(シリーズ2)
人は誰でも歳をとると昔のことをよく思い出しますが、私にとってもっとも多いのは家族の思い出です。中でもことさら愛おしく蘇るのは在りし日の母のことです。
母は書くことが大好きですから、手紙を書くのは何ら苦にならなかったのではないでしょうか。いや苦にならないどころか、むしろ楽しんでいたと言った方がいいかもしれません。
それにしても子供が5人いて、2人は近くにいますが3人は遠く離れて暮らしていましたから手紙は相当な数に及んだのではないでしょうか。
中でも多かったのたぶん私で約50通近くありましたから、3人合わせると優に100通を超えていたのではないでしょうか。
ここでは壮年期に私が母からもらった手紙の中から、十数点をご紹介しながら、当時を振り返ってみることにします。
母の手紙(その3)
(文面)
猛暑、酷暑と云う言葉も、ここ四五日は使わなくても良い暑さですが、でも今日も岡山は三十三度と云う気温ですよ。でも扇風機だけで机に向かって書く気持ちになれるだけでも有難いと思います。同封のノートは昭和五十四年から書いたものですから汚くてわるいですけど書き直さなくてそのまま送ります。十五年前に書いたものですが、今読んでみてもべつに違和感はありません。一時間程かけて読んで仕舞いましたからそのまま送ります。あの後から書いたノートも三冊ほどあります。新聞の切り抜きはまだ沢山ありますが、一度私が読んで得心したら送ります。中には小説のことをことを書いたものがありますが貴方に小説を書く様すすめるものではありませんよ。あなたが幸福なら私も幸福です。あなたが不幸なら私も不幸です。お互いに前向きに頑張って生きて行きましょう。体に気をつけて元気にお暮しください。私も私も年相応の動きで動きで頑張って生きてゆきます。 ではさようなら
庸夫様 雪野
この手紙を受け取ったころ
文面からすると平成5年ぐらいに受け取ったものではないでしょうか。昭和54年ぐらいから書いた「つれづれの記」(写真上)と題したノートを15年経って送ってくれました。その後も1冊送ってくれましたが、全部で4冊あると言っていましたから、他の2冊はきょうだいの誰かに送ったのでしょうか。それにしても4冊のうち2冊を5人きょうだいの一人である私に送ってくれたのは、多分きょうだいの中で書くことが最も好きなのが私だと思ってのことなのでしょう。平成5年は1993年にあたり、私が52歳の時で依然としてフランチャイズの児童英語教室(生徒数が減少して衰退期に入っていた)を運営していたころです。思えはば母からの手紙はこの時代がいちばん多かったのではないでしょうか。割と職業を転々とした私ですが、この仕事は約20年継続して、期間が比較的長かったからだと思います。
母の手紙(その4)
(文面)
夏の暑さも区ぎりがついたようですね。朝夕はほっとします。
新聞の切り抜き どんな事を切り抜いているかと、少しだけ読んでみたのですけれど、昭和六十年頃からの切り抜きで、それから二十年 今の時代にそぐわない事が書いているかもわかりませんね。昨年七月 腰を痛めてから一年間切り抜いていません。ノートに書き移したのはありますけど、それは満杯になったら又送ります。
お酒の量をあまり増やさない様、気をつけてお暮しください。
庸夫様 雪野
この手紙を受け取ったころ
母は新聞の切り抜きのことをよく手紙に書いていますが、この事からも切り抜きがよほど好きだったことが伺われます。送ってもらった切り抜きは優に手紙の数の3倍ぐらいあったのではないでしょうか。高齢者にとって良い趣味だったのではないかと思います。今になって毎日せっせと新聞の切り抜きに精を出す母の姿が目に浮かびますが、当時「良い趣味だねえ」と、うんと褒めて上げなかったことが悔やまれます。
次回掲載予定
シリーズ3 2月02日
シリーズ4 2月10日
シリーズ5 2月20日