海外の文学作品でものを言うのは、なんと言ってもその翻訳者の力量である。
いかに高名な作家の作品であろうとも、翻訳者次第で良くもなり悪くもなったりするものなのである。
立派な出版社の作品だから、まず大丈夫だろうなどと安心して読み始めたりすると、これが大きな当て外れで、とんでもなく下手な翻訳作品に出会ったりするのはよくあることだ。
およそ翻訳者と呼ばれる人たちは、少なくても2カ国以上の言語に通じていなければならないのだが、単に通じているだけでなく、その国語力においては並外れた力量を備えていなければならないのである。
つまり、日本人の翻訳者が英語の文学作品を翻訳するとすれば、英語の力はもちろんのこと、それ以上に必要なのが国語としての日本語の優れた読解力と表現力なのである。
翻訳という作業のパターンには一般的に言って、直訳、意訳、翻案という3種類のものがあるようだが、力量の無い翻訳者であれば、翻案というのは別にして、意訳の力が不足しており、必然的に文学作品には不向きな直訳パターンに向かわざるを得ないという事情がある。
そのため、出来上がった日本語の文章はギスギスしており極めてぎこちなく、全体的に味気ない文体に終わってしまっているのである。
それはまるで機械翻訳のごとく、定型的で応用力の乏しい文章であり、読み手をただイライラと落ち着かさなくさせるだけのまずい表現に終始しているのである。
そんな文章に出会った時には、翻訳に素人の読者でさえ、いったい元の原語の文章はどうなっているのだろうかと、思わず考え込んでしまうのである。
そんなまずい翻訳の作品を世に出してしまう出版社も考えもので、何故中途段階で気づいて翻訳者を交代させたりしないのであろうか。
それが大手出版社であればあるほど、そうした点が大いに不可解に思えるのだが。
実は今回このテーマでブログを書くことになったのは、最近私自身が2度連続して、極めて下手な翻訳作品に出会ったからであり、結果として2冊とも途中で読むのを中断してしまった悔しさからなのである。
いずれも代表的な大手出版社から出されている作品だが、関係者の名誉のために、ここでは大所高所の見地から、作品名と著者名と出版年度だけを挙げるに留めて、注意を喚起しておきたい。
(作品その1) エミール・ゾラ著 「居酒屋」 1974年
(作品その2) ジャック・ケルアック著 「路上」 2007年
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