書き出しの2000字を読むだけで
「面白いか否か」「読まれるかどうか」「売れるか、売れないか」
がわかる
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(その3)
直線コースは長かった
桜も散り青葉が目にしみる五月に入ったばかりの月曜日のその日
外には爽やかでこの上なく心地よい春風がふいているというのに、久夫は退社時の夕方になっても
まだむしゃくしゃした気分をもてあましていた。
「ちくしょう、あのパンチパーマの野郎め!」
事務所を出て、いつものように駅前のバス停に向かって歩きながらまたこみ上げてくる新たな悔しさから、腹の底から呻くような声でそう呟いた。
ついこの前までは丸裸だった歩道のイチョウの木には、いつの間にかまた青々とした葉が生い茂っており、いつもなら延々とつづくそのイチョウの並木を感慨深く眺めて歩く久夫だが、その日だけはそれもとんと目に入らなかった。
それにしてもうまく引っ掛かったもんだ。どうだろう、あの見事な騙されぐあいは、いったいあんなことってあるのだろうか?
バス停へ向かう道を半分くらいあるいたところで、昨日の競馬場での出来事をまた苦々しく思い出していた。
その日曜日も空は澄みわたっており、風は爽やかだった。
駅前から北へ向かい、街並みが少しだけとぎれて、自衛隊の駐屯所があり、そのちょっと手前に競馬場はある。久夫がそこへ着いたのは昼少し前で、ちょうど場内アナウンスが第二レースの発走まであと五分だと伝えていたときだった。
去年本社のある大阪からこの町の支店に赴任してきて、ここへ足を運ぶのは二度目のことだった。久夫は競馬にかぎらずギャンブルはあまり好きなほうではない。それなのに日曜日のこの日、昼前からここへやってきたのは、朝起きてベランダへ出たとき、空があまりにも青く澄みわたっており、吹く風がこの上なく爽やかだったからだ。つまり、心地よい春の風に誘われてというわけなのだ。
でも、正直いうとそれだけが理由ではない。三ヶ月ほど前、職場の同僚に誘われて、さして気の進まないままここへやってきて、よくわからないまま当てずっぽうで買った第七レースの穴馬券が見事的中して、千円券一枚が九万四千円にもなったのだ。その後のレースで一万円ほど負けたが、その日の儲けは八万円以上あった。
空の青さと風の爽やかさに誘われてやってきたと言えば聞こえはいいが、実のところ、あの日の甘い汁の味も忘れられなかったからなのだ。
入場ゲートを入って観覧席の方へ向かう長い通路を歩きながら久夫は思った。ポケットの五万円、帰るまでにはなんとか倍の十万円にはしたいな、この前のような大穴が当たることはないだろう、所詮あれはビギナーズラック、今日はかたそうな馬券ばかりねらって一レースずつ確実に増やしていこう。それだとこの元手を倍にするのもそう困難なことでもないだろう。
帰りにはこの五万円が十万円になっているか、悪くないな。そうだ、五万円勝ったら今夜またあの店へ行ってみよう。〈涼子〉といったなあの娘、まだいるだろうか? それにしてもあの夜はラッキー続きだったもんだ。
観客席に向かって歩きながら、八万円勝ったあの日の夜のことをさも楽しげに思い出していた。
魚屋町は駅前の大通りを少し北へ進み、最初の交差点を渡ってから三本目の筋を左折したところの一帯にあるこの地方最大の歓楽街だ。半径三百メートルほどのこの一画だけでも、飲食店の数が三千店弱で、人口五十万の都市にしてはなんとも大きな数ではないか。
久夫は、酒は好きなほうだったが、普段はこの街にはあまり出入りしなかった。安月給の身にとって、この街のほとんどの店は懐具合からみて、いささか敷居が高かったからだ。
学校回りの教材のセールスマンになって今年で三年、まだ青二才の久夫が日頃よく行く店といえば、駅前の地下にある安スタンドか、路地裏の赤ちょうちんであり、一回の勘定が三千円を超えないところ、この数年間ずっとそうだった。でも競馬で八万円勝ったその夜は違っていた。
さてどこへ入ろうか。その街の中ほどまで来たところで久夫は立ち止まってぐるりと辺りを見渡した。三ヶ月ほど前に来た〈ダート〉という店、確かこのあたりのはずだけど、いや待てよ、もう一本向こうに筋だったかなあ。歩いていてふと思い出したその店に行こうときめ、場所もうろ覚えのそのスナックを探して歩いていた。
二月の終りで、まだ時折冷たい北風が吹いているのに、久しぶりに踏み込んだこの街を行き交う人の数は思ったより多く、辺りはかなりの活況を呈していた。やはり今の世の中景気がいいんだろうか?バブルとか何とかで。
次の筋を左に折れると、すぐ左手に見覚えのある茶色っぽいレンガ造りのビルがあった。ああ、あそこだ。確かあの四階だったな。ビルの中へ入り、壁に貼った案内板で念のためフロアを確認してからエレベーターに乗ってボタンを押した。
ダートというあの店の名、ひょっとして競馬のダートと同じ意味なのだろうか。
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