本の一人当たりGDPが3万4千ドル、それに対してアメリカは4万6千ドルであり、その差は思ったほどでなく、けっこう肉薄しているのである。
およそ国家の勢いを表すいろいろな数値というものは、その経済規模に準じて現れることが多い。
そういう観点に立てば、どう見ても日米のいちじるしい弁護士の数の差はとても不思議に思える。
その経済規模から考えて、大所帯のアメリカの弁護士の生計が成り立っていて、うんと小世帯の日本の弁護士が、たとえ新人とは言え、その生計を脅かされているのはなぜなのだろうか。
どうやらこれについて答えを出すには、別の観点から考える必要がありそうだ
もしかしてこれは、日米の「社会の成熟度の差」が原因なのではないだろうか。
言い換えれば「文明度の差」とも表現することもできるのだが。
つまり、弁護士を必要とするシチュエーションは「争いごと」においてなのだが、日本人は極力そうした場面から遠ざかろうとする傾向があり、言わば「争いごとに積極的に対峙して弁護士介入も辞さない」というような考えに立つことが少なく、こうした面ではまだ民度の低い社会に住んでいるのである。
すなわち、根本的に性善説の社会に住んでいて、アメリカのように「目には目を」とか「歯には歯を」という立場に立つことが少ないのである。
したがって、争いごとは白黒の決着をつけないまま終わらせてしまうため、仲裁役の弁護士などの出る幕を奪ってしまっているのである。
こうした観点から考えて、争いごとに面と向かわない日本人の精神風土を変えない限り、弁護士の出番が大きく増えることは無いのではあるまいか。
こうした状況が続く限り、仕事を増やす為には弁護士自らが努力を払うしか方法が無いのである。
たとえば英語に「アンビュランスチェイサー」という言葉があるが、これはアンビュランス(救急車)をチェイス(追っかけ)して何らかの事件現場へたどり着き、そこで仕事の糸口を探すというアメリカの売れない弁護士を称していう言葉なのだが、争いごとと事件の多いアメリカの弁護士でさえ、ここまで努力を払っているのである。
仕事の無い日本の新米弁護士もこうした彼らの姿勢に学んで、みずから仕事獲得への道を開拓していくことこそ、争いごとの現場に立つ身としての実力をも高めていくことになるのではあるまいか。
たかが3万人弱では、まだまだ日本に弁護士が多すぎるとは言えない。
陰ながら、新米弁護士諸氏の奮闘を祈る。
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