2023年8月27日日曜日

エンタメ小説の書き出し2000字 シリーズ1~8 (その2)



書き出しの2000字を読むだけで


面白いか否か」「読まれるかどうか」「売れるか売れな

いか


がわかる

・・・・・・・・・・・・・

(その2) 


ナイトボーイの愉楽

 

いつもなら道夫は梅田のガード下でバスを降りて、そこから職場のある中之島まで歩いて行く。でもその夜は阪神百貨店の前で南へ向かう路面電車に乗ることにした。

 始業まであと十二~三分しかなく、歩いてではとうてい間に合わないと思ったからだ。


 商都大阪にもその頃ではまだトロリーバスとかチンチン電車が走っており、今と比べて高層ビルもうんと少なく、街にはまだいくばくかの、のどけさが残っていた。


 これは道夫がちょうど二十になった時の昭和三十七年頃の話である。


 電車は時々ギイギイと車輪をきしませながら夜の街を随分ゆっくりと走っているようであったが、それでも五分足らずで大江橋の停留所へ着いており、歩くより三倍位は速かった。電車を降りて、暗いオフィス街を少し北に戻って最初の角を右に曲がると二つ目のビルに地下ガレージ用の通路があって、それを通るとNホテルの社員通用口には近道だ。


 始業まであと三分しかない。ロッカールームで制服に着替える時間を考えると、どのみち間に合わないとは思ったものの、この際たとえ一分でもと、そのガレージの斜面を小走りに下って行った。そのせいか、タイムカードに打たれて時間は九時五十九分であやうくセーフ。でも地下二階のロッカールームで制服に着替えて職場のある一階ロビーまで上がって来た時は、十時を七分も過ぎていて、ちょうど昼間のボーイとの引継ぎを終え、まるで高校野球の試合開始前の挨拶よろしく、向かい合った二組のボーイ達が背を丸めて挨拶している時だった。


 まずいなこりゃあ 引継ぎにも間に合わなくて。今月はこれで三度目か。リーダーの森下さん怒るだろうな。 道夫はそう思ってびくびくしながら森下が向かったフロアの隅にあるクロークの方へ急いだ。


 森下はクロークの棚に向かって、その日預かったままになっている荷物をチェックしていた。

 「浜田です。すみません、また遅刻して」 道夫は森下の背後からおそるおそる切り出した」 「浜田か。おまえ今日で何度目か分かっているのだろうな」

 「はい。確か三度目だと思いますが」

 「そうか。じゃあこれもわかっているだろうな。約束どおり明朝から一週間の新聞くばり」

 「ええ、でも一週間もですか? そりゃあちょっと」

 「この場になってつべこべ言わないの。約束なのだから」


 道夫はつい一週間前も二日連続で遅刻して、罰として三日間、朝の新聞くばりをさせられたばかりだ。そしてもし今月もう一回遅刻したら翌朝から一週間それをやらせると、この森下に言われていたのだ。


 あーあ、また一週間新聞くばりか。 想像するだけで気持ちがめいり、そう呟くと森下の背後でおおきなため息をついた。

 夜の十時から朝の八時まで勤務するナイトボーイ達にとって、早朝のこの新聞くばりほどキツイ職務はない。オフシーズンで客室がすいている時ならまだしも、今のような四月の半ばだと、三百室ほどあるこのホテルの客室は毎日ほとんどが詰まっている。


 その客室のすべてに新聞を配って歩くのだ。森下リーダーを除く八名のボーイが毎日二名づつ当番で当たっており、普通だと三~四日に一回の割でまわってくる。

 まだ半月しかたっていないというのに、遅刻の罰の分も含めて道夫は今月もう六回も当たっていたのだ。それをさらに明朝から一週間もやらねばならないのだ。


 でも仕方ないか。それを承知で遅刻したのだから。そう思いながら立ち去ろうとした時、森下が言った。「浜田、まあそんなにくさるな。もしお前が明日からしばらく遅刻しなければ最後の二日ぐらいはまけてやってもいいから」 

 「えっ本当ですか。しませんよ絶対に。じゃ五日間でいいのですね」

 少しだけ気持ちが軽くなった思いで、さっきより明るい声で答えた。

 「まあそれでいいけど。ただしお前が明日から連続五日間一分たりとも遅刻せず出勤した時に限ってだよ。いいね。 おいそれより仕事、仕事、ほらチェックインのベルが鳴っているじゃないか」


 森下のその声に促されて、振り返ってロビー手前のフロントカウンターの方を見ると、フロント係の上村さんがボーイを呼ぶベルをせわしげに押していた。

 「あれっ、誰もいないのだな。行かなくちゃ」 いつもならチェックイン担当として、ロビーには四~五人のボーイが待機しているのに、この時はみな出はらっていて、道夫以外は誰もロビーにいなかった。


「森下さん、じゃあ僕行きます。どうもすみませんでした」

 森下に向かってピョコンと頭を下げた道夫は、フロントカウンターの方へと小走りに進んでいった。カウンターの前で待っていたのは新婚らしい若いカップルとビジネスマン風の中年白人の外国人男性だった。上村さんは先客カップルの方のルームキーを道夫に渡した。


 「お待たせしました。お部屋の方へご案内いたします」 そう言ってそのカップルに向かって深々とお辞儀をした後、両手に荷物を持ちエレベーターへと向かっていった。

 背後に二人を従えて歩きながら思った。 しめしめ、最初のチェックインの客が新婚カップルとは、今日はついているぞ。この二人だとチップも千円は下ることはないだろう。

 頭の中に過去のデータを思い浮かべながら、そんな皮算用してほくそ笑んだ。


 およそこうした都市ホテルの客の中で、日本人の新婚カップルほで気前のいい人種はない。旅慣れたビジネスマンだと五百円までがいいとこのチェックインのチップだが、新婚客だと、部屋に荷物を持って案内するだけのこの簡単な仕事に、千円や二千円はざらに奮発してくれるのだ。それどころか、先月などは三千円というのが三回もあった。




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